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九七式中戦車 新砲搭チハ

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詳細 2019年2月3日 18:23更新

旧型の短砲身57mm砲をより強力な長砲身47mm砲に改良した型。
以降チハやハ号と共に主力戦車として大戦を戦い抜きました。

そんなチハ改が好きな方々当コミュで盛り上がりましょう!!

主な戦歴
フィリピン進攻作戦
M3軽戦車に苦戦していた戦車第7連隊に急遽試作段階であった本車10両がフィリピンへ送られ、バターン攻略戦に参加。
本車の初陣となった。
活躍こそしたもののM3軽戦車と砲火を交えることはなかった。

サイパン防衛戦
サイパン防衛戦での戦車第9連隊は連隊長車と中隊長車に本車があてられ78両中4両のチハ改が装備されていた。
チハ改がいかなる戦いをしたかは不明。
おそらく米軍上陸から2日間水際作戦に参加したとあるのでその時に撃破されたと思われる。

フィリピン防衛戦
フィリピンでの本車は戦車第2師団の中核でルソン島での作戦で防衛戦に従事した。
初戦闘は1945年1月16日リンガエン湾であった。
この日、アメリカ軍後方に逆上陸をかける挺進隊を支援するために高木戦車中隊が歩兵大隊と共に夜間に攻撃を敢行したが、米軍の対戦車砲とバズーカの反撃にあいほとんどが撃破されてしまい逆上陸も失敗してしまう。
翌17日、進撃してきた米軍のM4中戦車を偽装して待ち伏せした和田小隊は、距離7mの至近距離でチハ改による集中砲火を浴びせ3両を撃破したが、和田小隊も3号車が撃破され後退した。
その後、米軍のM4中戦車は側面を見せないよう前進し、チハ改を撃破していき、性能の差を見せ付けた。
それから重見支隊はサンマヌエルを死守してきたが27日夜には全滅した。
それまでの対戦車戦の中では敗れたとはいえ、性能差を考えた上でダックイン戦法を駆使し抵抗したことを考えれば、個々ではあるが辛うじて米軍戦車を食い止められた戦いだったと言える。

ビルマ戦線
ビルマ戦線ではインパール作戦前、1943年10月に戦車第14連隊に10両のチハ改が配備された。
インパール作戦に伴い3両のチハ改に鹵獲したM3軽戦車のエンジン防護用の装甲板を利用し車体前部に増加装甲を取り付けた。

インパール作戦では連日の雨や悪路により有効に戦闘が出来なかった。
主に味方歩兵部隊の撤退作戦に従事したとされる(ここまでチハ改がいかなる活躍をしたかは不明)。
それから1944年12月15日に戦車第14連隊はマンダレー付近にて中古戦車20両で再編を行い、1945年1月に第18師団に配属、メークテーラ奪回戦に参加し、英空軍により半数が撃破されるが、3月7日の戦いではチハ改が英軍のM4中戦車を至近距離からの砲撃で2両を撃破した。
しかし、4月10日からのヤメセンの戦いで連隊は全滅し以後再起不能となった。

硫黄島の戦い
硫黄島で戦った戦車第26連隊は元々サイパン島奪回作戦のために釜山に移動していたが、マリアナ沖海戦に敗れたために硫黄島に回された。
西連隊長は硫黄島へ輸送中に海没した戦車隊再編のため日本へ戻り、戦車23両を集め連隊を再編成したのだった。
戦車第26連隊の内訳は中戦車(チハとチハ改)が11両、軽戦車(ハ号)が12両であった。

硫黄島の戦いでは主にダックイン戦法を活用。
移動用のトーチカとして戦い2月28日の戦闘では戦車第2中隊が出撃し一式47mm速射砲、90式野砲、歩兵による肉薄攻撃と協同し9両の米軍戦車を撃破した。

沖縄の戦い
沖縄には戦車第27連隊が配置されていた。
1944年3月に満州で編成され、たった3ヶ月の短い教育ののち、6月20日に移動、7月12日に到着した部隊だった。
第27連隊の内訳は中戦車が14両(チハ改)、軽戦車が12両(ハ号、94式軽装甲車)であった。
沖縄戦では首里防衛戦の反撃作戦のため5月3日首里北側石嶺付近へ向かったが悪路のため進出が遅れ戦闘も圧倒的な米軍の火力の前に連隊は撃退され残りのチハ改6両は石嶺高地へトーチカとして戦った。
米軍を迎え撃つも5月16日までに戦車第27連隊は全滅した。

