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自警録(新渡戸稲造著)

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詳細 2016年6月3日 10:30更新

新渡戸 稲造(にとべ いなぞう、1862年- 1933年(昭和8年))

農学者、教育者。国際連盟事務次長も務める。著書 Bushido: The Soul of Japan(『武士道』)は、流麗な英文で書かれ、名著と言われている。日本銀行券の五千円券の肖像としても知られる。拓殖大学名誉教授。


『自警録(じけいろく)』〜心のもちかた〜(大正5年10月出版)

「実業之日本社」誌(月刊誌)に、明治41年から勤労青年にむけた「修養講話」を連載した。その内容をまとめた、『修養』『世渡りの道』が出た後、この自警録が出された。そのご、さらに亡くなった次の年の昭和9年『人生読本』が出されています。


『自警録』の著書の序文を一部紹介します。

(序文 より)
 とにかく道徳の思想は高尚、その道理は遠大であろう。(中略)
 ・・これに反し、われわれの最も意を注ぐべき心がけは平常毎日の言行 ― 言行と言わんよりは心の持ち方、精神の状態である。平常の鍛錬が成ればたまたま大々的の煩悶(ぼんもん)の襲い来る時にあっても、解決が案外容易に出来る。ここにおいてわが輩は日々に心得、尋常平生の自戒をつづりて、自己の記憶を新たにするとともに同志の人々の考えに供したい。(新渡戸稲造)


(後書き より)
 一、学問のない人に学識と徳操を涵養し、逆境に苦しむ人々に慰めを与えたい。
 二、高尚な原理を平易に砕いて、一般の人に通じるように、事実に基づいて説く
   必要がある。
 三、満腹の信用をもって読みかつ行なおうとしている読者に答えねばならぬ。
 四、実業に従事する人の修養を卑近に説いて、個人および国家の富の増進につと
   めることは、大いに必要である。
 五、営利第一でなく、読者の利益をおもい、個人の幸福、社会の発達に貢献しよ
   うというジャーナリズムに共鳴する。(中略)

 読者が第十八章「知らぬ恩人に対する感謝」をせめて熱読反復されるよう切に望みたい。この一章でも人生の観方うぃ変える力をもつ。「愛」がそこにはたちこめているからだ。(佐藤全弘)


印象に残った言葉、

・理想を行為に翻訳するのが人生
・人の力を出せば出す程(余力が)ふえる
・心から湧き出たものが真の言葉




<生涯>

現在の岩手県盛岡市に盛岡藩士 新渡戸十次郎の三男として生まれる。

札幌農学校(現在の北海道大学)の二期生として入学する。農学校創立時に副校長(事実上の校長)として一年契約で赴任した、「少年よ大志を抱け」の名言で有名なウィリアム・クラーク博士はすでに米国へ帰国しており、新渡戸たちの二期生とは入れ違いであった。

ある日の事、学校の食堂に張り紙が貼られ、「右の者、学費滞納に付き可及速やかに学費を払うべし」として、稲造の名前があった。その時稲造は「俺の生き方をこんな紙切れで決められてたまるか」と叫び、衆目の前にも関わらず、その紙を破り捨ててしまい、退学の一歩手前まで追い詰められるが、友人達の必死の嘆願により何とか退学は免れる。他にも、教授と論争になれば熱くなって殴り合いになることもあり、「アクチーブ」(アクティブ=活動家、今で言うテロリストの意味合いもある)というあだ名を付けられた。

クラークは一期生に対して「倫理学」の授業として聖書を講じ、その影響で一期生ほぼ全員がキリスト教に入信していた。二期生も、入学早々一期生たちの「伝道」総攻撃にあい続々と入信し始め、一人一人クラークが残していった「イエスを信ずるものの誓約」に署名していった。

