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馬超 MaChao

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詳細 2015年12月16日 16:47更新

馬超(ばちょう、176年 - 222年)は、字を孟起といい、中国三国時代の蜀漢の武将。諡は威侯。男性。その雄姿から「錦馬超(きんばちょう)」としてたたえられた。子は馬秋・馬承。弟に馬休、馬鉄がいる。『三国演義(三国志通俗演義)』では、五虎大将軍の一人。

父は馬騰。涼州を基盤とする豪族であったが、馬騰は後漢の朝廷に帰順し、当時の都に赴いた。

父の馬騰は羌族との混血であり、この血を引いている馬超も漢王朝の支配を受けない民族からの信望が厚かった。

211年、馬超は韓遂、楊秋、成宜らと共に兵を挙げ、時の朝廷の権力者である曹操と敵対した。しかし、曹操の臣の賈詡(かく)の離間策などで韓遂との仲が悪くなり、長安の東の要である潼関での戦いで攻撃され敗北し、西方の羌族の地に逃れた。この際、馬超の挙兵の責任を問われ、父の馬騰と一族二百人あまりが皆殺しにあっている。

羌族の兵を集めて再び曹操軍を攻め、涼州刺史の韋康を殺害。その復讐の為に挙兵した楊阜らの抵抗により冀城を奪われ、漢中の張魯を頼って落ち延びていった。張魯に兵を借り、失地回復を試みたが、勝利は得られなかった。また、張魯配下の楊白らに非難されるなど、張魯陣営での立場も悪化した。そのため、214年、益州の劉璋を攻めていた劉備を頼って行った。

馬超が劉備に帰順したと言う噂が伝わると程なく劉璋は降伏し、蜀は劉備の手中に入った。このとき馬超は、平西将軍に任じられた。劉備が漢中王になると左将軍・仮節に昇進した。

この後の馬超は精彩を欠く。彭羕の劉備に対する讒言と謀反の意を、自らの身を守る為に上表している程であり、そこに曹操に抵抗した野心旺盛な以前の姿は無い。

221年には、驃騎将軍・涼州牧になるが、222年、47歳で亡くなった。子の馬承が後を嗣いだ。また、馬秋は張魯の元に残してきたが、張魯が曹操に降伏すると、曹操は改めて張魯に引き渡した。張魯は、自分の手で馬秋を殺した。

260年、威侯の諡号を送られた。

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2005年12月25日

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