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とからんらん

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詳細 2013年6月10日 23:20更新

トカラについて検索してみました。ただしあくまでweb上の見解であり、いわゆる市井の歴史愛好家の意見が多く、どこまで学術的に確かかはわかりません。ただ、面白がって集めてみました。

 *****
 
さて、日本書記に、トカラ国からの異人の記述があるそうです。
これは、いわゆる中央アジアの印欧語族トカラ語族であったという説が主流ですが、タイのドヴァーラヴァティという説、フィリピンのタガログ語族であった説、というのもあります(ただしフィリピン説は八紘一宇史観のもとの意見だと見受けられます)。

中央アジアからだと朝鮮半島を経由するわけで、トカラ列島とは地理的に結びつきません。しかし日本の古書を研究すると、どうも西海から渡ってきたという結論に結びつくようです。

翻ってタイやフィリピンだと、琉球弧on黒潮ということで、トカラ列島はルートにのります。この東南アジア系は、文化や習俗、家畜などに根拠を求めているのではないかと推測します(詳細資料発見出来ず)。
スンダランドという話もあり。

さらに中央アジアと東南アジアを止揚する見解として、アブギタと呼ばれる表記体系においてはトカラ語もタガログ語も同じ範疇にある、という説もあります。

でもトカラ列島と、上記トカラ語族・タイ・フィリピンを結びつける見解はありませんでした。とはいえWikipediaが言うように、否定する根拠も見つかりませんでした、あははははは。

 *****

上記考察に使った資料、テキストが大量なので↓に挙げておきます。

また、上記市井の意見とは別に、学術的っぽいサイトも挙げておきます。まだ詳しく読んでないのですが、なかなか面白そうであります。

「黒潮圏の考古学」〜
「琉球弧の考古学 −南西諸島におけるヒト・モノの交流史− 」
http://ao.jpn.org/kuroshio/hitomono/index.htm

なお下記各情報、アドレスは忘れたので、詳細はぐぐってください。

**トカラ**

南西諸島の内、鹿児島県側薩南諸島に属する島嶼群。吐喇。

「沖の海原」を指す「トハラ」から転訛したという説が有力。日本書紀には「吐火羅国」。

 *****

 トカラ列島は北から、「口之島」「中之島」「平島」「諏訪之瀬島」「悪石島」「小宝島」「宝島」の有人7島と、臥蛇島、小臥蛇島、小島、上ノ根島、横当島の無人5島からなっている。
 人口は全島で1,000人にも満たない。典型的な過疎の村である。
 交通といえば、たった一隻の村営フェリー「としま」が鹿児島と奄美大島の間の島々を週2回往復するだけである。
 病院といえば、小さな診療所が全島にあるものの、手術を要する急患の時は自衛隊鹿屋基地(鹿児島県)からヘリコプターが飛んできて、患者を鹿児島の病院まで運ぶのである。そのためか、どの島にも立派なヘリポートがある。

 トカラの語源については諸説あるが、沖縄・奄美地方で沖の海原を意味する「トハラ」から派生したという説。宝島に乳房の形をした女神山があることから、アイヌ語の乳房を意味する「トカプ」に由来するものなど。

●トカラにいつごろから人が住み始めたのか?
「中之島」には縄文後期と思われる遺跡も発見されているから、少なくともそれ以前から人がいたことは間違いない。
「文化果てる島」といわれ、草木も生えず、文化も育たない未開の国のように言われるトカラだが、「日本書紀」にもトカラの記述が見える。少なくともその当時の中央政権には認識されていたのである。

●トカラの各島には「平家落人伝説」が伝わっている。
平氏の流れをくむ「平田」「日高」姓の人も多い。源氏に敗れた平家の武士たちがここまで流れてきたかどうか定かでないが、墓から刀が出てきたなどの話は後を絶たない。島々が置かれている自然の状況がそうさせるからなのか、島の人たちは実にゆったりとしている。まるで、いにしえの貴族を彷彿とさせる。それからも、「この人たちは平家の・・・」と思わせるものがある。

