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九五式軽戦車 ハ号

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コミュ内全体

詳細 2017年2月8日 22:54更新

いわずと知れた第二次世界大戦帝国陸軍主要戦車の一つ。
チハやチハ改と共に大戦を戦い抜きました。
ハ号が好きな方はどうぞ好きなだけ語ってください!!

主な戦歴
ノモンハン事件
本戦車が初めて本格的に投入された戦いである。
1939年7月2日夜ハルハ河西岸にあるソ連軍陣地の攻撃に参加。
攻撃一日目に敵の第二線陣地を突破したが、二日目の昼間攻撃はピアノ線障害とソ連軍戦車の逆襲を受け戦車第三連隊は戦車半数を失う。
その後、戦車第四連隊が第三線陣地を突破し、砲兵陣地を攻撃するが、戦車の3分の1を失い後退した。
7月6日よりソ連軍の反撃により、戦車部隊は主に防衛戦に参加したが、直後に帰還命令が出された。
この戦いでは、3輌一組のフォーメーションを組んだ上で、T-26軽戦車やBT-5戦車と戦闘し、撃破した記録が存在する。

マレー進行作戦
マレー進行作戦ではイギリス軍が戦車を配備していないこともあり、本車は活躍することが出来た。
特に1942年1月7日のスリムの戦いにおいては、歩兵と工兵と共に夜襲を敢行、スルム台地に布陣するイギリス軍陣地を突破し、短期間でトロラクに突入した。
この作戦で30時間で縦深25kmを突進した。

フィリピン進行作戦
フィリピンでは太平洋戦域における初めての対戦車戦闘が発生した。
1941年12月22日リンガエン港に本車が主装備の戦車第四連隊と八九式中戦車主装備の戦車第七連隊が上陸。
上陸初日、アメリカ軍はM3軽戦車10両で反撃に出た。
このため戦車第四連隊の九五式軽戦車で迎え撃つが至近距離でも37粍戦車砲を弾くため、先頭車に体当たりをした。
道路脇の水田にM3は横転し、残りのM3は退却した。

ガダルカナル島の戦い
一木支隊と川口支隊の敗戦の後、10月9日〜14日までに増援に成功し、兵力約2万人になった。
その中には独立戦車第一中隊が入っていた。
中隊内訳は九七式中戦車10両と九五式軽戦車2両である。
これらは10月23日のマタニカウ河戦において、対戦車砲とM3自走砲によって全滅させられてしまった。

タラワ環礁の戦い
タラワではベティオ島を中心に海軍陸戦隊約4000人が島を要塞化していた。
ここには7両の九五式軽戦車が配備されていた。
1943年の11月20日、アメリカ海兵隊はベティオ島に上陸。
日本軍はこれに対し激しく銃撃や砲撃をしたため前進ができず、上陸第五波に上陸予定であったM4中戦車8両中6両が水没かもしくは破壊されてしまった。
それでも残った2両のM4中戦車は海兵隊と共に内陸へ前進した。
このM4中戦車に日本軍は九五式軽戦車と歩兵の肉薄攻撃で反撃に出た。
1両は火炎瓶で炎上(その後消火した。)、もう1両は九五式軽戦車と撃ち合い砲塔基部に命中弾を受け、砲塔旋回不能になり、体当たりで九五式軽戦車の砲をねじ曲げ撃破した。
その後、11月22日夜に日本軍は最後の攻撃を敢行した。
その攻撃には残りの九五式軽戦車も参加。
アメリカの強力な火力の前に撃破されてしまった。

ニューギニア戦線
最初に九五式軽戦車をニューギニア戦線に投入させたのは陸軍のポートモレスビー進攻作戦を支援するために航空部隊に必要な飛行場を確保しようとしていた海軍の第五特別陸戦隊だった。
1942年8月25日夜、ミルン湾へ上陸し、2両の九五式軽戦車を先頭に、オーストラリア軍を後退させ、飛行場に迫った。
しかし、途中で2両とも溝に落ちこみ行動不能となってしまった。
目的だった飛行場の確保にも失敗した。

