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根本博

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詳細 2016年5月13日 11:42更新

日本陸軍の軍人で陸軍中将功三級。福島県出身。仙台陸軍地方幼年学校、陸軍中央幼年学校卒、 陸士23期。陸大34期。
終戦時にはモンゴル(当時は蒙古聯合自治政府)に駐屯していた駐蒙軍司令官で、終戦後もなお侵攻を止めないソ連軍の執拗な攻撃から、蒙古聯合自治政府内の張家口付近に滞在する邦人4万人を、司令官として救った。復員後1949年に台湾へ渡り、金門島における戦いを指揮して、中国人民解放軍を撃破、今に至る台湾の分離確定に大きく寄与した。

■ 経歴

陸大卒業後、原隊復帰を経て、陸軍中央等において主に支那畑を歩む。南京領事館附駐在武官として南京に駐在していた 1927年3月南京事件に遭遇、領事館を襲撃してきた北伐軍暴兵に素手で立ち向かったものの銃剣で刺され、更に二階から飛び降りて脱出を図った際に重傷を負った。自分が死ぬことで、幣原外交の軟弱さを変えようとしたと後に語っている。
帰国後、1928年6月に起きた満州某重大事件を皮切りに、満蒙問題等解決の為に、国策を研究する目的で、石原莞爾、鈴木貞一、村上啓作、武藤章ら陸士21期生から27期生の少壮将校を中心に、同年11月に9名で結成された無名会(別名 木曜会)に参画する。続いて翌年5月には、軍の改革と人事刷新、統帥の国務からの分離、合法的な国家総動員体制の確立等を目指し、永田鉄山、岡村寧次、小畑敏四郎、板垣征四郎、土肥原賢二、東條英機、山下奉文ら陸士15期から18期生を中心に結成された、二葉会に吸収される形で成立した一夕会に加わった。
1930年8月、中佐として参謀本部支那班長となる。この頃支那班員となったばかりの今井武夫大尉は、当時の根本班長の思い出を戦後回顧している。1931年12月、犬養毅内閣の陸相となった荒木貞夫中将は、寡黙な根本中佐を、「昼行灯」と称して、忠臣蔵の大石良雄に擬していたという。
1930年9月、国家改造を掲げる結社桜会にも参加するようになり、翌年には陸軍のクーデター事件である三月事件に連座するも、中心人物である橋本欣五郎ら急進派の行動に危惧や不信感を抱き、また一夕会の東條らの説得もあり次第に桜会から距離を置くようになる。十月事件にも半ば連座する形になったものの、幾人かの同士達と、当時の参謀本部作戦課長今村均大佐に自ら計画を漏洩、未遂に終わらせる事に寄与、一時期の拘束で処分は済んだ。

1935年8月12日に起きた相沢事件時には、事情が分からずに、事件を起こした直後に連行される相沢三郎に駆け寄り、握手を交わしたとされ、統制派の将校であるにも関わらず、誤解を受ける行動を起こした事を、後に悔やんでいる。
二・二六事件の際は、陸軍省新聞班長として部下に、あの有名な「兵に告ぐ、勅命が発せられたのである。既に天皇陛下の御命令が発せられたのである。お前達は上官の命令が正しいものと信じて・・」の戒厳司令部発表を、反乱軍の占拠地帯に向かって拡声器を通じて放送させ、反乱軍を動揺させて切り崩し工作を図った。根本は決起将校らが陸軍大臣に宛てた「陸軍大臣要望事項」の中で、軍權を私したる中心人物として、武藤章中佐、片倉衷少佐と共に即時罷免を求められている。また同事件時、決起将校らが2月26日の未明から、陸軍省において根本を待ち伏せていたが、昨晩から深酒をして寝過ごした為に命拾いした。

