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『日本の歴史』

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詳細 2015年7月29日 01:25更新

時計−最終更新日−NEW:2008/6/22
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日本の歴史(旧石器時代〜平成時代)について語りませんか?

宜しくおねがいします。

☆トピックは自由に使って下さいね☆ウッシッシ
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本出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』本

旧石器時代
詳細は日本の旧石器時代を参照

日本列島において確認されている人類の歴史は、約10万年ないし約3万年前までさかのぼる。約3万4千年前に華北地方からナイフ形石器と呼ばれる石器が伝わり、列島全域で広く使用されたが、約2万年前にシベリアから新たに細石刃と呼ばれる石器が主に東日本に広まった。しばらく東日本の細石刃文化と西日本のナイフ型石器文化が併存したが、ほどなく細石刃が西日本にも広まり、約1万5千年前ごろ、ナイフ型石器は急速に姿を消した。

約1万2千年前頃、最終氷期が終わり急激な温暖化が始まると、人々の文化や生活に大きな変化が生じ、南西諸島を除き、次の縄文時代へ移行していった。


縄文時代
詳細は縄文時代を参照


登呂遺跡(竪穴式住居)約1万2千年前頃からは縄文時代と呼ばれる。草創期・早期・前期・中期・後期・晩期の6期に区分される。 この頃の人は縄文式土器を作り、早期以降定住化が進んでおもに竪穴式住居に住んだ。弓矢を用いた狩猟、貝塚に見られる漁労、植物の採集などで生活を営み、打製石器、磨製石器、骨角器などを用いた。

栽培も行われ、後期から晩期にかけては稲作が行われた。

南西諸島においてこの時期の前半は旧石器時代が継続していたが、約6千年前以降に貝塚時代に移行し、およそ平安時代末期まで続いた。


弥生時代
詳細は弥生時代を参照


弥生式土器紀元前8世紀頃から3世紀頃までは弥生時代と呼ばれる。時代区分名称は、この時期に特徴的に見られた弥生式土器に由来する。稲作を中心とする農耕社会が成立し、北部九州から日本列島各地へ急速に広まった。農耕社会の成立によって地域集団が形成された。農耕社会の発展とともに地域集団は大型化していき、その中心部には環濠集落が営まれた。当時多く築造された墳丘墓は大型地域集団の首長墓と見られ、身分差が生じ始めていたことの現れだと考えられている。

当時の日本列島は中国から倭・倭国と呼ばれた。大型地域集団の中には中国王朝と通交するものもあり中国から「国」と称された。紀元前後には100前後の国が中国へ通交していたとされる。倭の奴国王は後漢へ通使し金印を授与された。大型地域集団は次第に政治的な結合を強めていき、倭国連合と呼びうる政治連合体を2世紀初頭頃に形成した。その盟主は倭国王と称し、最初期の倭国王に帥升がいる。しばらく倭国は政治的に安定していたが、2世紀後葉に倭国大乱と呼ばれる内乱が生じ、その後邪馬台国の卑弥呼が倭国王となった。卑弥呼は魏との通交により倭国連合の安定を図った。

北海道・北東北地方においては水田耕作が受容されず続縄文時代に移行した。



古墳時代
詳細は古墳時代を参照


大仙陵古墳(前方後円墳)3世紀中後期から7世紀頃までは古墳時代と呼ばれる。


馬の埴輪3世紀中葉に出現した前方後円墳とそれに伴う墓制が大和地域を中心として急速に列島各地に広まっており、このことは畿内・山陽・北部九州に並立していた地域政治集団が糾合してヤマト王権を形成したことを表していると考えられている。ただし、これについて初期国家の段階ではなく、王権の連合(連合王権)に過ぎないとする見解もある。

4世紀後半からヤマト王権は、武器・農具の原料である鉄資源を求めて朝鮮半島南部への進出を開始したが、これを契機として朝鮮半島や中国の技術・文物が倭国へ多く流入することとなった。5世紀に入るとヤマト王権は本拠を河内平野へ移し、中国王朝との通交を活発に行った。中国史書に名の残るこの時期のヤマト王権の首長を倭の五王という。倭の五王は国内に対し治天下大王と称したが、これは倭国を中国と別個の天下とする意識の現れとされる。この時期の前方後円墳は応神天皇陵や仁徳天皇陵など特に規模が巨大化しており強力な王権の存在を示している。