先に「文化果てる島」と紹介したが、その時々の政府や社会から忘れ去られてきたトカラでもある。本土で小学校が施行されたのは明治5年(1872)だが、トカラでは昭和5年(1930)になってからである。本土に遅れること実に50年あまり。
電灯が灯り、本土との電話が通じたのは昭和35〜36年以降のことである。
戦後、最北端の島「口之島」の北端(北緯30度)から南の島々はアメリカ統治領となり、昭和27年に返還されるまで本土との自由な往来は遮断されたのである。(詳しい歴史については、「トカラの歴史年表」をご覧ください)

●紀元前
宝島大池遺跡(縄文時代前期)、中之島タチバナ遺跡(縄文時代後期)、宝島浜坂貝塚(縄文時代晩期)等から当時の人々の狩猟や漁労の生活が推測される。
●白雉5 654
4月、トカラ国の男2人、女2人が、舎衛女1人と共に日向に漂着した。
●文治元年 1185
平家は、壇ノ浦の戦いで大敗。平家一統が、十島の島々にも落ち延びて、島に住み着いたといわれる。
●嘉禄3年 1227
十島は、川辺郡に属し、平氏のうちの川辺氏が支配。
●応永3年 1396
口之島郡司肥後氏の妻が京都に上り、観世音像を購入。
●享禄年中 1429〜1440の頃
宝島の平田権二郎定宗が琉球へ渡り、布や酒を購入して鹿児島の藩主へ献上し、以後、琉球の案内約を務める。
●享禄8年 1436
島津氏は、臥蛇島と平島を種子島氏に与える。
●宝徳2年 1450
臥蛇島に漂着した朝鮮人4人は、同島が薩琉の中間にあるという理由で、二人は薩摩へ、二人は琉球へ送られる。
●文明4年 1472
宝島のトカラ観音堂に仏像が安置される。
●永正10年 1513
臥蛇島より種子島氏へカツオ節5連、カツオ煎汁の小桶、綿18把(実際は9把)を上納。
●弘治〜天正年間 1555〜1585頃
日向油津の海賊東与助等が、中之島や宝島をはじめ七島の島々を荒らし回ったので、中之島郡司日高太郎左衛門が討ち、その功により島津氏より鎧、刀を下賜される。
●弘治5年 1559
大隈古江の山伏慶元が口之島に来島したが、乱暴したという理由で殺害された。その後、災害が続くので、万治3年(1690)、鹿児島の僧を招いて供養した。
●慶長14年 1609
島津藩の琉球出兵に際し、七島の人々が水先案内をした。
●宝永元年 1704
口之島、中之島、宝島に薩摩藩の異国船番所を設け、在番を置く。七島の島役は、郡司、横目であった。

●トカラ列島の中でも悪石島にだけ伝わる風習。
「ボゼ」は旧暦7月15日の盆の行事として行われる。
南洋を思わせる異様な仮面だが、いつごろ、どこから伝わったものか島民の誰も知らないし、それを記した記録もない。
明治大学の研究によると、
「ボゼは来訪神であり、村の道や人々のけがれを清め、平常の生き生きした生活に戻す性格と、過ぎた日の不完全な自己を変革して、より完全に近い自己へ躍進させる性格がある。ボゼは善悪未分化の神であり、現在の節分とは異なり、「鬼」と「福」をその一身に担っている。」らしい。
「ボゼ」は学術的に貴重なものらしく、発見者がJ.クライナーという外国人であり、海外にも紹介されている極めて国際的な風習なのである。
しかし、学術的なことは別にして、「ボゼ」は間違いなく悪石島の人々の生活の一部であり、厳しい環境の中で生きる人たちの生活の安泰と病気や悪魔払いのために、年に一度この島に降り立つのである。
3時頃、ボゼは島内のテラ(墓地)の境内を出発する。
向かうのは島民が集まっている公民館の前の広場である。
足にシュロの皮をあて、ビロウの葉を身にまとい、赤土で赤く塗られた面を被ったボゼは、神というより悪魔をイメージさせる。
公民館前に集まった女子供に向かって、手に持っている「ボゼマラ」を突き出す。こうすることによって体内に潜む悪魔を追い出すのである。
しかし、その異様な姿を見た子供たちは泣いて逃げ回る。それを追いかけまわす。こうしたことがおよそ20〜30分続く。その後はボゼの踊りである。
夕方近くになっても、なお道が白く光ってみえるほど日差しは強い。
その中でボゼの激しい踊りが続く。島民が何事もなく1年を過ごせるようにという願いを込めて。

