mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

ホーム > コミュニティ > 学問、研究 > 明石順三

明石順三

明石順三

ログインして参加する

参加するにはログインが必要です。

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

詳細 2011年12月27日 15:55更新

1908年に渡米した明石順三氏(『兵役を拒否した日本人』として有名な人)が1926年にものみの塔本部により日本支部の監督として任命されて帰国。神戸で「ものみの塔」誌の前身である「燈臺(とうだい)」誌を創刊します。1927年の初めに日本初の支部事務所が神戸市新開地に開設され、1927年5月3日ものみの塔本部は明石順三氏に対して「全権委任状」を発行します。同年9月10日頃に支部事務所は東京に移転し、東京の銀座(東京市京橋区畳町13番地根本ビルディング3階の一室)に現在の「宗教法人、ものみの塔聖書冊子協会」の前身である「燈台社」(とうだいしゃ)を設立します。1935年5月になると明石順三氏の住んでいた東京都杉並区荻窪(おぎくぼ)の木造二階建の家屋に中古の印刷機2台を備えつけた「荻窪ベテル」を作り、そこが戦前,戦中時代の日本支部になります。(荻窪ベテルの成員20人位)

当時のエホバの証人は「万国聖書研究生」または「エホバの証者」と名乗り、集会は当時の法令に従い警察官立ち会いの元で行われる街頭集会で、弁士に不適当な発言があると警察官が「弁士中止!」と言って集会を中止する制限付きの集会でした。伝道活動は現在と同じようなやりかたで日本語に翻訳された出版物の有償配布をきっかけに再訪問して信者に導くシステム。伝道者は出版物の売り上げの半分を収入にして生活する以前の特別開拓者と似たシステムで、現在と同じように売り上げと時間を報告する奉仕報告制度もあり、伝道者の名称を「コルポーター」(聖書文書頒布者)後に「パイオニア」(開拓者)と言い、1938年には112万5,817冊の雑誌が販売されました。


1938年には雑誌や書籍を頒布するコルポーターの数は110人になり、1939年になると信者270名、機関紙の読者3,000人まで伸びましたが、その頃、陸軍に徴兵された信者3人が当時の出版物の指示に忠実に従い、軍隊の重要な儀式である「皇居遥拝」での最敬礼を拒否し、天皇陛下からお預かりした小銃の返納を申し出たために営倉にぶち込まれ、陸軍刑法の不敬・抗命罪で起訴され軍法会議で懲役2〜3年の判決を受け、さらにそれまでの燈台社の活動が治安維持法に触れて、1939年6月21日に特別高等警察(公安警察の前身)と武装警官隊により全国規模で信者が一斉検挙され、燈台社のメンバー130人が逮捕,投獄されたことによって、戦前から戦時中にかけてのエホバの証人の組織的な活動は事実上停止しました。投獄中の信者は拷問や厳しい環境により死亡した人もいて、棄教した信者と棄教しなかった信者が別々に裁判を受けることになります。


日本人最初のエホバの証人2世である明石順三氏の長男,明石真人氏は、1939年1月10日に20歳で徴兵されて陸軍に入隊して1週間後に「自分はキリスト者として聖書の"なんじ殺すなかれ"の教えを守りたいので銃器をお返しします」と申し出て営倉に入れられ、同年6月14日軍法会議の裁判で懲役3年の刑を受けて東京代々木の陸軍刑務所に収監されました。明石真人氏は1941年11月3日に陸軍刑務所を出所するにあたり、次のようなエホバの証人2世らしい 手記を書きます。


『思想月報』八十九号、一九四一年十一月,「元灯台社社員、明石真人の手記」

 自分はこれまでエホバの証者と自称して、国家に対する義務も責任も人間的な名誉も権利も、現世に生活するということも拒否してきた。しかしながら、己を現実の世界から隔離させて、自分のみ精神的満足を得ようとするのは、自己中心の独善主義である。自分はその点にきづかず、聖書信仰という夢の中に眠っていたのだ。とりわけこの迷夢から自分を目覚めさせたのは、「父順三がルサフォード(ものみの塔2代目会長ラザフォード)の説に反対して独自の教理を案出して居るとの知らせ」であり、それを知った瞬間から灯台社の教義に対して、もはやなんの魅力も興味も希望も感じなくなってしまったのである。