倭の五王の後、5世紀後葉から6世紀前葉にかけてヤマト王権内部の政治混乱が見られたが、継体天皇の登場すると政治混乱の収拾が図られた。一方、朝鮮半島への進出傾向は大きく後退した。こうした内向的な時期を経てヤマト王権による支配体制が徐々に強化されていった。

この時期の後半、5世紀ころからオホーツク海沿岸地域ではオホーツク文化が成立し、およそ13世紀まで続いた。



飛鳥時代
詳細は飛鳥時代を参照


法隆寺五重塔
6世紀後半から8世紀初頭までは、ヤマト王権の本拠が飛鳥に置かれたことから飛鳥時代と呼ばれる。

6世紀後半にはヤマト王権の国内支配が安定し、むしろ王権内部の王位継承抗争が目立った。この時期には百済から仏教が伝来し、後の飛鳥文化・白鳳文化などの仏教文化へと発展していった。6世紀末、400年ぶりに中国を統一した隋の登場は、東アジア諸国の政治権力の集中化をもたらし、倭国でも7世紀前葉にかけて聖徳太子と蘇我氏により遣隋使派遣・冠位十二階制定・十七条憲法導入などの国政改革が行われた。しかし豪族層の抵抗も根強く、権力集中化はその後も企図されたが、その動きは伸び悩んだ。

7世紀中葉の大化の改新も権力集中化の動きの一つであり、一定の進展を見せている。しかし、権力集中化への最大の契機は、7世紀後半の百済復興戦争における敗北(→白村江の戦い)であり、倭国内は国制整備で一致し、権力集中化が急速に進み始めた。さらに壬申の乱に勝利した天武天皇は権力集中を徹底し、天皇の神格化を図った。天皇号の制定時期は天武期と考えられている。併せて、天皇支配を具現化するために律令制の導入を進め、8世紀初頭の大宝律令制定に結実した。日本という国号もまた、大宝律令制定の前後に定められている。

なお、この時期北海道中西南部・青森県北部においては擦文時代を迎える。


東大寺大仏

奈良時代
詳細は奈良時代を参照


薬師寺東塔8世紀初頭から末にかけては奈良時代と呼ばれ、奈良に都城(平城京)が置かれた。

この時期は、律令国家体制の形成と深化が図られた。王土王民思想に基づく律令制は、天皇とその官僚による一元的な支配を志向しており、民衆に対しては編戸制・班田制・租庸調制・軍団兵士制などの支配が行われた。8世紀前半は、律令制強化への動きが積極的に展開しており、三世一身法・墾田永年私財法などの農地拡大政策もこうした律令制強化の一環だったと考えられている。しかし、8世紀後半に入ると、百姓階層の分化が始まり、百姓の逃亡が増加するなど、律令支配の転換を迫る状況が生じていった。

また、新羅を蕃国とし、東北地方の蝦夷・南九州の隼人を化外民とする中華意識が高まり、日本は、新羅へ朝貢を要求するとともに、蝦夷・隼人らを「教化」して律令支配へと組み込もうとしていった。

文化面では、『日本書紀』・『万葉集』・『風土記』などが編まれた他、遣唐使がもたらした大陸文化に影響を受けた天平文化が栄えた。仏教では鎮護国家思想が強まり、聖武天皇の発願で東大寺・国分寺が国家護持の名目で建立された。



平安時代
詳細は平安時代を参照

8世紀末頃から12世紀末頃までは平安時代と呼ばれ、桓武天皇の築いた平安京が都とされた。


平等院鳳凰堂平安前期には百姓階層の分化が一層進み、前代から引き続いた律令国家体制に限界が生じていた。そこで政府は11世紀初頭ごろから地方分権的な国家体制改革を精力的に推進し、王朝国家体制と呼ばれる体制が成立した。王朝国家では、大幅に統治権限を委譲された受領とその国衙機構による地方支配が展開した。この受領・国衙支配のもと、収取体系においては負名体制が形成し、軍事面においては国衙軍制を通じて武士階層が登場した。また、中央政治においては11世紀に藤原北家が政権中枢を担う摂関政治が成立した。

