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マリー・テレーズ王女

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詳細 2017年1月6日 00:04更新

ウィキペディア英語版より和訳

フランス王妃マリー・テレーズ・シャルロット
Marie-Therese-Charlotte of France

 フランス王女にしてアングレーム公妃、フランス王太子妃マリー・テレーズ・シャルロット(1778年12月19日〜1851年10月19日)はフランス王ルイ16世と同妃オーストリア大公女マリー・アントワネットの長女であった。シャルル10世の長男の妃として、彼女は彼の義父(シャルル10世)が退位文書に署名してから、彼女の夫(アングレーム公ルイ)が退位文書に署名するまでの20分間、フランス王妃であったとみなす人々がいる。
1.子供時代
 マリー・テレーズはルイ16世王とオーストリア大公女マリー・アントワネットの初子であった。フランス中の君主主義者は、1770年に結婚していた国王夫妻に男子が誕生することを祈っていた。しかしながら、王妃は娘の誕生を歓喜で迎えた。彼女は人々が彼女の腕に赤子を抱かせた際に言った。「可哀想な、小さな、ものですね。あなたは、皆が望んでいた存在ではありませんが、私たちは、そんなことはお構いなしに、あなたを愛するでしょう。息子は国家に属することになるでしょうが、あなたは私たちのもの。私の全ての注意を引き付けるのです。あなたは、私と幸福を分かち合い、私の悲しみを癒してくれるでしょうね。」赤子の王女は、王妃の母、神聖ローマ帝国皇后マリア・テレジアにちなんで命名された。君主の長女として、彼女は一般的に、「マダム・ロワイヤル」として知られた。
 マダム・ロワイヤルの家政は家庭教師のゲメネー夫人によって管理されていたが、後に王妃の親友であるポリニャック公妃が夫人に取って代わった。ルイ16世王は優しい父親であり、娘を甘やかすことを喜びとしており、彼女が欲するものは何でも与えた。マリー・アントワネットはそれに比べると厳格で、娘がルイ16世の未婚の叔母達のように傲慢にならないようにしようと決心していた。彼女は頻繁に労働者地区から子供達を招待して、マリー・テレーズと食事を共にするように手配した。そして娘に、玩具を貧しい子供達に与えるように励ました。
 物欲に満ち、貧乏人の窮状を無視した王妃というイメージとは対照的に、マリー・アントワネットは事あるごとに、娘に、他の人びとの苦難を教えようと試みた。1784年の元日、彼女はマリー・テレーズの子供部屋にいくつかの美しい玩具を運ばせた。王妃は言った。「私はあなたに、新年の贈り物としてこれら全てを与えるべきだとは思います。しかしこの冬はとても厳しいので、パンも服も薪もないような不幸な人々が山のようにいます。私は彼らに、私のお金を全部与えてしまいました。私はあなたへの贈り物を買うためには、もう何も残っていません。だから、今年は何も無し、ということにしてくださいね。」
 マリー・テレーズは二人の弟たち、即ちルイ・ジョゼフ・グザヴィエ・フランソワ(1781年生まれ)及びルイ・シャルル(1785年生まれ)と子供部屋を共有した。そして妹のソフィー・エレーヌ・ベアトリスが1786年に加わった。
2.革命中の生活
 しかしながら、フランス革命は宮殿の外で既に起こされつつあった。破綻した予算の赤字と社会的不満が一致して、反絶対主義的感情の爆発を引き起こした。アメリカ独立革命を支援したことによる財政破綻、旱魃、飢饉の結果として、1789年までに、フランスは反乱へと驀進し続けていた。その間に多くの他の問題が、煽動家によって引き起こされていた。これらの煽動家たちは、マリー・アントワネットがあらゆる種類の性的倒錯行為、特に息子との近親相姦や同性愛に耽っているという誤った情報をでっち上げた。これらのことは全く根も葉もないものであった。君主政の崩壊において、これらの攻撃は新制の報道の自由が、編集者や出版者が適切な自制をしないことによって、ますます凶暴なものになっていった。王妃の人気は、オーストリア生まれという経歴と、パリの賎民街の新聞によって起こされた彼女に対する憎しみに満ちたキャンペーンによって、常に低かった。赤子のソフィー・エレーヌ・ベアトリス王女が亡くなり、更に間もなく王太子が亡くなったことによって、悲劇は一家にいよいよ迫ってきた。ルイ・ジョゼフは1789年初頭の政治的危機が最高潮に達した時に、肺病で亡くなった。
 7月14日、バスティーユが暴徒によって制圧された。今や状況は危機的で、王族の幾人かの人々は自らの安全のために、亡命を余儀なくされた。ブルトゥイユ宰相はドイツへ亡命した。マリー・テレーズの叔父アルトワ伯はルイ16世の命により国外へ派遣され、彼女の家庭教師すら、暗殺の危険を免れるためにスイスに亡命せざるをえなかった。新しい王室の家庭教師は敬虔なトゥールゼル侯夫人であった。彼女の娘のポーリーヌは、王女の終生の友人となった。