 元来自分の信仰は「死に対する恐怖とか現社会に対する不満とか人性的煩悩とか他宗教に対する不満より発したるものではなくて、無智な子供の時代より父がその信仰的立場から教育した結果有するに至ったもの」である。父を前提にしての信仰で、決してみずから欲したものではない。その父は聖霊によって感じたと称して「現日本の国体が崩壊した後神の国は日本に建設される」といい「ハルマゲドンは来ないことになった」といっているとのことであるが、聖書に感じて教義を唱えるなどは、聖書を絶対的なものと認めている灯台社の教理の基本に背くことではないか。

 それでなくても灯台社の教義には矛盾点がいくつかあるように思う。第一に、完全なる神が人間が罪を犯すべく想像したというのもおかしくはないか。創世記の伝説の記録を現世の世に適用するなどぜったいに不可能であろう。第二に、灯台社は全人類の希望だと称する神の国(ハルマゲドン後の楽園)の具体的構造を示していない。かりにその教説を信じて、神エホバのまえに歩むものはハルマゲドンの時に神に保証され「神の国」で永遠の生命を与えられるとしても、現実にこの教義を知るものは数すくない。

注:ハルマゲドン後の楽園で不老不死になる「永遠の生命」の教理は、新人研究生には「夢」として詳しく教えず、バプテスマを受けた兄弟姉妹になってから時間が経ち、完全に信用できると判断してから詳細に教えていた。(〜1960年代まで)


とくにシベリヤや蒙古、西蔵(チベット)など灯台社が伝道に行ったこともない方面の住人は、なにも知らずに神に撃滅されてしまうというのか。だとすれば不公平な神ではないか。また、灯台社はよく"光が変わった”と称してその教義に変更をくわえていたが、全能の神ならば一度口から出したことに変更をくわえるはずはない。要するに灯台社の信仰はルサフォードという人間が聖書をひねくりまわして都合のいい教義をつくりあげたものによっていたのだ。

このようなものを真面目に信じるなど愚かしいことである。聞くところによると父は「光が元のように変わってきた」といって、その信仰に変化を来たしているそうであるが、それも以上のような矛盾点を妥当化しようとしたものかもしれない。しかし、いずれにせよ自分はもはや聖書をもって絶対的なものと認めることはできなくなった。



明石真人氏が棄教した結果、明石親子は絶縁状態になり、1965年に順三氏が死ぬまでこの親子が会うことはありませんでした。


その後敗戦になり、1945年10月9日に進駐軍命令により釈放された明石順三氏は栃木県鹿沼市で燈台社の活動を再開し、1946年8月22日にものみの塔本部は日本の正式代表として明石順三氏を日本支部の監督として再度認証します。


1946年の秋にものみの塔本部の文書伝道者が鹿沼を訪ね、戦中,戦後の文書類と援助物資を明石順三氏に引き渡します。情報が来なかった時期のものみの塔の事情を知った明石順三氏は、戦時中のアメリカ政府に迎合して教理変更したものみの塔本部の信仰姿勢に納得せず、1947年7月15日、機関紙「光」にものみの塔本部の批判文を掲載し、掲載した批判と直言を書いた質問状をものみの塔3代目会長 ネイサン・ノア宛に送付します。


明石順三氏がワッチタワー総本部を批判した七ヶ条

燈台社が戦後発行した、機関誌「光」1947年7月15日付「号外3号」

一、少なくとも過去十年間、聖書真理の解明に進歩の跡を認めず。(1939年6月21日に逮捕されてから1946年秋に出版物を入手するまで教理を指す)

