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梅原龍三郎

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詳細 2016年9月2日 15:31更新

梅原 龍三郎(うめはら りゅうざぶろう、1888年(明治21年)3月9日 - 1986年(昭和61年)1月16日)は、大正から昭和にかけての洋画家である。京都府京都市下京区の生まれ。左利き。
1914年(大正3年)までは名を良三郎と名乗るが、この名を本名とする説と、出生時に龍三郎と名付けられたが良三郎に改名していたとする説がある。画風は華やかな色と豪快なタッチが特徴とされ、自由奔放と評される。第二次大戦前から昭和の末期まで長年にわたって日本洋画界の重鎮として君臨した。
晩年に使用した吉田五十八設計の東京都市ヶ谷のアトリエが山梨県北杜市の清春芸術村に移築され公開されている。

1908年(明治41年)に田中喜作(後に美術史家となる)と共にフランスに留学。パリに滞在しアカデミー・ジュリアンに通った。
1909年(明治42年)にピエール・オーギュスト・ルノワールの指導を受ける機会を得た。知人の有島生馬を通じて、1910年(明治43年)にはルノワールについてや、パリの芸術について、雑誌『白樺』に寄稿している。
1913年(大正2年)に帰国し、東京神田で個展「梅原良三郎油絵展覧会」を白樺社の主催で開催。この際に白樺社同人の武者小路実篤、志賀直哉、柳宗悦との知遇を得た。その後1914年(大正3年)の二科会の設立に関わる。同年結婚し長女と長男が生まれた。
1920年(大正9年)に再び渡仏するが、前年に死去したルノアールの弔問のためでもあったという。
1922年(大正11年)に春陽会の設立に参加。その後、春陽会を去り、1925年(大正14年)に土田麦僊の招きで国画創作協会に合流し、国画創作協会洋画部(第2部と称した)を設置した。1928年(昭和3年)に国画創作協会が解散した際に、洋画部が独立し「国画会」となった。
1935年(昭和10年)に帝国美術院(現在の日本芸術院)会員となる。1944年(昭和19年)には帝室技芸員、東京美術学校(現在の東京芸術大学)教授となる。
1952年(昭和27年)に東京芸術大学教授を辞任し、渡欧しベネチア・ビエンナーレの国際審査員を務めた。同年に文化勲章を受章。1953年(昭和28年)に軽井沢にアトリエを設けた。1957年(昭和32年)に日本芸術院会員を辞任。様々な役職を辞した後は渡欧を繰り返し、自由な立場から制作に励んだ。少年時代より良きライバルであった安井曽太郎とともに洋画界の頂点を極め、「日本洋画壇の双璧」と称された。ヨーロッパで学んだ油彩画に、桃山美術や琳派、南画といった日本の伝統的な美術を自由に取り入れ、絢爛たる色彩と豪放なタッチが織り成す装飾的な世界を展開した。(wikiより)

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2008年7月15日

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カテゴリ
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