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海ゆかば(東儀季芳版)

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詳細 2012年2月12日 01:24更新

東儀季芳(とうぎ・すえよし、天保九〜明治三七、生年に関しては異説あり)により明治十三年に作曲された、近代日本音楽第二号「海ゆかば」を愛する人のコミュニティです。

「海ゆかば」は、保育に使う遊戯唱歌として日本人が最初に作った、純国産の唱歌であった。
後にお茶の水女子大学となる東京女子師範学校からの依頼によって、作曲したのは宮内省の楽人たちだったから、どこか優美で典雅である。
この保育唱歌「海ゆかば」は実は、海軍で儀式の時に演奏される儀制曲として作曲されたのが最初である。
海軍省が、天平の和歌「海ゆかば」に作曲したいから楽人を派遣して欲しい、と宮内省に依頼したのが明治十三年一月三十一日、宮内省から、依頼された「海ゆかば」の作曲が出来た、と返事が来たのが、五ヶ月経った六月二十九日のことであった。
当時、東京女子師範学校からの保育唱歌の依頼も、海軍省からの儀制曲の依頼もすべて宮内省に持ち込まれ、維新で因習から解き放たれて創作意欲に燃えていた若手の楽人たちが、日夜せっせとそれらを作っていたのである。
そうした保育唱歌の方は試行錯誤を重ねながら明治十六年には最終版が整えられた。
そこでは結局八十六曲が選ばれたのであったが、その最終選考の段階で、かつて海軍省のために作曲した「海ゆかば」が保育唱歌に編入されたのである。
その結果、明治の「海ゆかば」は海軍では儀式に使われ、幼稚園では遊戯唱歌として教育に使われることになったのである。
帝国海軍が正式に儀制曲を定めたのは大正元年のことであったが、その第二号が「海ゆかば」だった。
第一号は「君が代」である。
「軍艦マーチ」のトリオ(昼間部)としても使われ、今も人々の耳に届いている。


海ゆかば
 二等伶人東儀季芳(伶人長)
 壹越調律旋

海ゆかば 水漬く屍
山ゆかば 草生す屍
大君の 辺にこそ死なめ
和には死なじ

海ゆかば、みつくかばね、やまゆかば、くさむすかばね、おほ君のへにこそしなめのとにはしなじ



【歌詞に就て】
歌詞の由来は勇壮な言上げで、天平勝宝元年四月、当時東大寺の大仏に塗る金を探していた政府に、金を掘り当てたという朗報が入った。
時の聖武天皇は御嘉納になり、「陸奥国に金を出だす詔書」という宣命を煥発遊ばされた。
その中で天皇は、古くから朝廷に仕えてきた大伴・佐伯両氏の忠誠を称え、この両氏が代々伝えてきた歌を引用遊ばした。
それが「海ゆかば」であった。
 海ゆかば 水漬く屍
 山ゆかば 草生す屍
 大君の 辺にこそ死なめ
 穏には死なじ
美しいばかりの、もののふの覚悟を歌った一首で、『日本書紀』に見える。
この一首は『万葉集』(巻一八)にも、聖武天皇の詔に感激した、当の大伴家持が、黄金の出土をよろこんで天平感宝元年五月十二日に作った長歌「陸奥国に金を出だす詔書を賀く歌」として登場する。
 海ゆかば 水漬く屍
 山ゆかば 草生す屍
 大君の 辺にこそ死なめ
 顧みはせじ
最後の一句の違いについては、大伴と佐伯の両家に、両様に伝えられたという考えもあるが、宣命の御言葉を取り入れての改変とも考えられる。

「大君の御為に戦って落命し、死体が水に浮くことになろうとも、或は死体から草が生えるようになっても、我々は大君のお側でこそ死のう。安穏無事に死ぬことは望まない」

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参加メンバー 4人
開設日
2008年9月18日

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カテゴリ
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