二、現在に於ける所謂 神権政府樹立と、その国民獲得運動(信者獲得運動)の躍起主張は聖書的に一致せず。(過去十年間に変更された教理)

三、所謂「神の国(ハルマゲドン後の楽園で不老不死になる教理)」証言運動の特例方針は要するにワッチタワー協会の会員獲得たるに過ぎず。(過去十年間に変更された教理)

四、総本部の指導方針は、忠良なるクリスチャンをして、聖書の明示する唯一標準を外れて安価なる自慰的位置に安住せしめたり。

五、その自ら意識すると否とにかかわらず、種々の対人的規約や規則の作成は、せっかく主イエスによって真のクリスチャンに与えらえれたる自由を奪い、ワッチタワー総本部に対する盲従を彼らの上に強制するの結果を到来せしめつつあり。

六、総本部はワッチタワー信徒に対して、この世との非妥協を教示しつつあるにもかかわらず、総本部自身の行動はこの世に対する妥協の実証歴然たるものあり。(英語版ものみの塔に掲載された、1946年8月アメリカ,オハイオ州クリーブランドの大会で舞台いっぱいに展開された大星条旗の前で、賛美歌や祈りを捧げた写真のことを指し、当時のものみの塔本部が行った国旗崇拝,偶像崇拝行為の事を指す)

七、所謂「ギリアデ神学校(1942年設立)」の建設は、聖書の示す所と絶対に背反逆行せり。(今まで学校教育を否定していたくせに突然自分たちの学校を作るのは何事かということ)


1947年8月25日付の明石順三氏の質問状を受け取ったものみの塔本部は、それに対して一切の回答をせず、ノア会長の名で明石順三氏を「即刻除名する」という一片の通知状を送付します。これにより1926年から1947年まで21年間続いたものみの塔協会と燈台社の関係は完全に無縁のものとなり、以後は「ものみの塔聖書冊子協会」が新設され、それまでの日本支部を引き継ぎます。

・『兵役を拒否した日本人』稲垣真美著 岩波新書
・灯台社の周辺とその前後



明石順三氏を除名したノア会長は崩壊した日本支部の再建が急務と考え「ギレアデ学校を卒業後、進んで日本へ行く意志のある、ハワイ在住者はいないか」と日本での宣教のための志願者を募り、1949年にドン・ハズレットとメーブル・ハズレット夫妻、ジェリー当間とヨシ当間夫妻、桃原真一と桃原正子夫妻と3人の子供、エルシー谷川氏らが来日し、同年オーストラリアから、エードリアン・トムソン氏、パーシー・イズラブとイルマ・イズラブ夫妻、ロイド・バリーとメルバ・バリー夫妻など16人の外人宣教師達が神戸に着任します。


戦後のベテルは、東京都港区三田5丁目5番8号の「三田ベテル」(1949年から1962年までは木造2階建て64坪の日本家屋、1963年に同地を建て換え地下1階,地上6階建てのビルになる。現在は功績のある宣教者のための老人ホーム)→ 1972年から静岡県の「沼津ベテル」(静岡県沼津市三本松にあった約1千200坪の土地に3階建ての印刷工場と5階建ての宿舎、現在は売却されて存在しない)→ 1982年に神奈川県海老名市の「海老名ベテル」(約2万1千700坪、現在使用中)の順で移動します。


1949年2月に燈台社のメンバー達と外人宣教師達との話し合いが行われ、戦争のために日米が音信不通になっていた時期に変更になった教理に付いて行けない者は日本支部から去ることになります。


燈台社設立時からの主要メンバーで、1930年夏から日本支部で働いた石井マツエ姉妹(投獄5年6ヶ月)によると、燈台社のメンバーは、その後少数の人達が明石順三氏に従い、他は散り散りになり、10人位がエホバの証人として活動を継続または再開して燈台社は消滅します。


http://buta.exjw2.org/money/money.htm

コミュニティにつぶやきを投稿

トピック

参加メンバー 3人
開設日
2010年11月20日

2208日間運営

カテゴリ
学問、研究
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!