大正から昭和にかけて、フランス・パリで30年間に渡って600億円近いお金を散財し、「東洋のロックフェラー」、「東洋の貴公子」呼ばれた伝説の日本人がいた。
彼こそが「バロン薩摩」。本名「薩摩 治郎八」。彼は一体何者だったのだろうか?
薩摩 治郎八の祖父薩摩 治兵衛は近江の貧農出身。その後、横浜で木綿織物等を商い、外国商船とも取引して一代にして巨万の富を築き上げ、木綿王と呼ばれた人物でした。次郎八は、二代目治兵衛の長男として生まれました。18歳の時、オックスフォード大学に学ぶという名目で英国ロンドンに渡り、実家から莫大な仕送りを受けて、車とオンナ遊びに熱中したという。その仕送り金額たるや、月額1万円!当時のサラリーマンの月給が30円だったことを考えると、とんでもない金額だ(現在の金額で1億円近い!)。その後、20歳の時にフランス・パリに移りここでも莫大なお金を使って社交界の名士となり、「バロン薩摩」と呼ばれるようになった。そして彼は、パリ市南部の大学都市に100億円近いお金を掛けて
日本人留学生会館「日本館」を建てて寄贈し、人材の育成に力を入れ、また、多くの芸術家、在フランス日本人芸術家のパトロンとなって支援したと伝えられている…。