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越後の奸雄 長尾為景

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詳細 2015年1月10日 03:37更新

越後国守護代で、上杉謙信の父。

江戸時代の米沢藩上杉家の基礎を築いたのは、
この人と言っても過言ではない(と思います)。

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半ば放置状態の管理人を、どうかお許しくださいもうやだ〜(悲しい顔)

(以下は、Wikipediaより)
永正3年(1506年)9月、越中で父が戦死(為景は、上杉房能が援軍を出さずに能景を見殺しにしたことを恨んでいたとも云われる)したため長尾氏の家督を継いで越後守護代となった。翌・永正4年(1507年)8月、「為景謀反の気有り」と守護・房能が為景討伐の準備をしていたため、その機先を制して房能の居館を襲撃する。逃亡中に房能が自刃すると、その養子・上杉定実を傀儡として守護に擁立した。

しかし永正6年(1509年)、自刃した房能の兄・関東管領上杉顕定が為景に対して報復の大軍を起こすと、為景は劣勢となって佐渡に逃亡した。捲土重来を期して翌・永正7年(1510年)には反攻に転じ、長森原の戦いで退却する上杉軍に猛攻をかけ、援軍の高梨政盛(為景の外祖父?あるいは伯父か)の助力もあり顕定を敗死させた。これにより、奪われた越後の実権を取り戻すことに成功した。そして自分の姉妹を定実に娶らせ、さらに嫡男・六郎(後の長尾晴景)を定実の猶子とする約定を交わし守護上杉家の外戚として越後の国政を牛耳ろうとした。

下克上の代表格の一人であるが、朝廷や室町幕府といった権威を尊重し、しばしば即位費用等において献金を行った。これにより、叙爵し信濃守となった他、幕府より守護の格式である白傘袋毛氈鞍覆を免許され、塗輿も免許される。

その後は越中や加賀に転戦して、神保慶宗を滅ぼし越中の新河郡守護代を任されるなど勢力を拡大したが、晩年は定実の弟・上条定憲など越後国内の国人領主の反乱に苦しめられ天文5年(1536年)、隠居に追い込まれた。ただし、この年には朝廷より内乱平定の綸旨を受け、更に三分一原の戦いで勝利するなど優勢下での隠居のため、内乱鎮圧に専念するための隠居であった可能性もある。以前は、隠居して間もない天文5年12月24日(1536年2月4日)に死去したとされていたが、最近では、没年を天文11年12月24日(1542年1月29日)とする説が有力となっており、隠居後もしばらく存命していたことになる。

死因については、病死説や上条側による暗殺説などのほかに、一向一揆との戦いで敗れて戦死したという説もあったが、これは為景の父能景と混同したものであり、現在では否定されている。

為景は、まさに戦国時代の火蓋を切る『奸雄』のひとりといえるであろう。越後を我が物にするためであれば、主家打倒も奸計も辞さず、戦うこと百戦に及ぶと言われている。のちに上杉顕定の子・憲房などは「長尾為景は二代の主君を殺害した天下に例の無い奸雄である」と評しているほどである。

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開設日
2008年11月6日

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カテゴリ
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