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道徳貨幣論

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コミュ内全体

詳細 2013年8月28日 12:56更新

道徳・倫理を経済的に捉える試み。

経済のための道徳(例えば、論語とそろばん)、ではないし、
道徳のための経済(例えば、衣食足りて礼節を知る)、でもない。

道徳現象、即、経済現象 ── なのである。

「道徳経済学」や「道徳資本主義」というコミュニティ名にしようかと思ったけど、「経済・資本主義」というワードで検索HITされたくなかったのと、以下に参照する説の中で「貨幣論」という用語が使われているのでそれに合わせて「道徳貨幣論」とした。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

おそらく未開拓な分野なので直接的な資料は無いと思います。
(何かあったら教えて下さい)

マルクス(経済)とニーチェ(道徳)の共同作業。
思想界ではなんとなく水と油な気がしますが、両者に興味がある方はぜひご参加を。

予備知識を要求するのは不本意ではありますが、
共通了解がなければ話も先に進みにくいと思いますので、以下の書籍を紹介させてもらいます。

『これがニーチェだ』(永井均)
『ルサンチマンの哲学』(〃)
『今こそマルクスを読み返す』(廣松渉)
『貨幣とは何だろうか』(今村仁司)

特に上の二冊はわずかにですが、端的に道徳を貨幣論として扱っている部分があります。

☆ ☆ ☆ ☆ ☆

今日、なぜニーチェ思想やそれに類するものに救いを求めるニーチェ的弱者が生まれつつあるのかという問いは、
もしそれが今日の社会現象に関する問いなら、むしろ社会学者に解明してもらいたい問いだ。
だが、もしそれがニーチェ哲学に関する問いならば、答えはもう出ているであろう。
すなわち、力への意志に基づく世界解釈が"僧侶の力をモデルにした本質的にニヒリスティッシュな世界解釈"だからなのである。
それは、贋金作りをモデルとして貧乏人向きにつくられた偽りの貨幣論なのであり、その悪しき本質だけが剥き出しにされた、抽象化されたキリスト教なのである。
(略)
僧侶は単なる卑小な弱者ではない。が、もちろん高貴な強者でもない。
僧侶の力は弱さから生まれる特殊な強さ、つまり"世界を別様に解釈する"という仕方でのみ有効な特殊な力である。
これは本当の力ではなく、金の比喩で言えば、いわば贋金である。
僧侶とは、本当の金を持たない貧乏人に偽造貨幣を作って与える、贋金作りの専門職人である。
それゆえ、ニーチェの力への意志説は"贋金をモデルにした貨幣論"なのである。
それは何かを──実は自分の必要から──"真理であると信じ込む"ことなしには生きていけない弱者の存在様式をモデルにした人間理解であり、
弱さと卑小性の最も抽象化された本質を世界に投影した世界解釈なのである。
だからこそ、その人間理解と世界解釈に基づく力への意志説が、強くなりたい人々の、つまり"力への意志"が強い弱者たちの、心をとらえるのである。
(『これがニーチェだ』P143-144)

よく生きるとは、元来、知恵と才覚と勇気によって、価値ある事業を成し遂げることであり、善き人、徳のある人とは、それを為しうる有能な人士を意味した。
価値的諸概念は、道徳的・倫理的なそれに局限されてはいなかったのだ。
ソクラテスとは、何よりもまず、価値一般をしたがってまた人生の意義を、道徳的なそれへと一元化しようとした人物である。
行為と人生の価値をただ道徳的観点からのみ評定することを求めるソクラテス的人生解釈は、しかし明らかに転倒したものである。
正しく生きること(正義)がそれ自体よく生きること(よき生)に等置されるのであれば、その正しさとはそもそも何のためにあるのであろうか。
それが貢献すべき(道徳外的)よき生がもはや存在し得ない世界での自己目的化された(道徳的)正しさは、自己満足のための守銭奴的倒錯でしかない。
それは、商品購入の目的から切り離された、道徳貨幣の自己目的化された蓄積だからである。
(略)
ソクラテスが守銭奴ならカントは資本家である。
カントにおいて、資本主義(道徳貨幣の物神崇拝)はすでに確立したものとして前提されており、カント倫理学とは、要するに、その内部にいる人間の心象風景の描写にすぎない。
たとえばカントは「あることが道徳的に善であるとされるためには、、それが"道徳法則に適合しているだけでは十分ではない、それはまた道徳法則のために為される"のでなければならない」と言う。
適法性と道徳性、仮言命法と定言命法の区別、善き意志の称揚等、彼の道具立ての多くはこの思想に基づくものだが、ここに完成された道徳フェティシズムを読み取ることは容易であろう。
道徳的と分類されうる諸行為から「法則」を抽象することがかりに可能だとしても、その法則に従おうとして(従うことを自己目的として)為される行為は、もはや本来の道徳的行為とはいえまい。
カントはここで、個々の物品の具体的な使用価値に引きつけられていては駄目だ、抽象的な交換価値を考えろ、と言っていることになる。
道徳法則の"使い方"を別にすれば、カントの見解は、利己的な意図から公正な商売をする商人の立場にむしろ近いといわねばならない。
「道徳貨幣」という流通貨幣を手にしてしまったとき、すでに堕落の一歩が始まっていたのである。
(『ルサンチマンの哲学』河出書房新社:P84-85,92-93)
☆ ☆ ☆ ☆ ☆

H23.8.31

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開設日
2011年8月31日

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カテゴリ
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