占守島の戦い
占守島には戦車第11連隊があった。
この連隊は1940年3月に満州で創設され、1944年2月に第5方面軍に転属され、北千島へ転進。
主力は占守島へ、一部は幌筵島、松輪島、得撫島へと分駐していた。
戦車第11連隊の内訳はチハ改19両、チハ20両、ハ号25両であった。
この戦いが今日に致るまでの日本戦車隊史最後の戦車戦であった。

1945年8月15日、終戦に伴い、連隊は8月18日に戦車を海岸に運び海中へ投棄する予定であったが、その日の午前零時、カムチャツカ半島のロパトカ岬灯台より、占守島の国端岬と竹田浜一帯にソ連軍より砲撃が加えられ、午前2時、ソ連軍は竹田浜へ上陸を開始した。
北千島守備の第91師団長の「敵を撃滅せよ」と命令を受けた戦車第11連隊長・池田大佐は、先頭に立って出撃。
この時、池田大佐は無線で「これより敵中に突入せんとする。祖国の弥栄を祈る」と報告し、上半身は裸で白鉢巻をしめ、砲塔に馬乗りになり、日章旗をうち振り敵陣に突進したといわれる。

四嶺山に進出したソ連軍に対し午前7時、戦車30両で襲い掛かり敵先鋒を蹂躙した。
池田大佐はこのまま一挙にソ連軍を圧倒し、水際に撃滅することを決意。
7時50分に追及してきた味方戦車を加え約40両の戦車で前進を開始。
濃霧のなか、大乱戦が約2時間繰り広げられた。
ソ連軍の対戦車砲や対戦車銃により連隊は大きな損害を出しながらもソ連軍を圧倒し竹田浜まで敗走させた。
この戦いで連隊長、副官、中隊長4人が戦死した。その後はソ連軍と対峙状態となり8月21日には北千島にて停戦協定が成立し、第二次世界大戦最後の戦いは集結した。

中国の国共内戦
第二次世界大戦後中国にいた日本軍は北京付近に集結し、そこで武装解除し中国軍に装備を渡した。
戦車をはじめとした日本軍の重火器は国共両軍の争奪の的になったが、殆どが国民政府軍が接収する。
しかし満州国領と関東軍の兵器は中共軍が譲り受けた。

国府軍は米軍戦車と日本軍戦車の混成戦車隊を内戦当初より戦闘に参加させていたが、解放軍の戦法により次々に撃破、鹵獲されてしまい、米軍戦車も日本軍戦車もそっくり中共軍の手中に入ってしまった。
中共軍が戦車隊を編成し、戦闘に投入したのは1948年11月からはじまった徐州を中心とした地域での攻勢作戦からで、やはり日本軍戦車と米軍戦車の混成部隊であった。
1949年末までに大陸内の国府軍を撃破した中共軍は、同年10月1日、中華人民共和国の設立を宣言した。
チハ改は国共両軍の主力戦車となった。
いかなる活躍をしたかは不明だが当時の記録フィルムや写真を見ると相当数のチハ改を見られる。

その後
終戦とともに日本の戦車は占領軍により処分されるが、わずかながらその破壊からまぬがれ、使用されたものもある。
そのほとんどが砲塔をはずしドーザーを取り付けたブルドーザ、いわゆる更正戦車である。
戦後は日本の復興のため働き続けたのであった。
しかし1948年の東宝争議に警視庁装備の97式中戦車(更正戦車)が出動している。

データ
全長:  5.52m
車体長: 5.52m
全幅:  2.33m
全高:  2.23m
重量:  15.8t(全備重量)
装甲:  20〜25mm
乗員数: 4名
武装:  48口径47mm砲×1(100発搭載)
     7.7mm機関銃×2(4035発搭載)
主砲貫通力:徹甲弾を使用した場合100mで55mm(1000mで30mm)の装甲板を貫通することができる。
M4中戦車の場合、後面や側面に至近距離であてることができれば撃破することが可能であった。
動力:SA12200VD(170馬力ディーゼル V型空冷12気筒)
走行性能:最大速度:38km/h
航続距離:210km
総生産台数:約920両

現存するチハ改
クビンカ戦車博物館(ロシア)
アルバディーン・アメリカ陸軍兵器博物館(アメリカ)
パッカパンヤル戦車博物館(オーストラリア)
中国人民革命軍博物館(中国)

チハ改が登場する作品
バトル・フィールド1942
COALL OF DUTY WORLD AT WAR
アドバンスド大戦略2001
ワールドアドバンスド大戦略
大戦略大東亜興亡史シリーズ

その他海外雑誌等
海外の雑誌等で日本軍AFVの特集が出る場合その美しい外見からか表紙に第二次世界大戦の日本代表戦車として紹介される時が度々ある。

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