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無の極み (無人)

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詳細 2012年1月31日 21:36更新

『無』とは皆さんご存知ですか?

1と0の間です。

存在してるけど存在してない。

そんな現象です。

無になりたい方は参加してみては?

写真は無の模範です。

僕じゃないのでご参考程度に手(パー)

ちなみに哲学(存在論/存在)において「無」という場合は、存在すなわち有、に対する無であって、相対的な二次的概念である。これに対し絶対無とは、存在論を超える。

西洋の思惟では無が有より軽んぜられたことは、「無」がBeingに対して常にNon-beingとしかいわれない、という言語的な事実にその証拠を見出す事が出来る。(ただし、英語: nothingness、フランス語: néant[『存在と無』におけるサルトル]、ドイツ語: Nichts が、西洋の思惟からの制約を離れて本来的な「無」を表すために、用いられ得る。) 一方、東洋では無を強調し、有中心の非-有(Non-being)、を超えた意味合いを含ませた。絶対無と絶対有は、無と有と同じく対極関係にあり、近接性はない。また、東洋的無の思惟が(無の)心を重んじるに対し、西洋的な有の思惟において重んじているのは、知である。

次のような考え方は、有を見る主体の観点が有的存在論的観点から無的観点に変われば、見られている同一物が有から無になるということを示すのでしかない。それは断じて近接関係を示すのではなく、ただ、観点によって同一物に両名称が充てられ得るということを示しているに過ぎない。 純粋な絶対有は、そのあまりの純粋さのために、無内容性を持つ。マルティン・ハイデッガーの晩年の著作はその点を特に裏付けていた。

一方、経験から遊離した思弁的な形而上学を攻撃したルドルフ・カルナップは論文「言語の論理的分析による形而上学の克服」において題名どおり形而上学を批判し、その中で「無」を不用意に、きちんと考えずに扱う哲学者たちを以下のように批判した[1]。その中で彼は文字通り「無」という概念は元来は「〜でない」という否定を不当に名詞化しているだけであるとした。そして、彼によれば、そのような誤りは一見したところ「無」はその形が普通の名詞と同じであるために、形而上学者が言語を混乱して用いてしまうために起こるものである(例えば、「無は哲学者である」と「私は哲学者である」は一見したところその形式では同じように見えるように)。また、彼は「無が無化する」のような形而上学的命題は分析的にも総合的にも検証ができないがゆえにナンセンスであるとした。このようにしてハイデガーをはじめとした「無」なるものを不用意に、きちんと考えず、いいかげんに扱う哲学者を批判した。

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参加メンバー 6人

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開設日
2010年4月7日

2434日間運営

カテゴリ
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