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徳一菩薩 敷衍の会

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詳細 2015年9月22日 10:27更新

徳一(とくいつ、天平宝字4年(760年)? − 承和2年(835年)?)は、奈良時代から平安時代前期にかけての法相宗の僧。父は藤原仲麻呂(恵美押勝)で、徳一はその十一男と伝えられている。徳溢、得一とも書く。生没年には諸説があるが、「南都高僧伝」には天平勝宝元年(749年)出生、天長元年7月21日(824年8月23日)没と記されている。

初め東大寺で修円らから法相教学を学んだとされ、20歳頃に東国へ下った。弘仁6年(815年)空海から密教経典などの書写・布教を依頼されるが、これに対して真言密教への疑義を記した11か条の「真言宗未決文」を空海に送っている(ちなみに空海は徳一の「未決文」に対してあえて反応は示さなかった。真言宗側から「未決文」に対して反論がなされたのは実に500年後のことである)。

また、天台教学に対しては「仏性抄」を皮切りに批判を加え、弘仁8年(817年)年頃から最澄との間で一大仏教論争である三一権実諍論(さんいちごんじつそうろん。または「三乗一乗権実論争」)を展開した。

この間、陸奥国会津慧日寺や同国会津勝常寺、常陸国筑波山中禅寺(大御堂)、西光院など陸奥南部〜常陸にかけて多くの寺院を建立すると共に、民衆布教を行い「徳一菩薩」と称されたという。現在、慧日寺跡(福島県耶麻郡磐梯町)には徳一の墓と伝えられる五輪塔が残されている。

なお、日蓮を本仏とする宗派では、徳一は最澄と法華経を誹謗した失(とが)によって、舌が八つに裂けて死んだ、などといっている(出典は不明)。


--恵日寺--
慧日寺は平安時代初め、大同2年(807年)に法相宗の僧・徳一によって開かれた。徳一はもともとは南都(奈良)の学僧であったが布教活動のため会津へ下り、勝常寺や円蔵寺(柳津虚空蔵尊)を建立し、会津地方に仏教文化を広めていた。また、徳一は会津の地から当時の新興仏教勢力であった天台宗の最澄と「三一権実論争」、真言宗の空海と「真言宗未決文」など大論争を繰り広げていた。徳一は承和9年(842年)に死去し、今与(金耀)が跡を継いだが、この頃の慧日寺は寺僧300、僧兵数千、子院3800を数えるほどの隆盛を誇っていたといわれる。

平安時代後期になると慧日寺は越後から会津にかけて勢力を張っていた城氏との関係が深くなり、承安2年(1172年)には城資永より越後国東蒲原郡小川庄75ヶ村を寄進されている。その影響で、源平合戦がはじまると、平家方に付いた城助職が木曽義仲と信濃国横田河原で戦った際には、慧日寺衆徒頭の乗丹坊が会津四郡の兵を引き連れて助職の援軍として駆けつけている。しかし、この横田河原の戦いで助職は敗れ、乗丹坊も戦死し、慧日寺は一時的に衰退するのである。

その後中世にはいると領主の庇護などもあり伽藍の復興が進み、『絹本著色恵日寺絵図』から室町時代には複数の伽藍とともに門前町が形成されていたことがわかる。しかし、天正17年(1589年)の摺上原の戦いに勝利した伊達政宗が会津へ侵入した際にその戦火に巻き込まれ、金堂を残して全て焼失してしまった。そしてその金堂も寛永3年(1626年)に焼失し、その後は再建されたがかつての大伽藍にはほど遠く、明治2年(1869年)の廃仏毀釈によって廃寺となった。その後、多くの人の復興運動の成果が実を結び、明治37年(1904年)に寺号使用が許可され、「恵日寺」という寺号で復興された。なお、現在は真言宗に属している。


以上。鄙の地の巨人 徳一大師を顕彰するコミュニティー。


※このコミュは特定の新興宗教、既成の宗教団体に関与しておりません。

■観光情報■
http://www1.town.bandai.fukushima.jp/kanko/enichiji/index.htm

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開設日
2008年5月23日

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カテゴリ
学問、研究
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