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織田長益

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詳細 2015年3月9日 22:19更新

織田長益に関するコミュニティが存在していませんでしたので、勝手ながら作ってみました。

興味のある方は是非御参加くださいませ。

御挨拶は、こちらでお願いいたします。
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=39535780&comm_id=4031858

トピックは自由にお立ていただいて結構ですが、なるべく重複されませんようにお願いいたします。



織田長益は安土桃山時代から江戸時代初期の大名・茶人。有楽斎如庵(有樂齋如庵)と号し、後世では有楽(又は有楽斎、有楽齋)と称される。

千利休に茶を学び、利休七哲の1人にも数えられ、後には自ら茶道有楽流を創始した。また、京都建仁寺の正伝院を再興し、ここに立てた茶室如庵は現在、国宝に指定されている。

織田信秀の第11子で、通称は源五(あるいは源五郎)。信長の実弟ではあるが、信長とは相当年齢が離れており、前半生の事歴はあまりわかっていない。1570年代頃から信長の長男信忠の旗下にあり、天正10年(1582年)の本能寺の変の際は信忠と共に二条御所に在陣。信忠が長益の進言に従って自害したのに対し、長益は変節して城を脱出。近江安土を経て岐阜へ逃れた。この時のことを、京の民衆たちには「織田の源五は人ではないよ お腹召せ召せ 召させておいて われは安土へ逃げるは源五 むつき二日に大水出ておた(織田)の原なる名を流す」と後に皮肉られている。しかし、信忠が腹を切った時点では既に二条御所は明智軍に重包されており脱出はほぼ不可能である為、俗説の可能性が高い。

変後は甥である信雄(信忠の弟)に仕え、小牧・長久手の戦いでは徳川家康と豊臣秀吉の講和に際して折衝役を務めたという。その後、知多郡に所領を与えられて大草城に居城した。天正18年(1590年)の信雄改易後は、秀吉の御伽衆として摂津国嶋下郡味舌2000石を領した。

関ヶ原の戦いでは東軍に属し、長男長孝とともに参戦。石田三成家臣の蒲生頼郷を討ち取るなどの戦功を挙げ、戦後大和国内で3万石を与えられた。しかし、戦後も豊臣家に出仕を続け、姪の淀殿を補佐した。このころ建仁寺の子院正伝院を再建し、院内に如庵を設けた。現在、正伝永源院(明治期、名称を変更)には長益夫妻、孫長好らの墓がある。また、長益夫妻、孫娘(次男頼長の娘)、兄信包らの肖像画も伝わっている。

大坂冬の陣の際にも大坂城にあり、大野治長らとともに豊臣家を支える中心的な役割を担った。大坂夏の陣を前にして豊臣家から離れた。豊臣家内の和平派であったためと思われる。一説には幕府の間者であったともいわれている。

大坂退去後は京都に隠棲して茶道に専念し、趣味に生きた。元和元年(1615年)8月、四男長政、五男尚長にそれぞれ1万石を分け与え、長益本人は隠居料として1万石を手元に残し、元和7年(1621年)12月13日、京都で死去。享年75。

正室は平手政秀の娘。子女には長男長孝(庶子)・次男頼長(嫡子)・三男俊長・四男長政・五男尚長・六男宥諌(僧侶)ら六男三女を確認できる。

長男長孝は関ヶ原の合戦において父とともに東軍として参加して戦功を挙げ、1万石を与えられて美濃国野村藩の藩祖となり、事実上幕府から分家を認められた。次男頼長は父とともに関ヶ原の合戦後も豊臣秀頼に仕えた。また、父の創始した茶道有楽流を継承している。四男長政と五男尚長は1615年に父が隠棲した際に大和国内の領地3万石を分割して1万石ずつを与えられ、長政が芝村藩(戒重藩)、尚長が柳本藩の藩祖となり、いずれも1万石の外様大名として明治まで続いた。

なお、長益自身が隠居料として取った1万石は長益の死とともに収公されている。

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開設日
2009年2月5日

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カテゴリ
学問、研究
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