12世紀に入ると王朝国家のあり方に変化が生じ、12世紀末から13世紀にかけて荘園の増加が著しくなり、荘園公領制と呼ばれる中世的な支配体制が確立した。同時期には上皇が治天の君として政務に当たる院政が開始しており、この時期が古代から中世への画期であるとされている。平安末期には保元・平治両乱を経て武士が政治に進出していき、その結果、平氏政権が登場した。

奈良時代から漸次的に進んでいた文化の日本化が国風文化として結実し、平仮名・片仮名の使用が開始し、『源氏物語』・『枕草子』に代表される物語文学などが花開いた。密教や末法思想が広く信じられ、神仏習合が進み、寺院が多く建てられた。

南西諸島においては、12世紀ころからグスク時代に入る。以降の南西諸島の歴史の詳細は沖縄の歴史を参照。



鎌倉時代
詳細は鎌倉時代を参照


蒙古襲来絵詞12世紀末頃から14世紀頃までは鎌倉時代と呼ばれ、中央の公家政権と関東の武家政権が並立した。

源頼朝を首長とする鎌倉幕府は、治承・寿永の乱で勝利して平氏政権を打倒し、その後の過程で守護・地頭補任権を獲得し、朝廷(公家政権)と並びうる政権へと成長した。源氏の将軍は三代で断絶し、御家人筆頭である北条氏が幕府政治を実質的にリードする執権政治が確立。また、承久の乱の結果、公家政権は武家政権に寄生する存在となった。

13世紀中期頃から、貨幣経済の浸透と商品流通の活発化、村落の形成、地頭ら武士による荘園公領への侵出など、大きな社会変動が生じ始めた。この動きは13世紀後半の元寇によって加速し、幕府の対応策は徳政令発布や得宗専制という形で現れた。また在地社会では悪党・惣村などが出現し、荘園公領制の変質化が急速に進行した。

文化面では運慶と快慶の金剛力士像など、写実的な美術が展開した。また宗教面では鎌倉新仏教の成立により、民衆へ仏教が普及していった。

北海道においては、13世紀ころからアイヌ文化が成立した。



南北朝時代
詳細は南北朝時代の項を参照。
14世紀頃は南北朝時代と呼ばれ、大覚寺統の南朝と持明院統の北朝に朝廷が分かれた。室町時代の初期に当たる。

大覚寺統の後醍醐天皇は鎌倉幕府を滅ぼし、建武の新政と呼ばれる天皇専制の政治を行うが、武士の不満が増すと、足利尊氏はそれを背景に新政から離れ、持明院統を擁立して大覚寺統を南の吉野に追い、南北朝の争いが全国で行われた。


鹿苑寺金閣(北山文化)
慈照寺銀閣(東山文化)文化面では、ばさらに代表されるように、身分秩序を軽視し華美な振る舞いに走る傾向が見られた。また、連歌が流行し、二条河原落書など文化の庶民化への動きが見られた。


室町時代
詳細は室町時代を参照


天橋立図(水墨画)14世紀頃から16世紀頃までは室町時代と呼ばれ、京都の室町に幕府が置かれた。

足利尊氏が南朝に対して北朝を擁立し室町幕府を開いた。京都に本拠を置いた幕府は、朝廷の権能を次第に侵食したため、朝廷(公家政権)は政治実権を失っていった。各国に置かれた守護も半済等の経済的特権の公認や守護請の拡大などを通じて、国内支配力を強め、国衙機能を取り込んでいき、守護大名へと成長して、守護領国制と呼ばれる支配体制を築いた。こうして幕府と守護大名が構築した相互補完的な支配体制を室町幕府-守護体制という。

3代将軍足利義満は南北朝合一を遂げ、また日明貿易を行い明皇帝から[日本国王に冊封された。義満は守護大名の勢力抑制に努めたが、守護大名の拡大指向は根強く、幕府対守護の戦乱が多数発生した。幕府-守護体制は15世紀中葉まで存続したが、応仁の乱によって大きく動揺すると明応の政変を契機としてついに崩壊し、戦国時代へと移行した。

