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阪神タイガース和田豊監督日虎会

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詳細 2014年8月13日 06:49更新

わが日本大学の大先輩、

阪神タイガースの和田豊監督を応援するコミニテイ。

和田豊先輩経歴

我孫子高校では、1年生で夏の甲子園に出場。日本大学へ進学。東都大学1部リーグ通算78試合出場、288打数94安打、打率.326、4本塁打、22打点。ベストナイン2回。1983年春季のリーグでは首位打者になる。1984年のロサンゼルスオリンピック野球日本代表として出場し、金メダルを獲得した。この年、阪神タイガースにドラフト3位で指名され入団。同年限りで引退した藤田平の後継者として期待され、藤田がつけていた背番号6を与えられた。

1年目の1985年、山脇光治と入れ替わる形で一軍に昇格(プロ初打席は四球だった)。新人選手ながらチーム初の日本一達成に控え内野手として貢献した。1988年に就任した村山実監督より、大野久・中野佐資と共に“少年隊”と命名され、同年に遊撃手としてレギュラーに抜擢されると、当時の日本記録を更新する56犠打を記録した。翌1989年にも最多犠打となり、小技と堅実な守備でチームの中心選手となった。1988年にはスイッチヒッターにも挑戦した。

1990年には、自身初の打率三割を記録。本塁打8本は生涯最高の本数となった。長打率も生涯唯一4割を超えた。また同年の三振わずか59個が生涯ワーストの数字ともなった。

当初、打順は2番が多かったが、勝負強く三振の少ない打撃を買われて徐々に1番に定着し、暗黒時代の阪神をチームリーダーとして引っ張った。守備にも定評があり、1992年から3年連続で二塁手としてゴールデングラブ賞を受賞した。また、同年は入団した年以来となるチームの優勝争いに貢献し、ベストナインにも選ばれた。芸術的な流し打ちや、初球から余り手を出さないものの、追い込まれてからの勝負強さを武器に「安打製造機」として活躍し、通算1739安打を記録した。特に通算安打は、1993年にリーグ最多安打(当時はタイトルではない)となるなど、好守の内野手として活躍した藤田平と吉田義男に続き、阪神史上第3位にあたる。一方、極端に長打の少ない打者として知られ、1991年から1993年まで、規定打席に達していながら3年連続で0本塁打であった。1994年5月25日の巨人8回戦(甲子園)で打った2点本塁打は1930打席ぶりに出たものであって、走者を置いての本塁打はプロ入り3673打席目で初めてだった。

1994年に自己最高の成績を残し首位打者争いにも加わり、シーズン終了後の契約更改で阪神の生え抜き選手としては初の1億円プレーヤーとなる。この年の打順は前半戦は1番、後半戦はロブ・ディアーの不振に伴い3番を任されていた。翌1995年は前年最終戦で自打球を足に当て骨折した影響から不振に陥り、関川浩一に1番を譲り2番を打つことが多くなった。1996年は開幕スタメンを7番でスタートするが、5月下旬には1番に戻り成績も復調。11月に行われた日米野球にも出場。特に甲子園での試合では野茂英雄から三塁打を放ち5打点を挙げる活躍をみせた。1997年はシーズン当初から好調を維持し、開幕からの連続安打としては日本記録となる24試合連続安打を放つ。しかし7月の対中日戦で死球を受け左手人差し指と中指を骨折、9月まで2か月間戦線を離脱する。1998年には結膜炎にかかり、一時期眼鏡をかけて出場していた。1999年に野村克也が阪神の監督に就任した際「監督が変わっても僕達は変わらない」と発言したため、初めてのミーティングの際に野村から「変わらないからチームが低迷したままなんだ」と叱責を受けた。

2001年に選手兼任で打撃コーチに就任。しかし選手との両立は困難であり、1988年以来続けていた開幕スタメンも途切れる。開幕から7月まで20打席以上ヒットの出ない日々が続き、初ヒットが出たのは7月11日であった。選手としては二度の二軍落ちを経験する一方、コーチとして一軍に帯同したため練習時間の確保ができず、特にビジターの球場ではそれが顕著であり感覚がずれないよう一般のバッティングセンターに通うこともあった。9月21日に現役引退を表明し、10月1日が引退試合となる。この年唯一のスタメンとなった試合で、右前ヒットと四球で二度出塁、二度ともホームを踏み最後まで自分の役割を果たす。この日が最後の指揮となった巨人の長嶋茂雄監督(同じ千葉県出身でもある)への花束贈呈式の後、和田の引退セレモニーが行われた。スピーチの際、球団関係者・同僚への感謝の言葉に続き「…日本一の球場で、常によいコンディションで試合をさせていただいた、阪神園芸(甲子園のグラウンドや蔦の整備を担当する阪神電鉄の子会社)の皆さん。そして、いつも影で支えてくれた裏方の皆さん、マスコミ関係の皆さん…」という裏方への感謝の言葉が語られ、球場は一際大きな歓声に包まれていた。

2002年からは背番号を86に変更してコーチ専任となり、優れた観察眼と指導で2003年のリーグ優勝を後押しした。2004年は二軍総合コーチを務めるが、翌2005年には一軍打撃コーチに復帰、チームは2年ぶりのリーグ優勝を果たす。コーチとして緻密なデータ解析をすることで選手の信頼を得た[1]。

2007年から同級生である広澤克実の打撃コーチ就任に伴い、内野守備走塁コーチに配置転換された。2009年からは再び一軍打撃コーチに配置転換。

2011年秋阪神監督。

http://wada86.jugem.jp/

6.和田 豊応援歌
男なら命賭けて
ボールに
食らいつけ
行けよ行けよ
和田豊
お前の出番だぜ

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参加メンバー 4人
開設日
2011年10月23日

1870日間運営

カテゴリ
スポーツ
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