それから1944年5月27日、アメリカ第41歩兵師団の2個連隊がビアク島に上陸し、M4中戦車を先頭に前進を開始した。
日本軍の歩兵二二二連隊は地形を利用してこれに反撃し、アメリカ軍の前進を阻止した。
29日の早朝の反撃作戦に7両の九五式軽戦車が参加した。
M4中戦車を一時後退させたが返り討ちにあい参加車輌全てが撃破されてしまう。
6月15日、残存の2両もアメリカ軍の攻撃に歩兵と共に突撃し、全滅してしまった。
その後も守備隊は21日まで出血をしながらもよく戦った。

サイパン島の戦い
サイパン島には第四十三師団基幹の戦車第九連隊が配備されていた。
内訳は、九五式軽戦車27両、九七式中戦車32両、九七式中戦車改4両、そして海軍陸戦隊の特二式内火艇10両であった。
1944年6月15日アメリカ軍上陸初日、日本軍は海岸で迎え撃ったがことごとく撃退された。
この戦闘には戦車第九連隊第四中隊も参加していたが、海兵隊のバズーカにより撃破されてしまった。
翌々日の17日夜、戦車第九連隊は反撃の先鋒をとった。
残存車のほとんどを出動、歩兵と共にアメリカ軍陣地に突入した。
しかしアメリカ軍はこの日、戦車2個大隊を上陸させており、海兵隊はバズーカ、対戦車砲、M4中戦車、M5軽戦車などで反撃、これを撃退した。
24日に日本軍戦車7両とM4中戦車数両および75mm自走砲で対戦車戦が発生、これも難無く撃破された。
7月7日には最後の総攻撃を敢行し全滅した。

ペリリュー島の戦い
1944年9月15日、アメリカ第1海兵師団はペリリュー島へ上陸を開始した。
同島の日本軍は歩兵第二連隊を基幹とする精鋭約1万名の守備隊だった。
この連隊には17両の九五式軽戦車が配備されていた。
アメリカ軍は多数のLVTを破壊されながらも戦車大隊の揚陸に成功、同日午後4時半ころ、日本軍は九五式軽戦車15〜17両(正確な数不明)を含む反撃部隊を突撃させた。
しかし、30両のM4中戦車あるいはM5軽戦車とバズーカ、対戦車砲によって逆襲は阻止された。
この戦闘でアメリカ軍戦車は徹甲弾では九五式軽戦車の薄い装甲板は貫通するだけで効果が少ないことを知り、榴弾に切り替えて爆破炎上させている。
このあとペリリュー守備隊は地下陣地を利用し2ヶ月も防衛戦を展開しアメリカ軍を苦しめた。
上陸したアメリカ軍の10人のうち4人が死傷したほどだった。

フィリピンの戦い(1944年〜1945年)
アメリカ軍のレイテ島上陸時(1944年10月20日)にいた日本軍戦車隊は、独立戦車第七中隊の九五式軽戦車11両だった。
この中隊は占領されたドラグ飛行場へ攻撃をかけた。
しかしアメリカ軍の反撃にあい、5両を撃破され退却する。
その後レイテ島決戦と決めた大本営はルソン島にいた守備軍や戦車師団から引き抜きをし、同島の戦力を増強した。
戦車部隊は九五式軽戦車20両だった。
この戦車隊はリモン峠の陣地でアメリカ軍を迎え撃ったが、11月末、後方へ退却中にゲリラの待ち伏せ攻撃を受け全滅した。

ルソン島にいた戦車第二師団は度重なる引き抜きにより、戦車11個中隊まで減少し、九七式中戦車改を主力とする約200両の戦車で迎え撃った。
この中には新鋭の一式砲戦車や四式砲戦車が入っておりM4中戦車を見事撃破している。
ここでの九五式軽戦車は比較的牽引能力が高かっため、野砲の牽引車として使用されたことが多かった。
1945年の4月17日にはイリサンにて九五式軽戦車と九七式中戦車に爆雷を取り付け、アメリカ軍戦車に肉弾攻撃を敢行し3両(1両は崖から転落)のM4中戦車を破壊し、アメリカ軍の前進を約一週間遅らせることに成功した。
続いて23日に再び戦車特攻を敢行。
しかし激しい敵砲火にあい爆発してしまった。

ビルマ戦線
ビルマ戦線での九五式軽戦車はまず、1942年3月8日のペグーにおけるイギリス第7機甲旅団の第2戦車連隊所属のM3軽戦車との戦いが有名である。
命中弾を与えても全て弾かれてしまい、逆にM3軽戦車は距離1500mから楽々と撃破していった。
この戦いで九五式軽戦車5両の小隊が全滅してしまう。
その後、M3を含むイギリス軍戦車隊の一部は4月2日のシェダンの戦いにおいて、日本軍の包囲攻撃により撃破された。