 *****

幻の琉球―トカラ列島 (単行本)
尾竹 俊亮 (著)
トカラ列島は、鹿児島と奄美の中間にある。ここが「ヤマト」化されたのは1609年の「琉球征伐」以降ではないか、との直感を確かめるため、旅をし、海人(うみんちゅ)の話を聞く。そしてトカラは琉球王国の北限だったとの結論に至る異色の紀行集。

 *****

 一方,男性人骨は脚をゆるくしばる屈肢葬(くっしそう)が行われていました。
屈肢葬での埋葬人骨を検出した遺跡としては,中種子町(種子島)の鳥ノ峯(とりのみね)遺跡や西之表市(馬毛島)の椎ノ木(しいのき)遺跡があり,種子島を含む薩南諸島では,主に屈肢葬や屈葬が行われていたようです。
 ところが,注目されるのは,同じ種子島で時期もほぼ同じ西之表市の田ノ脇(たのわき)遺跡では,両脚をまっすぐ伸ばした姿勢で埋葬する伸展葬(しんてんそう)が行われていたことです。
 伸展葬による埋葬人骨を検出した遺跡としては,鹿児島郡十島村(宝島)の大池(おおいけ)遺跡や大島郡笠利町(奄美大島)の宇宿(うしゅく)貝塚,そして大島郡伊仙町(徳之島)の面縄第一貝塚(おもなわだいいちかいづか)などがあります。
 さらに南に位置する沖縄諸島でも,多くの遺跡で伸展葬による埋葬人骨が検出されており,トカラ列島から奄美・沖縄諸島にかけては主に伸展葬で埋葬されていたようです。
 このことからも,薩南諸島とそれより南の島々とでは,埋葬方法が異なることが明らかになりつつあります。
 最初に述べた広田遺跡では,屈葬や屈肢葬が行われた下層人骨に対して,より新しい時期の上層から出土した人骨では,再葬(さいそう)が行われていました。再葬とは,遺骸を仮葬した上で,肉や皮が消滅したあと骨をまとめ,改めて別の1つの墓に集めて,集団で埋葬する方法です。
 この方法で埋葬された人骨は,奄美諸島では検出されていませんが,沖縄諸島では数遺跡で見つかっており,奄美諸島での検出が期待されています。
 南西諸島では,亡くなった人を聖地にそのまま置き,数年後に家族が骨を洗い,改めて埋葬する儀式を最近まで行っており,民俗例でも代表的な埋葬方法として頻繁に紹介されています。
 このような儀式の始まりが,弥生時代から古墳時代の時期にまでさかのぼる可能性があることは,大変興味深いことです。

