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イグナティウス・ロヨラ

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詳細 2016年4月17日 21:11更新

ええ、そうです。



ロヨラのイグナチオのことです。




ロヨラが好きな人、または好きじゃない人、入りましょう。




イグナチオ・デ・ロヨラ(Ignacio (Íñigo) López de Loyola,1491年12月24日-1556年7月31日)はスペイン・バスク地方出身、カトリック教会の修道会イエズス会の創立者の一人にして初代総長。同会の会員は教皇への厳しい服従をモットーに世界各地で活躍し、現代に至っている。イグナチオは『霊操』の著者としても有名で、対抗改革の中で大きな役割を果たした。カトリック教会の聖人で記念日(聖名祝日)は7月31日である。
イグナチオ・デ・ロヨラことイニゴはバスク地方、サン・セバスティアンのアスペイティアに近いロヨラ城で生まれた。13人兄弟の末っ子だったイニゴは7歳で母を失い、1506年に親戚の騎士でカスティーリャ王国の財務官を勤めていたフアン・ベラスケス・デ・クエラルの従者となった。

1517年以降、イニゴは軍務について各地を転戦したが、1521年5月20日に行われたパンプローナの戦いで、指揮中に飛んできた砲弾が足に当たって負傷し、父の城で療養生活を送ることになった。

療養生活の間、暇をもてあましたロヨラは騎士道物語が読みたかったが、そこにはなかったので仕方がなくイエスの生涯の物語や聖人伝を読みはじめた。やがて、彼の中に聖人たちのように自己犠牲的な生き方をしたいという望みが生まれてきた。彼は特にアッシジのフランチェスコの生き方に影響され、聖地に赴いて非キリスト教徒を改宗させたいという夢を持つにいたった。聖人にあこがれるあまり、彼は自分の名前をイニゴから(アンティオキアのイグナティオスにならって)イグナチオに改めている。

健康を回復すると1522年3月25日にイグナチオはモンセラートのベネディクト会修道院を訪れた。そこで彼は世俗的な生き方との決別を誓い、一切の武具を聖母像の前に捧げ、カタルーニャのマンレザにある洞窟の中にこもって黙想の時を過ごした。

そこでイグナチオは啓示を受けたとされている。ここにいたってイグナチオはひたすらわが身を聖母に捧げることを誓った。しかし、以後の彼の宗教的な人生においても軍事的なイメージがよく用いられることになる。

このころ、イグナチオはすでに『霊操』の原案ともいうべきものをまとめていた。これは彼のもとに霊的指導を求めてやってきた人に対して行った一連の黙想のテーマ集であった。『霊操』の影響はイエズス会にとどまらず、以後のカトリック教会全体にまで及んだ。クレティヌー・ジョリーは霊操の効果によって「イエズス会員は碾き臼に投げ込まれ、その性格と才能とを一度粉々にされた上で、消えることのない刻印が残されるのである」といっている。
1528年、イグナチオはパリ大学に入学し、一般教養と神学を学んだ。パリでは七年学んだが、多くの人々がイグナチオの霊的指導を求めてやってきた。

1534年までに彼は六人の重要な同志を得ていた。フランス出身のピエール・ファーヴル、バスク出身のフランシスコ・ザビエル、スペイン人のアルフォンソ・サルメロン、ヤコブ・ライネス、ニコラス・ボバディリャ、そしてポルトガル人のシモン・ロドリゲスであった。

1534年8月15日、イグナチオと六人の仲間はパリ郊外のモンマルトルの丘の中腹の諸殉教者聖堂(現在のサクレ・クール聖堂の場所にあったベネディクト女子修道院の一部)で誓いをたてた。彼らの立てた誓いは「今後、七人はおなじグループとして活動し、エルサレムでの宣教と病院での奉仕を目標とする。あるいは教皇の望むところならどこでも赴く」というものであった。これがイエズス会の始まりである。

1537年、七人は教皇から直接修道会としての許可を受けようとローマに向かった。時の教皇パウルス3世は一同の知的レベルと志の高さを認め、会を認可した上で司祭叙階の許可を与えた。6月24日、ヴェネツィアに赴いた一行はアルベの司教から司祭叙階を受けた。当時、イタリア半島では神聖ローマ皇帝や教皇、オスマン帝国を巻き込んだ戦いが行われていたため、聖地への渡航をあきらめ、当面はイタリア国内で説教と奉仕活動に専念する方針をたてた。

1538年10月、ファーヴルおよびライネスを従えて再びローマに赴いたロヨラは、教皇から修道会の会憲の認可を得ることで正式な許可を得ようとした。会憲を審査した枢機卿団は好意的な評価を下し、パウロ3世は1540年9月27日の回勅『レジミニ・ミリタンティス』で会を正式に許可した。その際の唯一の条件は会員数が60名を越えないことということであった。この制限も三年後の1543年3月14日に出された回勅『イニュンクトゥム・ノビス』で撤廃された。

イグナチオは会の最初の総長に選ばれた。彼は会員たちを欧州全域に派遣して、一般学校と神学校を各地に創設させた。ローマにおけるカール5世の名代をつとめていたホアン・デ・ヴェガはイグナチオと会談し、その志の高さに感銘を受けた。ヴェガはシチリア総督に任命されるとイグナチオとイエズス会員を同地へ招き、メッシーナに大学を開かせた。メッシーナの大学は評判を呼び、その教育システムは以後のイエズス会学校の雛形となった。1548年、『霊操』の決定版が出版された。このとき、同書の内容に関してローマの異端審問所で審査を受けたが、すぐに解放された。

イグナチオの書いた1554年版会憲はイエズス会をピラミッド型の組織として規定、会員に上長と教皇への絶対的服従と自己犠牲を求めた。イグナチオは「軍隊のごとき」服従という表現を用いている。彼の座右の銘がそのままイエズス会のモットーとなった、「神のより大いなる栄光のために」(Ad Maiorem Dei Gloriam)である。イエズス会の精力的な活動は対抗改革の原動力となった。

1553年から1555年、イグナチオは自らの生涯を振り返って「自伝」を口述し、秘書のゴンサルベス・ダ・カマラ神父に書き取らせた。この自伝は霊操の精神を理解する上でも重要な資料となっている。同書は150年近く書庫に秘蔵されていたが、ボランディストらによって『聖人伝』が出版された際に始めて公刊された。同書の批判版も1943年に『イエズス会歴史叢書』の第一巻として出版されている。

イグナチオは1556年7月31日にローマで死去。1609年7月27日に教皇パウルス5世によって列福され、1622年5月22日にグレゴリウス15世によって列聖された。

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