1944年3月8日からのインパール作戦に参加した戦車隊は戦車第十四連隊で九七式改、九七式、九七式テケ、一式砲、M3軽戦車(鹵獲)、そして九五式軽戦車を含む、計66両だった。

3月13日のウィトク陣地攻撃が最初の戦闘だった。
20日、パンタ付近で九五式軽戦車を含む第三中隊がイギリス軍のM3中戦車1個小隊と遭遇、対戦車戦闘となったが、九五式軽戦車3両が撃破される。その後、第三小隊長車(M3軽戦車)が背後に迂回し1両を撃破して、敵戦車隊を退却させた。
そして4月21日、テグノパール陣地戦に参加。
攻略後、第三十三師団主力が攻撃中のチュラチャンプール方面に転進。
ビルマの悪路により、戦車隊は大変な苦労をしたが、このあいだに連隊長が井瀬大佐に交代した。
次の任務はニンソウコンを確保することだった。
しかし連日の雨により、ニンソウコン攻撃の戦火が上がらず、補給の途絶もあり戦力は低下した。
その後、味方歩兵部隊の撤退作戦を損害を出しながらも支援し、7月16日に連隊はようやく撤退を開始した。
しかしその後、ティデムにて敵の攻撃により、戦車は全滅してしまった。
そして12月15日に、撤退した戦車第十四連隊はマンダレー付近で再編成を行い、1945年1月、第十八師団に配属されメークテーラ奪回戦に参加し、3月7日の対戦車戦闘で九七式改が2両のM4中戦車を撃破した。
4月10日、ヤメセンで九五式2両を含む戦車7両で夜間敵中を歩兵部隊と共に強行突破した。
ここで4両が撃破される。
翌朝の対戦車戦闘により、残りの3両も撃破され、ついに戦車十四連隊の全戦車が失われ、終戦を迎えることになる。

硫黄島の戦い
西竹一中佐が指揮する戦車第二十六連隊に12両(その他チハ改、チハが11両)が配備されていた。
まず20日に元山飛行場にて第三中隊の対戦車戦闘を展開した(戦果は不明)。
そして、28日にて第一、第二、第三中隊がアメリカ軍を攻撃。
しかし、バズーカと航空攻撃により撃退される。
その後、残りの戦車はトーチカとして、乗員は歩兵として戦った。

沖縄戦
沖縄には戦車隊が一個連隊しか配備されていなかった。
内訳は14両の九七式中戦車改と12両の九五式軽戦車あるいは九四式軽装甲車だった。
九五式軽戦車を含む軽戦車中隊は首里の戦いにて、5月3日〜5月5日の反撃作戦に参加したが、戦闘能力の低い九五式軽戦車や九四式軽装甲車はアメリカ軍の火力の前になすすべもなく全滅した。

本車の再評価
大戦後期には九五式軽戦車には戦車としての価値がなかった。
しかしながら、重火器が少なく、物資の補給が望めない太平洋の日本守備軍は本車を貴重な機甲戦力として運用し続けた。

旧日本軍戦車となると九七式中戦車が知名度高いが、実は九五式の方が運用された広さでは大きかった。
なぜなら、一部の太平洋の島々には九七式中戦車は配備されず、九五式軽戦車のみを装備した部隊数が非常に多かったし、当時の日本の国力から考えると本車のほうが使い勝手がよかったからである。
本車こそ帝国陸軍主力機甲戦力だった。

性能緒元
全備重量:7.4t
乗員:3名
寸法:全長 4.3m
  :全幅 2.07m
  :全高 2.28m
装甲:車体前面・12mm
  :車体側面・12mm
  :砲塔前面・12mm
  :砲塔側面・12mm
武装:九四式三十七粍戦車砲(徹甲弾の使用で距離25mで31mm、1000mで20mm以下の装甲を貫通可。)または九八式三十七粍戦車砲×1 120発
   九七式7.7粍車載重機関銃×2 2770発
最高速度:40km/h
エンジン:三菱空冷直列6気筒 ディーゼル
エンジン馬力:120馬力

ハ号が登場する主な作品
ウィンド・トーカーズ
硫黄島からの手紙
ザ・パシフィック

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2009年8月16日

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