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中島三郎助

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詳細 2016年6月30日 22:23更新

【中島三郎助】
幕末の幕臣。諱は永胤。雅号は木鶏。
田付流砲術を修め、西洋式砲術高島流を修めるなど、砲術に秀でていた。
造船や海軍に関する知識は高い評価を受けていたようである。



−経歴−

文政4年(1821) 浦賀奉行所与力中島清司の2男として生まれる。
天保6年(1835) 与力見習として浦賀奉行所に出仕。
  8年(1837) 岡田定十郎(父清司弟)の娘すずと結婚。
嘉永1年(1848) 長男恒太郎誕生。
  2年(1849) 父清司が病気を理由に退役、跡番として正規の与力となる。
  4年(1851) 次男英次郎誕生。
  6年(1853) ペリー来航の際、応接掛として対応。
安政1年(1854) 御船製造掛として、日本最初の西洋軍艦「鳳凰丸」を造る。
  2年(1855) 長崎海軍伝習所に士官候補として入所。
  5年(1858) 軍艦操練所教授方に任命。
万延1年(1860) 軍艦操練所教授方頭取手伝に昇進。
  2年(1861) 持病の悪化を理由に教授方頭取手伝を辞し、浦賀奉行所へ。
元治1年(1864) 富士見御宝蔵番格御軍艦頭取出役。
慶応2年(1866) 健康上の理由から軍艦頭取出役を依頼免職。
        浦賀奉行所の与力も長男恒太郎を跡番にし、隠居。
  3年(1867) 軍艦組出役、小十人格軍艦役勤方を経て、両番上席軍艦役。
  4年(1868) 三男与曾八誕生。
        榎本武揚らと蝦夷へ、蝦夷共和国箱館奉行並。
明治2年(1869) 千代ヶ岡台場の守将として戦い、2人の息子とともに戦死。




ペリー来航時、最初に対応した日本人の1人であり、旧幕臣として函館千代ヶ岡台場で散った中島三郎助。
幕末を最初から最後まで最前線で駆けていた1人であったと思う。




そんな彼の生き方、人柄、知識などに感銘を受けた方。

中島三郎助をみんなに知ってほしい方。

どうぞよろしく!!

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2008年8月4日

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カテゴリ
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