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チャールズ・ミルズ・マンソン

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コミュ内全体

詳細 2017年4月19日 13:16更新

チャールズマンソンのコミュがありそうでなかったので、作りました。
彼の奇行に興味がある人、殺人鬼などに興味のある人、語りましょう。

トピたては自由です。


知らない人でもわかりやすい彼の説明。


チャールズ・ミルズ・マンソン

1934年11月12日オハイオ州シンシナティで私生児として出生。
幼少時、母親は当初マンソンの面倒を見ず、親戚の間をたらい回しにされる。
母親は厳格なクリスチャンの家庭を飛び出し、売春で生計を立てていた。
母親がガソリンスタンド強盗で刑務所に行くと、叔父夫婦に引き取られたが、
その叔父にも虐待され小学校に女装して行かされ、いじめられた。
10代の頃には刑務所にも入り、同性愛の看守によって性的な暴行を日夜受ける。

55年05月、19歳で出所、炭鉱夫の娘と結婚して子供をもうけるが、売春組織の元締めをやって逮捕、7年の懲役となる。

1967年仮釈放された時期はヒッピーが大流行していた。

61年から67年の世間の激動時代を獄中で過ごす。
催眠術や魔術、フリーメイソンやサイエントロジーなど精神医学などを研究する一方聖書を愛読、歌手を志し、自作曲を囚人仲間にギター弾き語りで聞かせていた。
ビートルズの「抱きしめたい」がヒットして、獄中で聞いて以来たいそうなお気に入り。
仲間に「チャンスを掴めば俺もビートルズのようになれる」と吹聴していた。

出所後は盗みを働きながら放浪生活。吟遊詩人としてアピールしようと街角や公園で歌っていた。
家出少女などを仲間に引き入れ、黒く塗り直したバスでカリフォルニアを放浪した。
このバス・ツアー中、「マジカル・ミステリー・ツアー」を聴いたマンソンと仲間(ファミリー)は、自分達のバス生活そのものを「マジカル・ミステリー・ツアー」と呼ぶようになった。
マンソンがビートルズから思想的何事かを強く感得した初めてのアルバムが「マジカル・ミステリー・ツアー」だったのではとマンソンのドキュメンタリー本「ファミリー」の著者エド・サンダースは指摘する。

68年頃マンソンは、前年マハリシ・ヨギにやられていたビーチ・ボーイズのデニス・ウイルソンと知り合う。デニスの豪気のおかげでデニス邸にファミリー共々入り浸り、テリー・メルチャーはじめ周辺業界人に取り入ることにもなる。
デニスはファミリーの女の子をツアーに同行させたり、マンソンに資金援助したり、曲を合作したりした。 
「リトル・バード」「ビー・スティル」(フレンズに収録)「ネバー・ラーン・ノット・トゥ・ラヴ」(20/20 に収録)の3曲がスティーブ・カリニック名義で詞を提供したデニスとの共作作品として知られている。

1969年7月25日、ボビー・ボーソレイユ、スーザン・アトキンズ、メアリー・ブランナーが音楽教師ゲイリー・ヒンマンの元を訪れた。ヒンマンはドラッグ密売人として〈ファミリー〉とは浅からぬ仲だった。ヒンマンは2万ドルの遺産を家に隠しているという噂だった。

3人はヒンマンに〈ファミリー〉に加わり、2万ドルをサバイバル資金として差し出すよう求めたのだ。押し問答は2時間も続いたが、答は変わらなかった。ノーだ。日蓮正宗の信徒だったヒンマンは、よくわからないカルトに加わって、マンソンを神とあがめる気など毛頭なかった。苛立ったボーソレイユは銃を抜きだした。乱闘になり、銃が暴発し、ヒンマンは頭を数回殴られた。 ヒンマンは縛られ、なおも金を出せと脅されつづけた。

連絡を受けてマンソンもやってきた。彼は肌身離さぬ“魔法の剣”で切りつけ、ヒンマンの耳をそいだ。マンソンはヒンマンを監禁し、財産を奪う計画だった。だがその翌日、錯乱したボーソレイユがナイフで切りつけて、ヒンマンは死亡した。

〈ファミリー〉はついに一線を越えたのだ。 彼らは現場を偽装し、黒人過激派の仕業に見せかけようと考えた。そうすれば人種間の対立が激しくなり、“ヘルター・スケルター”の訪れも近づくだろう。ヒンマンの血を使って、壁に「政治的なブタ」の字を書いた。

ブラック・パンサーの仕業だと示すために、下手クソな猫の手の絵も描いた。

8月4日、ヒンマンの車を運転していてボーソレイユが逮捕された。

デニスの口添えでレコーディングもするが、評価する者がおらず苛立ちを募らせていった。

裏切られた気分を晴らすため、マンソンは前記のテリー・メルチャーの家に乗り込むが、メルチャーは引っ越した後で、新しい居住者に追い払われる。 

その新しい居住者がロマン・ポランスキー、シャロン・テート夫妻であった。

ポーランド人映画監督ロマン・ポランスキーは1967年、アイラ・レヴィンのベストセラー小説『ローズマリーの赤ちゃん』映画化のために米国に招かれた。ポーランド国立映画大学で映画製作を学んだポランスキーは、62年の『水の中のナイフ』でヴェネツィア映画祭の批評家賞を得て名をあげた。この成功で英国に招かれ、血まみれ映画二本、『反撥』と『袋小路』を作る。『反撥』ではカトリーヌ・ドヌーヴが性的妄想に悩まされる娘を演じた。続く『ポランスキーの吸血鬼』で、主演女優シャロン・テートとはじめて出会う。

8月8日、「赤ちゃんが欲しいの、お願いだから殺さないで!」と泣きながら懇願した妊娠9ヶ月のシャロン・テートに対し、信者のスーザン・アトキンスは「見たかメスブタ!お前に慈悲などない!」と言い放ち、ナイフを11回振り下ろした。                                 

翌日、マンソンは信者二人を連れラビアンカ夫妻を殺害した。

ラビアンカ夫妻はスーパーマーケットチェーンを経営する金持ち。 夫は首を4回、下腹部を8回刺されて死亡、 妻は41回も刺され、腹には「WAR」と刻まれていた。                                                                     彼らを殺した後、マンソン・ファミリーは牧場で身を潜めていた。ファミリーの数は30〜40人ほどで、ほとんどが中流階級の娘だった。牧場主とその娘らと性交させる代わりにカリフォルニアのデスバレー近くの牧場牧場を借りていたという。
8月16日、農場に手入れがおこなわれ、自動車窃盗の容疑で25人が逮捕された。
だが、警察はテート=ラビアンカ殺人と〈ファミリー〉との関係に気づいておらず、全員を釈放した。
9月、〈ファミリー〉はデス・ヴァレーのバーカー農場に移動を開始した。

ここを根拠地にし、デューン・バギーを駆って町を襲う略奪軍団を編成するつもりだった。

10月12日、銃器不法所持などの容疑でマンソンは逮捕された。

警官が踏み込んだとき、マンソンは洗面台の下の小さなキャビネットに体を押しこんで隠れていたという。

11月6日、ファミリーのスーザン・アトキンズが売春容疑で逮捕されたとき、留置所で同房者にシャロン・テート殺害犯であることを打ち明けた。

この情報が当局に漏れたため、1969年12月 1日ファミリーは一斉検挙された。

事件後、「Lie」というタイトルでマンソンのアルバムが出る。

マリリン・マンソンの名前の由来でもある。

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