この時代の社会原則は自力救済であり、各階層内において連帯の動き、すなわち一揆が浸透した。村落社会の自立化が進み惣村・郷村が各地に成立した。西日本では交易が活発化し、その活動は朝鮮・中国に及んだ(倭寇)。文化面では、連歌・猿楽・喫茶など身分を超えた交流に特徴付けられる室町文化が栄えた。この文化は禅宗の影響を受け、簡素さと深みという特徴も持っていた。



戦国時代

川中島の戦い詳細は戦国時代の項を参照。
15世紀後期から16世紀後期にかけての時期を戦国時代と呼ぶ。

この時代は、守護大名や守護代、国人などを出自とする戦国大名が登場し、それら戦国大名勢力は中世的な支配体系を徐々に崩し、分国法を定めるなど各地で自立化を強めた。一円支配された領国は地域国家へと発展し、日本各地に地域国家が多数並立した。この地域国家内における一元的な支配体制を大名領国制という。地域国家間の政治的・経済的矛盾は、武力によって解決が図られた。


そうした流れの中で16世紀中葉に登場した織田信長は、兵農分離などにより自領の武力を強力に組織化して急速に支配地域を拡大していった。

この時代は、農業生産力が向上するとともに、地域国家内の流通が発達し、各地に都市が急速に形成されていった。また、ヨーロッパとの交易(南蛮貿易)が開始し、火縄銃やキリスト教などが伝来し、日本社会に一定の影響を与えた。


安土桃山時代

織田信長
豊臣秀吉詳細は安土桃山時代を参照

織田信長は将軍足利義昭を放逐し、室町幕府に代わる畿内政権を樹立した。しかし、信長が本能寺の変により滅ぼされると、天下統一事業は豊臣秀吉が継承することとなった。

秀吉は、信長の畿内政権を母体として東北から九州に至る地域を平定し、統一事業を完了した。秀吉もまた中世的支配体系・支配勢力の排除・抑制に努め、太閤検地の実施を通して荘園公領制・職の体系を消滅させ、これにより中世は終焉を迎えた。秀吉は朝鮮への出兵を実行したが、その最中に死去し、後継者問題も抱えていた豊臣政権は弱体化した。

秀吉による天下統一が成り、政治や経済の安定がもたらされると、大名と武士を中心として豪壮な桃山文化が展開した。


江戸時代
詳細は江戸時代を参照


徳川家康慶長8年(1603年)から慶応3年(1867年)までは江戸時代と呼ばれ、江戸に江戸幕府が置かれた。

豊臣秀吉が死去すると、徳川家康は関ヶ原の戦いに勝利して征夷大将軍に任じられ、大坂の役で豊臣氏を滅ぼした。幕府は禁中並公家諸法度や武家諸法度で朝廷や大名を統制し、諸大名は参勤交代で江戸と領国の往復を課せられた。幕府はキリシタンを禁止し、島原・天草一揆を経て鎖国を完成させ、オランダや清との長崎の出島における交易がわずかに行われた。李氏朝鮮とは朝鮮通信使による交渉が保たれた。

政治が安定すると経済が発展して、徳川綱吉の時代には好景気に沸き商人や町人が力を伸ばし元禄文化が栄えた。


浮世絵(『富嶽三十六景 - 凱風快晴』葛飾北斎中期には幕府の財政が悪化し、徳川吉宗は享保の改革を行い一時財政を立て直すが、再び悪化し、その後に寛政の改革、天保の改革などで建て直しが図られたが、根本的な解決にはならなかった。貨幣商品経済の発展にともない、化政文化などの町人文化が栄える一方で、旧来の米の年貢収入を基盤とする大名や旗本は窮乏化した。大名は藩政改革を行い、長州藩や薩摩藩はこれに成功して後に雄藩と呼ばれるようになる。

末期は特に幕末と呼ばれ、欧米諸国から開国を迫られ、ペリーが来航して日米和親条約などの不平等条約が結ばれ鎖国は崩れた。開国にともない尊皇攘夷の考えが強まり、半ば内乱状態になり幕府の権威は弱体化して、遂に徳川慶喜は大政奉還を行い朝廷に政権を還した。