農学校入学前からキリスト教に興味をもち、自分の英語版聖書まで持ち込んでいた稲造は早速署名し、後日、同期の内村鑑三(宗教家)、宮部金吾(植物学者)、廣井勇(土木技術者)らとともに、函館に駐在していたメゾジスト系の宣教師M.C.ハリスから洗礼を受けた。この時にキリスト教に深い感銘を受け、キリスト教にのめり込んで行く。
東京大学(のち帝国大学、東京帝国大学)進学後、「太平洋のかけ橋」になりたいと私費でアメリカに留学、ジョンズ・ホプキンス大学に入学。この頃までに稲造は伝統的なキリスト教信仰に懐疑的になっており、クエーカー派の集会に通い始め正式に会員となった。クェーカーたちとの親交を通して後に妻となるメリー・エルキントンと出会った。

その後札幌農学校助教授に任命され、ジョンズ・ホプキンス大学を中途退学して官費でドイツへ留学。ボン大学などで聴講した後ハレ大学より博士号を得て帰国し、教授として札幌農学校に赴任する。この間、新渡戸の最初の著作『日米通交史』がジョンズ・ホプキンス大学から出版され、同校より名誉学士号を得た。

だが、札幌時代に夫婦とも体調を崩し、カリフォルニア州で転地療養。この間に名著『武士道』を英文で書きあげた。日清戦争の勝利などで日本および日本人に対する関心が高まっていた時期であり、1900年(明治33年)に『武士道』の初版が刊行されると、やがて各国語に訳されベストセラーとなった。

その後、第一高等学校校長、東京殖民貿易学校長、東京帝国大学教授、拓殖大学学監、東京女子大学学長などを歴任。1920年の国際連盟設立に際して、教育者で『武士道』の著者として国際的に高名な新渡戸が事務次長に選ばれた。事務次長としてバルト海のオーランド諸島帰属問題などに尽力した。

エスペランティストとしても知られ、1921年(大正10年)には国際連盟の総会でエスペラントを作業語にする決議案に賛同した。しかし、フランスの反対にあい、結局実現しなかった。

晩年は、日本が国際連盟を脱退し軍国主義思想が高まる中「我が国を滅ぼすものは共産党と軍閥である」との発言が新聞紙上に取り上げられ、軍部や右翼の激しい反発を買い、多くの友人や弟子たちも去る。

一方、反日感情を緩和するためアメリカに渡り、日本の立場を訴えるが「新渡戸は軍部の代弁に来たのか」とアメリカの友人からも理解されず、失意の日々だった。1929年(昭和4年) 学監を務めた拓殖大学の名誉教授に就任。

1933年(昭和8年)秋、カナダのバンフで開かれた太平洋調査会会議に日本代表団団長として出席するため渡加。会議終了後、当時国際港のあった西岸ヴィクトリアで倒れ、永眠。


[経歴]
1882年(明治15年) 農商務省御用掛となり、11月札幌農学校予科教授。
1884年(明治17年) 渡米して米ジョンズ・ホプキンス大学に入学。
1887年(明治20年) 独ボン大学で農政、農業経済学を研究。
1889年(明治22年) ジョンズ・ホプキンス大学より名誉文学士号授与。
1891年(明治24年) 米国人メリー・エルキントン(日本名:萬里)と結婚。帰国し、
          札幌農学校教授となる。
1894年(明治27年) 札幌に遠友夜学校を設立。
1897年(明治30年) 札幌農学校を退官し、群馬県で静養中『農業本論』を出版。
1900年(明治33年) 英文『武士道』(BUSHIDO: The Soul of Japan)初版出版。
          ヨーロッパ視察。パリ万国博覧会の審査員を務める。
1901年(明治34年) 台湾総督府民政部殖産局長就任。
1903年(明治36年) 京都帝国大学法科大学教授を兼ねる。
1906年(明治39年) 第一高等学校長に就任。東京帝国大学農学部教授兼任。
1916年(大正5年) 東京貿易殖民学校長に就任。
1917年(大正6年) 拓殖大学学監に就任
1918年(大正7年) 東京女子大学学長に就任。
1920年(大正9年) 国際連盟事務次長に就任。
1921年(大正10年) チェコのプラハで開催された世界エスペラント大会に参加。
1926年(昭和元年) 国際連盟事務次長を退任。貴族院議員に。
1929年(昭和4年) 太平洋調査会理事長に就任。拓殖大学名誉教授に就任。
1933年(昭和8年) カナダ・バンフにて開催の第5回太平洋会議に出席。
         ビクトリア市にて客死。

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