二・二六事件後の陸軍再編により原隊の連隊長に就任、日中戦争後は専門である支那畑に復帰、終戦に至るまで中国の現地司令部における参謀長や司令官を長らく務めた。
根本について特筆すべきは、1944年11月に就任した駐蒙軍司令官としての終戦時における行動である。終戦日の8月15日を過ぎても、ソ連軍は満州や中国での侵攻を止めず、暴虐の限りを尽くし、日本軍や在留邦人を苦しめていた。このまま手をこまねいていては、同地域に滞在していた同胞4万人の命が危ない。一方で日本の降伏後、ソ連軍に抗戦したら罪に問われる可能性もあった。しかし、生長の家を信仰していた根本は『生命の実相』よりそのような形式にとらわれる必要はないと考え、罪を問われた際は一切の責任を負って自分が腹を切れば済む事だと覚悟を決め、根本は『理由の如何を問わず、陣地に侵入するソ軍は断乎之を撃滅すべし。これに対する責任は一切司令官が負う』と、日本軍守備隊に対して命令を下した。途中幾度と停戦交渉を試みるもソ連軍は攻撃を止めず、部下将兵は必死にソ連軍の攻撃を食い止めながら、すさまじい白兵戦をも乗り越え、更に八路軍(中国共産党軍の前身)からの攻撃にも必死に耐え、居留民4万人を乗せた列車と線路を守り抜いた。8月19日から始まったソ連軍との戦闘はおよそ三日三晩続いたものの、日本軍の必死の反撃にソ連軍は戦意を喪失した為、日本軍は8月21日以降撤退を開始、最後の隊が27日に万里の長城へ帰着した。出迎えた駐蒙軍参謀長は「落涙止まらず、慰謝の念をも述ぶるに能わず」と記している。一方、20日に内蒙古を脱出した4万人の日本人は、三日三晩掛けて天津へ脱出した。その後も引揚船に乗るまで日本軍や政府関係者は彼らの食料や衣服の提供に必死に努力した。
引揚の際、駐蒙軍の野戦鉄道司令部は、引き揚げ列車への食料供給に苦心していたとされる。8月17日頃から、軍の倉庫にあった米や乾パンを先に、沿線の各駅にトラックで大量に輸送していた。また、満州では関東軍が8月10日、居留民の緊急輸送を計画したが、居留民会が短時間での出発は大混乱を招く為に不可能と反対し、11日になってもほとんど誰も新京駅に現れず、結局、軍人家族のみを第一列車に乗せざるを得なかった。これが居留民の悲劇を呼んだと言われる。尚、前任の下村定陸軍大将が最後の陸軍大臣になった事を受けて8月19日、北支那方面軍司令官を兼任する。1946年6月、日本に復員した。

復員後の1949年6月、東京から、元上海の貿易商であった明石元長の仲介で、通訳の吉村是二とともに宮崎県延岡市の沿岸から極秘に台湾へ渡り、中国名「林保源」として湯恩伯の第5軍管区司令官顧問、中将に任命された。同年10月には、国民政府が台湾へ移り、中華人民共和国が成立した後、最初の本格的な戦いである、本土から数kmしか離れていない金門島における古寧頭の戦いを指揮、上陸してきた中国人民解放軍を見事に破り、同島を死守した。この時金門島に2万とも3万とも言われる人民解放軍が上陸した際、根本はこれを8千から1万の兵を率いて邀撃殲滅したとされる。ただ一方で、金門島の戦いで根本を含めた旧日本軍将校は、現場指揮官として兵を直接率いたのではなく、あくまで助言に徹し、表面には出ないようにしていたとの証言もあるが、戦いの勝利に貢献した事は間違いないようである。2009年古寧頭戦役戦没者慰霊祭に子息が出席を許され12代総統馬英九と会見した。当時、根本らの台湾密航は国会でも追及されたが、当時の吉田茂首相は、そのような事実があるかもしれないと答弁を濁している。
根本帰国後も、この島を巡っては激戦(金門砲戦)が展開されたが、台湾側は人民解放軍の凄まじい攻撃を凌ぎ、現在に至る台湾の分離が確定した。根本は、蒋介石が敗戦時の日本軍捕虜に対し人道的に対応し、国に賠償金を要求しなかった事に恩義を感じていたとも言われている。尚、日本の終戦後に、根本以外にも台湾へ渡り軍事的協力を行った日本の元軍人がいた。その代表的なのが白団で、1950年頃から1968年頃まで、当初は83名から最終的には5名に至る状況ではあったが、台湾側の要請(があったと言われている)により、極秘に渡行して中国名を名乗り、軍事顧問団として協力している。当時アメリカの軍事顧問団もいたが、台湾側としては日本の戦い方の方が、台湾の戦い方に合っていると判断していたと思われる。当時の日本政府もこの情報を一部掴んでいたものの、黙認していたとされる。

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2010年10月26日

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