 *****

『日本書紀』の、奈良の架空の天皇の記事のなかに以下のような記事がある。
これらの記事を読んでいて、やはり、これは九州倭国の外交史の盗用でないかと推理する。

●書記1 孝徳天皇の白雉五年(AD654)四月の条、
「吐火羅國 男二人女二人 舎衞女一人 被風 流來 于日向」
とあり、『これはトカラ国の男2人、女二人、舎衞の女一人が風にあってヒムカ(ひゅうが)に漂着した〉となる。』、百済音で「舎衞」は、 /sa-ui/ もしくは /sok-ui/ /サウィー/ /ソグィー/なので、ソグドの女と推理。
このトカラとはクシャン朝の末裔の国家でアラム文字を使用していたイラン語系の民族だろう。(manase)
●書記2-A 斉明天皇の三年七月三日(657)の条、
「覩貨邏國 男二人女4人 漂泊 于筑紫。言、臣等初漂泊于海見嶋。及以驛招」
『トカラ国の男二人、女4人が筑紫に漂白した。彼らが言うには、『私たちははじめ、海見島=奄美に漂白しました。』駅馬=はいま=はやうまをもって向かいいれられた。」となる。
早馬で迎え入れる距離とは、奈良ではなく九州と考えたほうが自然だ。
●−B 同年七月15日の条
「作 須須彌山像 於飛鳥寺 西。旦 設 盂蘭?會、暮 饗 覩貨邏人。」とある。
『「須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。また盂蘭盆会を営み、夕べにトカラ人を饗=もてなした」となる』これは、別のトカラ人たちか? 吐火羅國と覩貨邏國の表記の違いは、出典の違いだろうか。つまりそれぞれ違う国の記録か?
●書記3 斉明天皇の五年(659)三月十日の条
「吐火羅人 共妻 舎衞婦人 來」とあり、
『「トカラ人が妻なる舎衞婦人と一緒にきたる=朝廷に伺候」となる。』
●書記4 斉明天皇の六年(660)七月十六日の条
「叉*覩貨邏人 乾豆**波斯 達阿 欲歸 本土  求請 送*使曰、願後朝於大國。所以、留妻 爲表。乃與 數十人 于于西海之路」とは、
『「また、トカラ人ケンドゥズ**?パルサワ〈ペルシャ〉ダラーィが本国に帰りたくて、送使を出して欲しいと願い出て言うには『後にまた朝廷にお使いしたい。そこで妻を残して、そのしるしにします』と。こうしてトウ〈十数人〉あまりの人と一緒に、西海に向けて旅立った」という。』
この記事には、「西海に向けて旅立った」とあるように、海のない奈良よりも九州のほうが妥当だろう?
●書記5 天皇の4年(667)1月1日の条
「大學寮 緒学生 陰陽寮 外薬寮及 舎衞女 墮羅女 百済王善光 新羅仕丁等 捧藥 及珍異物進*」
『これは、「大学寮の諸学生・陰陽寮・外薬寮・舎衞女 墮羅女・百済王善光・新羅の仕丁たちが薬や珍異物等を奏献した」という。これは天皇が元旦に…中略…長寿を願うという儀式のことを記したものである。
珍異物等を奏献した人々の中に舎衞女 墮羅女がいたことは間違いない。
しかも墮羅女とは達阿(ダラーイ)と舎衞女の日本で生まれた子どもであった。 』
トカラは地域としては現在のアフガニスタン北部から(アラル海南部)にあたり、トカラ人はイラン系の言語を話す人々で、スキタイ、サカと関係があるとされる。

吐火羅國=覩貨邏國=トカラ国

 *****

 以前の記事で伊藤義教氏の著作『ペルシャ文化渡来考』で舎衛女を中世ペルシャ語から「シャーの娘」であるとの説を述べた。そこから「サーサーン朝ペルシャの最後の王族の使節が日本にやってきた」という展開を示した。このことから、アスカの都には古代のペルシャから、騎馬系遊牧民族が渡来していたという説が各書で引用されている。
 伊藤氏は『日本書紀はゾロアスター教徒の公的来日、大和朝廷による迎接の記録をとどめている。』と述べた。この伊藤氏説、中世ペルシャ語による解読=『舎衞女はシャーフ(王・小王)sah・王の娘・王女』この部分が大きな鍵の一つだ。
 また井上英一氏も「書記にもすでに6世紀の末の欽明の時代よりペルシャ系の人名その後用明〜推古記に専門職名が記録されている。」などと述べている。なお伊藤・井本両氏の解読はそれぞれ「達阿」ダーラーイ・ダーラーで共通しているが、その他の部分では微妙に、ある部分では大きく異なる。しかし、両者とも意訳として納得できるものである。
 つまり、このトカラ国関係の記事は「サーサーン朝はAD651年アラブ侵入軍に抗しきれずに最後の大王ヤズドゲルド三世の死とともに崩壊した。困難な状況にあった国の王子、ペーローズ〈636生まれ)のペルシャ奪回作戦の援助を求めた達阿(ダーラーィ)は、彼らの同族、アスカの大和政権の援助を求めて日本にやってきた。その航海の途中に漂着したが、王女がいたことにより、ヤマト朝廷に迎え入れられた。」ことを示す記事であると強く主張したのである。
 『中国揚子江河口のペルシャ人寄留地から出発した使節団は奄美に漂着した。彼らの情報ではアスカはすでに過去の同胞達の建設した国家があることを情報で知っていた。これらは半島を逆に伝わっていたルートがあったからだろう。』しかもこの中に有力な人物がいた。
 だが、この記録は書記の編纂者たちの集団の記録ではなく、壬申の乱以前に日本に存在した国の記録である。実際の発音も「シャーエ・しゃえい」ではない可能性の方が高い。
 **によれば「『日本書紀』の編纂開始が681年、完成が720年、さらに、井本氏が訳した飛鳥寺や司馬一族の記事は6世紀の話である。トカラ人の話も壬申の乱以前なので、これを記録したのは朝鮮からの帰化人だったと思われるから朝鮮式の漢字音で発音を推定して構わない。また。資料によっては、書いた人間は中国人であれ朝鮮人であれ、それは過去の資料を転写しただけ」というアドバイスをいただいた。
 そこで、百済音で「舎衞」「乾豆」「達阿」をなんと発音していたか?
「舎衞」 /sa-ui/ もしくは /sok-ui/  /サウィー/ /ソグィー/
「乾豆」 /kon-du/  /コンドゥ/
「達阿」 /tal-a/   /タラー/
これに近い発音だった。ということは、