 10月、ヴェルサイユは包囲され、王族はパリへ移動するように強制された。彼らはチュイルリー宮殿に住まうことになった。実質的な軟禁状態であった。この時点で、マリー・テレーズの子供時代は実質的に終了した。マリー・テレーズは母親に彼女の愛を示そうと欲したが、それは難しいことがわかった。マリー・アントワネットと違って、マリー・テレーズは感情的に大変控えめで、自身の感情を簡単に表そうとはしなかった。
3.タンプルの孤児
 政治的状況が悪化したため、王と王妃は、彼らの生命が危険にされされているという結論に達した。王妃は、フランスの最善の将来は、王室がパリを脱出し革命地域から逃れることにあるということも確信していた。彼らは北東部にある王党派の拠点のモンメディに逃れようと考えた。彼らの都市からの逃避行は、ルイ16世が食事のために立ち止まろうと主張した際に、元の召使(彼はルイ16世に酷使されたと感じていた)によって、ヴァレンヌで妨げられた。彼らは捕らえられ、パリへと引きずり戻された。
 1792年秋、一家全員は、君主政が廃止された後に、要塞化されたタンプルに閉じ込められた。1793年1月、マリー・テレーズの父ルイ16世は、ギロチン台へ送られた。父と娘は常にとても仲が良かったので、彼の死は生き残った家族を打ちのめした。
 7月、警備兵が王族の部屋に入ってきて、マリー・テレーズの弟ルイ17世を連れ去った。要塞に残された三人の女性は、マリー・アントワネット、マリー・テレーズと、ルイ16世の妹マダム・エリザベートであった。この三人の中で、マリー・テレーズだけが恐怖政治を生き延びることができた。
 1793年10月、マリー・アントワネットはコンシェルジュリー監獄へ連行され、反逆罪、息子との近親相姦、その他の乱行の咎で告発された。告発を擁護する如何なる証拠もなかったが、彼女が有罪と宣告されることは元から決着済みのことであった。彼女は10月16日に、元は国王の処刑人であったサンソンによって処刑された。1794年5月、マリー・テレーズの叔母エリザベートが真夜中に連行され、翌日処刑された。
 タンプル塔での彼女の監禁生活の残りの間、マリー・テレーズは彼女の家族に何が起こったのかを一切知らされることはなかった。彼女が知っていることの全ては父親が亡くなったことだけで、世界で一人だけ取り残されたように感じていた。塔の彼女の部屋の壁に、次のような言葉が引っ掻いて書かれていた。「マリー・テレーズは世界で最も不幸な存在です。母親について何の知らせも得ることができず、再会することもできません。それにも関わらず、絶えずそのことを尋ねるのです。」「私の善きお母様、生きていてください!心から愛しているのに、お母様についての知らせは、何も聞くことがありません」「ああ、お父様!天国から私を見守っていてください。生というのはこれほどにも残酷なのです。」「ああ、神様!どうか、私の家族を殺した人々を、お許しください。」
 マクシミリアン・ロベスピエールがマリー・テレーズを一度監獄に訪問したという噂があるが、これは恐らく真実ではない。マリー・テレーズがフランスを去ることを許されたのは、恐怖政治が終わった後のことであった。彼女はウィーンに連れて行かれた。そこでは彼女の従兄が、皇帝フランツ2世として統治していた。
4.エミグレとしての生活
 マリー・テレーズは後にウィーンを去り、クールラントのミタウに移った。そこでは彼女の父の弟である、プロヴァンス伯ルイ・スタニスラスが、ロシア皇帝パーヴェル1世の賓客として住まっていた。彼は兄の死後、フランス王ルイ18世と名乗っていた。彼は自身の子供がなかったので、姪と、甥のルイ・アントワーヌ(彼女の従兄)を結婚させることを望んでいた。ルイ・アントワーヌはフランス王位の将来の実質的な後継者となるであろう人であった。マリー・テレーズは何の疑問もなく同意し、再び家族に戻れることを喜んだだけであった。
 アングレーム公ルイ・アントワーヌは、彼女の父ルイ16世の一番下の弟アルトワ伯シャルル・フィリップの長男であった。彼ははにかみ屋でどもりの、内気な青年であった。彼は恐らく性的不能者でもあった。彼はハンサムで男らしい父親に確かに全く似ていなかった。アルトワ伯は彼の長男を愚かな厄介者だと見なしており、ルイ18世に、彼とマリー・テレーズを結婚させないように話そうと試みていた。しかし結婚は、1799年に執り行われた。
 後に王族はイギリスへ移った。彼らはバッキンガムシャーに落ち着いた。マリー・テレーズの叔父にして義父であるシャルルは、エディンバラで主に生活した。そこで彼は聖十字架宮殿に部屋を与えられていたのである。長期間に渡る亡命生活は、1814年のナポレオン1世の退位とフランス君主政の復活によって終了した。
5.ブルボン朝復古時代
 ルイ18世は、自由主義者と、弟アルトワ伯によって指導されるユルトラ(超過激)王党派の中間の路線を採用しようと試みた。彼はまた、マリー・テレーズのずっと行方不明になっていた弟であるルイ17世を自称する多くの男達を抑圧した。言うまでもないことだが、これらの主張者達は王女にとって、大変な苦悩の種となった。
