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伝説の大投手 沢村栄治

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詳細 2017年2月1日 19:38更新

「戦争は、あなたを失(な)くしたことだけでも罪悪である」

日本野球史においてもっとも偉大な投手を語るコミュニティ。


1917(大正6)年三重県生まれ。
右投左打。投手。背番号14。
京都商業を中退して全日本選抜入り。
1936年に日本のプロ野球開始とともに巨人入り。
1934年の大リーグ選抜×日本選抜のオールスターゲームで大リーグの最強チームを8回1失点完投する好投を見せ、試合には0×1で敗れたものの、日本野球を世界に知らしめた。
巨人では1年目からエースとして活躍し、後期は13勝で最多勝を獲得。
プロ野球最初の優勝を決める阪神との決定戦では3連投で見事に阪神を2勝1敗で抑え優勝を手にしている。
2年目の1937年には56試合制だった前期のシーズンに24勝4敗、防御率0.81という超人的な記録を打ちたてて最多勝と最優秀防御率、最多奪三振、最高勝率といったタイトルを総なめにしている。
この当時に残された貴重なフィルムから沢村の球速を測定したところ、159キロだったという結果が出ている。おそらくMAXは160キロを超えていたと思われる。
沢村の剛速球をバントしたらレフト前ヒットになってしまったという伝説もこの当時のものである。
そして、沢村は、この年、プロ野球で最初のシーズンMVPに選ばれている。
しかし、翌年の1月に津の第33連隊に入隊をよぎなくされ、中国へ出征。肩の強さを買われて戦闘に加わり、左手を負傷。
帰国後、1940年にプロ野球に復帰。
手榴弾の投げすぎから来る肩の酷使のため、球速は落ちていたが、1940年の7月6日の対名古屋戦で3度目のノーヒットノーランを達成。
そして、2年間プレーした後、2度目の召集がかかりパラオへ出征。
帰国して1943年にもマウンドに上がっているが、度重なる戦争での肩の酷使により、既に速球はおろか、コントロールさえも失われていた。
1944年、3度目の出征でフィリピンへ向かう途中、アメリカの魚雷攻撃により、台湾沖で船と共に沈んで27歳で戦死。
1947年には沢村の偉大なる功績をたたえて、沢村賞が創設された。毎年、そのシーズンに最も活躍した先発完投型の投手に贈られることになっている。
1959年、野球殿堂入り。
歴代1位の3度のノーヒットノーランをはじめとして、実働は約5年にしかならないものの、残した功績は多大なものがある。
左足を伸ばして高くはね上げ、その反動で投げ下ろす豪快なフォームから繰り出す160キロを超える直球と3段に落ちると言われたカーブで、日本の打者はおろか、アメリカ大リーグの打者までも抑え込んだ。
 通算成績:実働5年。63勝22敗、防御率1.74、554奪三振。最多勝2回(1936後・1937前)最優秀防御率1回(1937前)最多奪三振2回(1937前・1937後)最高勝率1回(1937前)MVP1回(1937)

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