●A・・・書記 孝徳天皇の白雉五年(AD654)四月の条、
「吐火羅國 男二人女二人 舎衞女一人 被風 流來 于日向」
は「トカラ国の男二人、女ふたり、ソグドの女一人が風に流されて日向に流された」と解釈できないだろうか。王族の女ではない。
 654年といえば法隆寺の前身「斑鳩寺」がまだたたき壊されていないときである。その後670年ころに一夜にして焼けたとある。その焼け跡からソグド商人の香木に残された文字・記録が発見されたのである。そしてそれは最近「ボーイトーフ」という商社名か人名であると解読された。
*参照
http://blogs.yahoo.co.jp/cosmorama7272
 このなかの吐火羅國、舎衛を舎衛城、舎衛女を「シュラーバスィテーの女」とすることが多いが、そこは、ネパールから南のインドにある。北アフガニスタンやウズベキスタンあたりのトカラ国から何千キロもある。実際、そこの女とトカラ国の兵隊が出会い、アスカにやってくる理由がわからない。ホラーサーンからヒンドゥークシュ山脈をこえてガンジス川に沿って移動し、そこから南宋に、山また山を越えてくるのだろうか。必然性がない。・・・・

「小林恵子氏はインド洋から『海のルートできた』と主張した。」
続いて、3年後、遅れて違うグループが
●B・・・斉明天皇の三年七月三日(657)の条、「都貨邏國 男二人女4人 漂泊 于筑紫。言、臣等初漂泊于海見嶋。及以驛招」…トカラ国の男二人、女4人が筑紫に漂白した。彼らが言うには、『私たちははじめ、海見島=奄美に漂白しました。』「駅馬=はいま=はやうまをもって大和に向かいいれられた。」となる。3年送れているが、「ダーラーイの家来」だと或る記録ではいっているのか。早馬で大和に向かいいれるほどの待遇である彼らはアスカ京の大王の同族なのではないか?・・・・ 
 (漢字表記が変わった。)これは間違いなくトハリスターン=ペルシャだろう。

続いて
●C・・・同年七月十五日の条「作 須彌山像 於飛鳥寺 西。旦 設 盂蘭?會、暮 饗 覩貨邏人。」(或る本はいう堕羅人)とある。堕羅をメコン川流域と説明しているがどうだろう?…「須弥山の像を飛鳥寺の西に作る。また盂蘭盆会を営み、夕べにトカラ人を饗=もてなした」となる。このころは同じく異民族と思われる人々をこの須彌山でもてなしていた。ダラ人とは王族か?蝦夷人の記事も次に見える。
 到着した彼らを12日後、宗教行事に参加させ、夕べに晩餐会をしたのだ。つまり、トカラの王族の誰かがいたのだ。ダーラーである。「漂流者たちのために須弥山を造り、もてなした」どうだろう。アスカの宗教はミトラ教・ゾロアスター教に近い仏教だったのではないか。?・・・・
 イラン・アーリア語に近いサンスクリット語から来ている盂蘭盆会は「インドのものではなく、仏教が中国に伝播する間に起こってきたもの」だという*3
 そこから来た客に、彼らの宗教と相通ずるやり方で饗をして接待している。・・・・

