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藤田元司 第2次監督時代

藤田元司 第2次監督時代

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詳細 2016年1月6日 02:28更新

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藤田元司
(ふじたもとし、1931年8月7日 - 2006年2月9日)
愛媛県新居浜市出身のプロ野球選手(投手)、プロ野球監督、野球解説者。
血液型B型。

■出身地 愛媛県新居浜市
愛媛県立新居浜中学校(旧制)-愛媛県立西条北高等学校-慶應義塾大学-
日本石油-読売ジャイアンツ(1957 - 1964)
プロ入り 1957年 初出場 1957年 最終出場 1964年

■生年月日 1931年8月7日
■没年月日 2006年2月9日(満74歳没)
身長 173cm 体重 64kg
投球・打席 右投右打 守備位置 投手

■タイトル/表彰
新人王(1957年) 最多勝:1回(1959年) 最高勝率:2回(1958年、1959年)
MVP:2回(1958年、1959年) ベストナイン:1回(1959年)
正力松太郎賞:2回(1981年、1989年) 野球殿堂入り(1996年)


■監督時代
監督時代は、山本五十六の「やってみせ、言ってきかせて、させてみて、誉めてやらねば人は動かじ」を座右の銘にし、「誰だって怒られるよりは褒められた方が嬉しい。選手だって同じだ」と語っていた。そのため、短気な性格にも関わらず、選手のやる気を起こさせるのが上手い「誉め上手」の監督と言われ、監督時代は選手を責めるコメントもほとんどなかった。ただし第2次監督時代、ごく親しい知人には「一刻も早く、このチームの性根を叩き直さなければ(自分の後)苦労することになる」と語り、危機感をあらわにしていた。
1度目の巨人監督就任時は、絶大な人気を誇る長嶋茂雄監督解任の後を受けた形だったために、世間の風当たりは非常に強かった。自宅には熱狂的な長嶋ファンからの抗議の手紙が殺到し、中には「娘を殺すぞ」と剃刀の刃を入れた悪質な手紙もあったという。マスメディアの反応も冷ややかなもので、1年目にいきなり日本一に輝いても「活躍しているのは、みんな長嶋が伊東キャンプで鍛え上げた選手だ」と藤田より長嶋の功績を称えていた[2]。このような状況にも冷静な反応を示していた藤田だったが、正力亨オーナーまでもがムードに乗って長嶋へのラブコールを送り始めると流石に堪忍袋の緒が切れ、単身オーナー室に乗り込んで正力に「私のことがいやなら、私は1年で辞めます!!」と啖呵を切った。
守備に難のある選手をほとんど使わなかった広岡達朗や森祇晶と同じく「守りの野球」を掲げてはいたが、唯一長打を望める選手となっていたが故障を抱える原をサードからレフト(1989年 - 1991年)やファースト(1992年)へコンバートし、内野守備を強化。捕手や外野手は、肩を一度壊した村田真一、キャッチングに難のある大久保博元、怪我の影響で守備に不安のある吉村禎章などを日替わりで積極的に起用。ショートの川相以外は目減りしていた既存戦力を再構成し、守備力を底上げしている。その結果1989年・1990年はリーグ本塁打4位ながら、1試合平均4得点以上をマークしており、攻撃面に隠れた手腕を発揮している。
第1次監督時代に継投策で苦労したことから、第2次監督時代では一転して、先発投手に頑固なまでの完投を求めた。特に1990年は、斎藤雅樹・槙原寛己・桑田真澄の三本柱に宮本和知・香田勲男・木田優夫を加えた先発ローテーションの6人でチーム88勝のうち80勝を挙げ、完投数は70にも上っている。中継ぎ・抑え投手には肩に故障を抱えた水野雄仁などが登板していた。
育成面での最高の業績は、斎藤雅樹を日本球界を代表するエースに育て上げたことであろう。斎藤は1983年にドラフト1位で巨人入りするも、1988年までの6シーズンで29勝と伸び悩んでいた。しかし、斎藤にサイドスロー転向を促し、精神的な弱さから「ノミの心臓」と言われていた斎藤に、「斎藤は気が弱いんじゃない、気が優しいだけなんだ」「(斎藤が『マウンドに上がるのが怖いです』と言ったときに)投手というのは臆病でないといけないんだ。色々考えたら臆病になる。怖いというのは、お前が色々考えている証拠だ」と指導し、辛抱強く先発で起用し続けた結果、1990年代最高の投手と言われるまで成長した。斎藤は、最多勝5度のセ・リーグ記録と3年連続開幕戦完封・11試合連続完投勝利の日本記録を達成した。
また、犠打の世界記録を更新し、2006年まで現役を続けた川相昌弘も、藤田がレギュラーに抜擢し育て上げた選手の一人である[3]。
1989年には故障で槙原を欠きながら、日本シリーズで7戦を戦い抜き勝利しているが、1990年はペナントを圧勝したチームとは思えないほどの拙攻・拙守が重なり、黄金期の西武ライオンズにストレート負けを喫し、「硬直化した先発起用に頼ったペナントの戦い方が仇となった」と指摘された。

■監督通算成績
910試合 516勝361敗33分 勝率.588

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』より抜粋



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