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松竹ロビンス

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コミュ内全体

詳細 2016年9月10日 21:16更新

このコミュはプロ野球セントラルリーグの初代覇者である幻の球団『松竹ロビンス』を懐かしむコミュニティーです。
松竹ロビンスのコミュが無かったので立ててみました。
↓以下はWikipediaの記事から転載です。

松竹ロビンス(しょうちくロビンス、Shochiku Robins)
1936年から1952年まで活動していた日本のプロ野球球団。
セントラル・リーグの初代優勝チーム。

母体は1936年に結成された大東京軍(だいとうきょうぐん)。親会社は國民新聞社。資金難で経営が苦しく、1937年にライオン歯磨本舗をスポンサーに迎えチーム名はライオン軍となったが、同春シーズン終了後に田村駒商店を経営する田村駒治郎に譲渡される。

田村は田村駒の地元・関西の球団タイガースの向こうを張る意味でこの「ライオン軍」のチーム名を気に入っていたが、1940年シーズン途中、球団名を日本語化する決定が理事会でなされ、改称を迫られる。ライオン軍はスポンサーのライオン歯磨本舗からかなりの資金援助を受けており(当時の選手の年俸の半分がライオン歯磨本舗からの資金援助で賄われた)、チーム名改称はスポンサー降板に繋がるため球団経営に支障をきたす恐れがあった。各球団がシーズン途中ながら球団名を変更する中、ライオン軍は「ライオンは日本語である」と主張して名称を変えずに1940年のシーズンを終えた。結局、翌1941年より朝日軍(あさひぐん)に改称。ライオン歯磨本舗とのスポンサー契約は終了となった(戦後西鉄ライオンズ(現埼玉西武ライオンズ)が誕生したが、前述の「ライオン軍」とは直接関係はなく、当然ライオンも経営に関わっていない)。

戦後
終戦後の1946年、球団名をパシフィックに変えてリーグに復帰。愛称は「太平」で「太平パシフィック」とも呼ばれた。翌1947年のニックネーム導入により太陽ロビンスと改められる。「太陽」の由来は田村駒の子会社太陽レーヨンから、「ロビンス」の由来は田村駒治郎オーナーの「駒」から「駒鳥=ロビン」の連想による。さらに1948年、「野球は点を取らなアカン」「野球選手の太ったのはアカン」という田村の考えから「太陽」から点を取った大陽ロビンスに球団名をマイナーチェンジ。1950年から松竹と提携を行い松竹ロビンスとなり、セントラル・リーグに加盟。本拠地は京都の衣笠球場だった。

チームの内紛から大映スターズを集団で退団した赤嶺昌志一派を受け入れたこともあって、松竹ロビンスは創設1年目にしてセ・リーグの初代チャンピオンに輝く。エースはこの年39勝の真田重蔵、主砲小鶴誠は当時の日本新記録であるシーズン51本塁打を記録。チームとしても水爆打線と呼ばれた猛打を発揮。しかし日本シリーズでは毎日オリオンズの前に2勝4敗で屈した(真田と小鶴の対立に端を発したチーム内の内紛が原因)。1951年、大阪球場にナイター設備が完成してからは事実上衣笠球場から球場を移転した。

1952年開幕前、当時7球団で日程の組み辛さが問題視されていたセ・リーグで、シーズン勝率3割を切った球団は解散という取り決めが行われた。迎えた同年公式戦、ロビンスは34勝84敗、勝率.288でシーズンを終え勝率3割を下回った。申し合わせに従い1953年1月10日、大洋ホエールズと合併。大洋松竹ロビンスとなり、田村は球団経営から退いた。なお、大映に対抗して球団経営に参画しただけの松竹は、当初から野球に熱が無く1954年限りで球団経営から撤退している。

1950年に98勝、勝率7割台を記録してリーグ優勝したのにもかかわらず、1953年に合併したのは「寂しい。」などという声が少なくない。

なお、大洋松竹ロビンスの後身・横浜ベイスターズの球団史において松竹ロビンスは傍系扱いであり、結成年度・優勝回数・その他記録は一切カウントされない事になっている。

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参加メンバー 3人
開設日
2008年7月4日

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カテゴリ
スポーツ
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