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真田丸/真田山(大阪天王寺区)

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詳細 2017年3月29日 05:20更新

真田丸(眞田丸)、真田山(公園・地区)に興味がある、

近くに住んでいる等、ご関心がある方、幸村ズキはぜひご参加下さい!


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http://www2u.biglobe.ne.jp/~sanada/sanada/sanada/fuyu.html
http://tikugo.com/osaka/kassen/sanadamaru-k.html

大阪冬の陣、布陣図 (拡大)
http://upload.wikimedia.org/wikipedia/commons/6/62/Osaka_no_eki_winter.png



真田丸(さなだまる)は、慶長19年(1614年)の大坂の陣(冬の陣)において、豊臣方の真田信繁(幸村)が大坂城の平野口に構築した出城(曲輪、防御構造物)である。 単独で機能する小城砦で、甲州流築城術の丸馬出、西洋築城術の稜堡に相当。

概要

豊臣秀吉が築いた大坂城は上町台地の北端に位置し、周囲を淀川、大和川などに守られた堅城であったが、南方だけは平坦な台地に空堀を設けたのみで、防御が手薄であった。

1614年、豊臣氏と徳川方が一触即発状態となり、大坂方は諸国から浪人衆を集める。幽閉中の高野山から脱出して大坂城に入城した真田信繁は、積極的な出撃を主張するが、大坂方は篭城策を採る。

信繁は1600年(慶長5年)に、父の真田昌幸が指揮した上田城の戦い(第二次)において馬出しを利用した戦術を経験しており、信繁は南からの攻勢を想定し、平野口に独立した出城を築き、自らが守備につくことにより徳川方の攻撃を食い止めようとした。

12月4日早朝、徳川方の前田利常、井伊直孝、松平忠直らの軍勢が挑発に乗って攻勢を開始し、真田丸の戦いが行われる。ここで信繁は徳川方の兵を策によって多く引き込み、散々に打ち破ることに成功した。

冬の陣の終了後、和議の条件により真田丸は破壊された。

構造

構造は東西180メートルほど、半円形の曲輪で、出口は後方と両脇に位置。三方に堀、塀を配し、外側には三重の柵を敷いた。陣図屏風などの絵図では、方型の角馬出しとしてかかれる。

史料

『山口休庵噺』
『慶元記』

関連項目

曲輪#馬出
虎口#馬出
真田山 - 大阪市天王寺区真田山町周辺の地名。真田丸の跡地と考えられる。
三光神社 - 真田山に鎮座する神社。境内に大坂城からの抜け穴とされる跡が残っている。
甕城
続・戦国自衛隊 - 作中の大坂の陣(開戦時期が、史実の1614年からに大幅に前倒しされて1602年に改変)において、島和武二等陸尉を中心とする自衛隊員(御伽衆)が史実の真田丸に相当する出城「さくら丸」を築く。さくら丸の構造は自衛隊員の持つ400年間の軍事技術の進歩に関する知識を反映して、五稜郭や(そのモデルとなった)西洋のヴォーバン型要塞に似た星形になっている。

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%B8%B8



真田丸の戦い

戦争:大坂の役・大坂冬の陣
年月日:1614年(慶長19年)12月4日
場所:摂津国 大坂城南端
結果:豊臣軍の勝利。幕府軍退却

指揮官
真田丸正面: 前田利常 他
八丁目口・谷町口: 井伊直孝、松平忠直 他
真田丸: 真田信繁
八丁目口・谷町口: 後藤基次、木村重成、長宗我部盛親 他

戦力 26,000以上 17,000以上
損害 不明

真田丸の戦い(さなだまるのたたかい)は、豊臣家の江戸幕府に対する最後の抵抗を鎮圧するために行われた大坂の役のうち、1614年(慶長19年)末に発生した大坂冬の陣における戦いの一つ。一般に、呼称の示すとおり真田丸のみで戦闘が起こったように思われているが、実際は大坂城南側全面に渡って戦闘が発生している。

概要

豊臣方が大坂城付近の砦を放棄して城内に撤収した後、幕府軍は大坂城を完全包囲した。真田丸正面には前田利常率いる兵12,000の他、南部利直、松倉重政、榊原康勝など数千、八丁目口・谷町口には、井伊直孝の兵4,000、松平忠直の兵10,000、他数千が布陣していた。真田丸には真田信繁指揮の兵5,000[1]、八丁目口・谷町口には木村重成、後藤基次、長宗我部盛親など、兵12,000以上が配置されていた。

12月2日、徳川家康は本陣を住吉から茶臼山陣城に、徳川秀忠は平野から岡山に移した。家康は前田利常に、塹壕を掘り、土塁を築き、城を攻撃しないよう指示した。 真田丸の前方には篠山と呼ばれる丘があり、真田が兵を配置していた。前田勢が塹壕を掘り始めると、この篠山から狙撃し作業を妨害した。

12月3日、大坂城内で、南条元忠が幕府軍に内通していることが発覚した。南条は城内で切腹させられたが、豊臣軍は南条が引き続き内応しているように見せかけ、幕府軍を欺いた。

12月4日、前田勢は、篠山からの妨害に悩まされていたため篠山の奪取をもくろんだ。前田勢の先鋒本多政重、山崎長徳らが夜陰に乗じて篠山に攻め上がったが、真田勢は城内に撤収しておりもぬけの殻だった。夜が明けると、肩すかしを食った前田勢を真田勢がさんざんに愚弄した。前田勢はその挑発に乗ってしまい、真田丸に攻めかけた。真田勢は、前田勢が充分城壁にとりついたところに銃撃を浴びせ、前田勢に大損害を与えた。前田利常は、将達が命令なく攻撃したことに怒り、兵を撤収させようとした。

前田勢の攻撃を知った井伊、松平勢もそれにつられる形で八丁目口・谷町口に攻撃を仕掛けた。この時、城内で火薬庫が誤って爆発する事故がおこったが、その音を聞いた幕府軍は南条の内応によるものと勘違いし、さらに激しく攻めかける結果になった。豊臣軍は城壁に殺到する幕府軍に対しここでも損害を与えた。

これらの惨状を知った家康は退却を命じた。しかし、竹束や鉄楯を持たずに攻めてしまっていたため[2]、敵の攻撃に身動きがとれず退却は難航、午後三時をすぎようやく完了した。

退却後、家康は各将を呼んで軽率な行動を叱責し、以後、竹束・鉄楯を必ず使用するよう厳命した。

脚注

^ 後藤基次の近習、長沢九郎兵衛は、「真田丸は真田と長宗我部で半分ずつ受け持っていたが、世間には真田一人の出丸のように思われている」と語っている。
^ このことから、もともと幕府軍に本格的な攻撃予定はなかったと言われる。

参考文献

『戦況図録 大坂の陣』(新人物往来社 別冊歴史読本56)
『激闘 大坂の陣』(学研 歴史群像シリーズ【戦国】セレクション)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9C%9F%E7%94%B0%E4%B8%B8%E3%81%AE%E6%88%A6%E3%81%84


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