 マリー・テレーズは彼女の帰国が感情的に疲労を招くものであることに気づき、また彼女は共和政やナポレオン・ボナパルトの統治を支持した多くのフランス人をほとんど信用していなかった。彼女は弟が亡くなった場所と、両親と叔母のマダム・エリザベートが埋められた場所を訪れた。王族の亡骸は、後にサン・ドニの地下聖堂に再埋葬された。
 1815年3月、ナポレオンがフランスに戻り、迅速に支持者を獲得して軍隊を立ち上げた。ルイ18世はフランスを去ったが、マリー・テレーズはこの時ボルドーにいて、地方の軍隊を編成しようと試みた。軍隊は彼女を守ることを約束したが、ナポレオンの軍隊に対して内戦を起こすことは拒否した。マリー・テレーズは、自身の軍隊が到着したら彼女を捕らえよというナポレオンの命令にも関わらず、ボルドーに留まった。彼女の目標が失われたと感じて(そしてボルドーを無意味な破壊に晒さないために)彼女は最終的に亡命に同意した。彼女の行動はナポレオンをして、彼女は「あの一族で唯一の男」と言わしめた。
 ナポレオンがワーテルローで敗北した後で、ブルボン家は二回目の復活を果たした。
 アルトワ伯シャルルの若い(そしてお気に入りの)息子、ベリー公シャルル・フェルディナンが1820年2月12日に、共和派のテロリストに暗殺されるという悲劇が発生した。アルトワ伯はこのショックから二度と立ち直ることはなかった。
 ルイ18世は1824年9月16日に亡くなり、弟のアルトワ伯がシャルル10世として即位した。マリー・テレーズの夫ルイ・アントワーヌは今や王位の後継者となり、彼女はマダム・ラ・ドーファン(王太子妃)の敬称を得た。しかし、反君主主義的感情が再び発生した。シャルルのユルトラ君主主義への共感は、労働者や中産階級の多くの人びとを疎外することとなった。1830年に暴動が発生したが、この時王室は彼らの従弟ルイ・フィリップに裏切られた。彼はシャルルが完全に退位したとほのめかした(シャルルは実際には、孫のシャンボール伯アンリを国王に指名していた)。シャルル10世の退位の20分後に、ルイ・アントワーヌの退位が続いた。このペテンが功を奏し、ルイ・フィリップは国王になった。
 マリー・テレーズは、ルイ・フィリップの新しい王国に留まるよりも、叔父と夫と共に亡命することを選択した。彼らは1830年にイギリスに渡った。
6.最後の亡命
 王族は1833年までエディンバラに住まった。その後、シャルル王の選択によりオーストリア皇帝の賓客としてプラハに移ることになった。彼らはフラドシン城の豪勢な贅沢品の中に移り住んだ。マリー・テレーズは1836年に叔父シャルルが最期の病に倒れた際に献身的に看病した。シャルルはコレラで亡くなった。その時までに、彼らはプラハを離れ、スロヴェニアにあるゴリカ近くのコロニーニ伯の領地に移った。亡くなった叔父と同様に、マリー・テレーズは敬虔で誠実なローマ・カトリックに留まった。
 マリー・テレーズの夫は1844年に亡くなり、父親の隣に葬られた。マリー・テレーズはウィーンのすぐ郊外のフロースドルフと呼ばれる館に移った。マリー・テレーズの殺された従弟フェルディナンの子供達が彼女と一緒にそこに住んだ。その子供達にはブルボン家の王位継承者であるシャンボール伯も含まれていた。1848年、ルイ・フィリップの治世が別の革命によって終焉を迎え、フランスは共和政に移行した。
 彼女は1851年10月19日に亡くなった。彼女の母の処刑から58年目の記念日の三日後のことであった。死因は肺炎であった。マリー・テレーズは遺書で以下のように書いている。
 「私の家族と私に付いていてくださった全てのフランス人の方々に御礼を申し上げます。私たちに与えてくださった、彼らの忠誠のあかしと、私たちの為に耐え忍んでくださった彼らの苦難に対する御礼です。私は、常に愛するフランスに、神様が祝福を灌いで下さるように、お祈りします。私の最も辛い苦難の時代にあっても。」
 彼女はスロヴェニアのコスタニェヴィツァのフランシスコ会の修道院にシャルル10世、夫のアングレーム公、甥のシャンボール伯と共に埋葬されている。シャンボール伯はその妃オーストリア=エステ大公女マリー・テレーズと同様フランスのブルボン家最後の成員である。シャンボール伯妃はモデナ公フランチェスコ4世とサヴォイアの王女マリア・ベアトリーチェの娘である。シャルル10世の宮内大臣であるルイ・ジャン・カシミールもここに埋葬されている。彼女の墓石には、マリー・テレーズの称号はフランス王妃・未亡人との称号が載っているが、彼女の夫が20分間、フランス王ルイ19世だったからである。

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2008年4月25日

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