●D・・・書記 斉明天皇の五年(659)三月十日の条 「吐火羅人 共妻 舎衞婦人 來」とあり、「トカラ人が妻なる舎衞婦人と一緒にきたる=朝廷に伺候」となる。
これは、2年後、・・・・Aの、ソグド人の娘が結婚してトカラ人の妻になっていたことを意味する。*4

●E・・・書記 斉明天皇の六年(660)七月十六日の条 「叉*都 貝化 羅人 乾豆**波斯 達阿 欲歸 本土  求請 送*使曰、願後朝於大國。所以、留妻 爲表。乃與 數十人 于于西海之路」とは、「また、トカラ人、コンドゥ**?〈ペルシャ=パルサワ〉タラーが本国に帰りたくて、送使を出して欲しいと願い出て言うには『後にまた大和朝廷にお使いしたい。そこで妻を残して、そのしるしにします』と。こうしてトウ〈十数人〉あまりの人と一緒に、西海に向けて旅立った」という。ダーラーは「また帰ってきますと言って、その印に妻を残した」のだ。・・・・
 パルサワのコンドゥとはクンドゥスかケント・カンドという地名だろう。サマルカンド・タシケント・などソグド人の都市国家を示すと思う。どちらにしても、アム・ダリアの支流オクサス川の付近だと思う。トカラの表記が3種類あることに、気付かれただろうか。吐火羅・都化邏・都 貝化 羅・(変換ができないので貝と化をそのまま乗せました。)
 翌年、このとき一緒にペーローズは唐で、彼らの帰国を待っていただろう。このときアスカ京では唐・新羅からの侵略の危険にさらされて、サーサーン朝のために援軍を送ることはできなかったと想像できる。翌年661年その知らせを受けたペーローズは唐に亡命する。*5
 サーサーン朝はこのあと、一時故郷に復活したようだが、破れ、唐に引き返している。ペーローズは唐で没していると記憶しているが。タラー(ダーラー)はどうしたのだろう。その後の記録にはでてこない。しかし、彼の婦人をのこしていって、きっとかえって「ヤマト朝廷のために働く」と誓っているダーラーは自分の子供が生まれたことを知っていたのだろうか。

●書記5 天皇の4年(667)1月1日の条 「大學寮 緒学生 陰陽寮 外薬寮及 舎衞女 墮羅女 百済王善光 新羅仕丁等 捧藥 及珍異物進*」…「大学寮の諸学生・陰陽寮・外薬寮・舎衞女 墮羅女・百済王善光・新羅の仕丁たちが薬や珍異物等を奏献した」という。
 これは天皇が元旦に…中略…長寿を願うという儀式のことを記したものである。
「珍異物等を奏献した人々の中に舎衞女 墮羅女がいたことは間違いない。しかも墮羅女とは達阿(ダーラー)とソグドの女の日本で生まれた子どもであった」*6と推測できないか?
 その後、日本に唐・新羅の連合軍が侵略してきた。
 この後663年白村江の戦いに敗れた百済と仲のよかった日本に唐新羅・連合軍が侵略してくるのである。
669斑鳩から火が出る。
 いつだろう。ジッグラットの斉明陵(嘘であろう)といわれる建造物が地中深く埋めるために盛り土された。
 益田の岩舟は巨大すぎてどうにもならなかった。(爆笑)。

* 日本に於ける古代の唯一の西域との交流を物語る文字は、10数年前に法隆寺で発見された香木に刻まれた文字ですが、ゾグド語とパフラビー語(中世ペルシャ語)のようです。大阪大の東野教授は、ボーイトーフという人名か香木のメーカー名ではないかと判断しましたが、井本英一氏はサオシュヤント(ゾロアスター教における救世主)の方言と言われていました。

**以下トピック「コミュ説明の続き」に続く**
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=32717640&comm_id=3484541

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2008年7月3日

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