元禄文化や化政文化などの町人文化が栄えた。寺子屋や藩校で広く教育が行われ、歌舞伎が演じられ、俳諧が詠まれ、浮世絵が描かれ、お陰参りなど旅行が行われた。


明治時代
詳細は明治を参照


明治天皇明治年間(1868年 - 1912年)は明治時代と呼ばれる。

朝廷とそれを推戴する諸藩は、王政復古の大号令や戊辰戦争などを経て江戸幕府勢力を退けると、新たな政府(明治新政府)を樹立した。新政府は欧米の諸制度を積極的に導入し、廃藩置県など明治維新と呼ばれる様々な改革を行った。その流れで琉球王国や蝦夷地(現在の北海道や千島列島など)を日本領とし、現在の日本につながる国土の領域をほぼ確定した。また同時に欧米の文化・文物が導入され、その有様は文明開化と呼ばれた。新政府は帝国議会の設置や大日本帝国憲法の制定など国制整備に努める一方で、産業育成と軍事力強化(富国強兵)を国策として推し進め、近代国家の建設は急速に進展した。日本は、日清戦争と日露戦争に勝利を収めた後、列強の一角を占めるようになり、国際的地位を確保していく中で韓国併合を行った。

文化面では欧米から新たな学問・芸術が伝来し、それまでの日本に存在しなかった個人主義に基づく小説という文学が登場するなど、江戸時代以前とは大きく異なった文化が展開した。宗教面では従来の神仏混交が改められ(神仏分離)、仏教弾圧(廃仏毀釈)などの動きも見られた。


大正時代
詳細は大正、日本近代史をそれぞれ参照

大正年間(1912年 - 1926年)は大正時代と呼ばれる。

日本は第一次世界大戦に参戦して勝利し、列強の一つに数えられるようになる。米騒動を契機とする大正デモクラシーと呼ばれる政治運動により、普通選挙が実施され政党政治が成立した。日本は大戦特需による未曾有の好景気に沸くが、大戦が終わるとその反動による深刻な不景気に苦しみ、そこに関東大震災が追い討ちをかけた。


昭和時代
詳細は昭和、日本近代史をそれぞれ参照


東京タワー昭和年間(1926年 - 1989年)は昭和時代と呼ばれる。

大正期から続いた不景気から回復できないまま、世界恐慌が直撃し、社会不安が増大する。政党政治に代って軍部が力を持ち、満州を占領して満州国を樹立し、やがて中国との泥沼の日中戦争に発展する。アメリカやイギリスの反発を招いて国際連盟を脱退。日本は国際的に孤立してドイツ、イタリアのファシスト政権と三国同盟を結び、第二次世界大戦(太平洋戦争・大東亜戦争)に突入した。

日本軍はアメリカ軍の物量と通商破壊戦に圧倒され、原爆を投下されて太平洋戦争に敗れた。戦後はGHQの占領の下で、日本国憲法が制定され、天皇は象徴とされ、国民主権や平和主義などが定められた。サンフランシスコ平和条約により主権を回復し、日米安全保障条約が結ばれ、冷戦下の西側陣営となる。政治的には自民党と社会党の保革55年体制が続く。経済的には高度経済成長を遂げ、経済大国と呼ばれるに至った。昭和の末期にはバブル景気と呼ばれる好景気に沸いた。



平成時代
詳細は平成を参照

平成年間(1989年 - )は平成時代と呼ばれる。

昭和末期から続いたバブル景気が崩壊し、長い不景気に苦しみ、経済面での構造改革が進められた。その効果もあって、平成14年ごろから景気が回復し始め、平成18年にはいざなぎ景気を超える長期間の景気拡大を達成した。政治面では冷戦が終結した結果、自民党と社会党との55年体制が消滅して保守化傾向が進展した。そのため、長年タブーだった自衛隊の海外派遣が行われ、憲法改正や教育基本法改正が論議されるようになった。

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参加メンバー 3人
開設日
2008年6月21日

3202日間運営

カテゴリ
学問、研究
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