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五木ひろし

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詳細 2017年11月5日 17:46更新

五木 ひろし(いつき ひろし、本名:松山 数夫(まつやま かずお)、公称1948年3月14日- ) は、日本の演歌歌手、作曲家である。福井県三方郡美浜町出身。明治大学付属中野高等学校卒業。甥に俳優・タレントで、1997年の『ザ・ジャパン・オーディション』でスカウトされた佐伯彰二郎がいる。2008年からアップフロントエージェンシー所属。

経歴
1964年、第15回コロムビア全国歌謡コンクールにて優勝。

作曲家・上原げんとにスカウトされ、内弟子となる。

1965年6月、コロムビアから<松山まさる>名義で「新宿駅から/信濃路の果て」でデビューするも、全くヒットせず。以後6年間に亘って不遇の時代を過ごすが、この間に二度も芸名を変更している。コロムビアではシングルを計6枚発売。

1967年4月、ポリドールへ移籍。<一条英一>に改名して「俺を泣かせる夜の雨」(B面は愛田健二)で再デビュー。ポリドールではシングルを計3枚発売。

1969年12月、ミノルフォン(現在の徳間ジャパン・コミュニケーションズ)へ移籍。<三谷謙>に改名して「雨のヨコハマ/東京-長崎-札幌」で再デビュー。<三谷謙>名義でのシングルはこの1枚を発売しただけに終る。

1970年、歌手生命のすべてを賭けてオーディション番組ytv'「全日本歌謡選手権」(長沢純司会)に「三谷謙」の芸名付きで出場。初挑戦時には、「これで駄目なら、ふるさとの福井に帰って農業をやる」と悲壮な覚悟の程を語っていたが、見事10週連続勝ち抜きグランドチャンピオンに輝き、歌手として再デビューできる権利を獲得。同番組の審査員であった作詞家・山口洋子と作曲家・平尾昌晃を師事。プロデューサーには山口洋子が就任。

1971年3月、<五木ひろし>に改名して「よこはま・たそがれ」で再デビュー。 <五木ひろし>は山口洋子が作家・五木寛之氏から苗字を頂いて命名。「よこはま・たそがれ」は山口洋子-平尾昌晃コンビで作られ、単語の羅列ながらも<女ごころ>が巧みに表現されている。作曲家・平尾昌晃にとっては初の演歌作品。オリコン・シングル週間チャートで最高位1位、登場週数46、売上げ枚数64.2万枚を記録する大ヒットとなる。

<港町>をテーマにした「長崎から船に乗って」も44.5万枚を売上げ、連続大ヒット。

これまで男性歌手の演歌はといえば、ド演歌、任侠もの、民謡調、浪曲調、女の情念や酒場を描いた暗いブルースくらいしかなかった。そういうところに抜群の歌唱力をも持ち合わせた若い五木が登場してきたため、モダンでソフトな演歌に飢えていたファンが「待ってました!!」とばかりに飛びついたのはいわば当然のことである。

「よこはま・たそがれ」で第2回日本歌謡大賞(同大賞は第24回限りで廃止)放送音楽賞、第13回日本レコード大賞歌唱賞をそれぞれ初受賞したほか、念願であったNHK紅白歌合戦(第22回)への初出場を果たす。以降、現在まで連続出場を継続中。

1972年、「かもめ町港町」は前作同様、<港町>をテーマにした演歌ながらも、敢えてアイドル歌謡を中心に手懸けていた筒美京平を起用。

<ポップス演歌>とプロモーションされた第1弾「待っている女」がヒット。

第2弾「夜汽車の女」は前作の続編的性格を持ち、スマッシュ・ヒットに終る。

この頃テレビ歌謡番組では、人懐っこい「細い目」を再三に亘り司会者などから茶化されるが、それを毎度軽妙に切り返して笑いを誘うなど、コミカルな部分をも持ち合わせていた。

第3回日本歌謡大賞では「待っている女」で放送音楽賞を連続受賞。 一方、第14回日本レコード大賞では「夜汽車の女」で歌唱賞を連続受賞。

日本歌謡大賞と日本レコード大賞とでその年の<受賞曲が分かれる(食い違う)>という現象が、この年から三年連続で発生、ヒット曲を連発する歌手特有の<嬉しい悩み>を抱えることになる。

「旅鴉」は従来の作品とは性質が異なり、ヒットさせることを目指した作品ではなく、テレビ時代劇ドラマ「長谷川伸シリーズ」主題歌としてリリースされたものであることからテレビ歌謡番組等では積極的に披露してはいないにもかかわらず、そこそこにヒット。

1973年、二作続いたポップス演歌から脱却、<リズム演歌>「あなたの灯」でより持ち味を発揮、ファン開拓に成功。今後の方向性を指し示した作品となる。

つづく「霧の出船」、<叙情演歌>の名曲「ふるさと」、スケールの大きなポップス演歌「夜空」とすべて平尾作品で通しながらも、一作一作に趣向が凝らされており、出す曲出す曲すべてがヒット。一年を通じて活躍。

「狼のバラード」は前述の「旅鴉」と同様、ヒットさせることを目指した作品ではなく、テレビドラマの主題歌としてリリースされたものであることからテレビ歌謡番組等では積極的に披露してはいない。 しかし、そのB面に収録された「道」は出来映えがよく、主力の「夜空」と並行してテレビ歌謡番組でも時折披露。

第4回日本歌謡大賞では「ふるさと」で放送音楽賞を3年連続受賞。 一方、第15回日本レコード大賞では「夜空」で歌唱賞を3年連続受賞。 そして大賞を巡って沢田研二「危険なふたり」と頂上決戦を繰り広げた結果、日本歌謡大賞こそ逃したものの、念願であった第15回日本レコード大賞を手中に収める。 この頃から毎年のように頂点を窺える位置に就けるなど<賞レースの常連>として一目置かれる存在になる。

森進一はデビュー以来、<ためいき路線>と形容されるほどに女の情念や酒場をテーマに掲げて歌ってきたが、その暗い曲調がこのところ飽きられつつあり、スランプ気味であった。そこで森の師匠でもある作曲家・猪俣公章が五木の大躍進に刺激を受けて、モダンな演歌を模索、起死回生で放った「冬の旅」が大ヒット。これにより森がトップ歌手の座に返り咲いたという経緯がある。

1974年、第3回東京音楽祭国内大会では「別れの鐘の音」が演歌としては初めてゴールデン・カナリー賞を受賞。同世界大会へも演歌歌手としては初めて出場して、外国審査員団賞を受賞。

この年の勝負作となる「浜昼顔」は五木自身の「<古賀メロディー>を自分の持ち歌にしたい」という強固な意志が、「古賀政男=コロムビア専属作曲家」という<レコード会社の壁>を乗り越えて誕生。しかし全くの新曲という訳にはいかず、古賀政男が藤山一郎と青木光一にかつて提供した曲(それぞれ「さらば青春」、「都に花の散る夜は」)にリメイク(手直し)を施したものに留まる。前述の「旅鴉」を除くと、山口洋子以外の作詞家(寺山修司)を起用したのはこれが初めて。

「紅い花」と「明日の愛」は前述の「旅鴉」などと同様、ヒットさせることを目指した作品ではなく、テレビドラマの主題歌としてリリースされたものであることからテレビ歌謡番組等では積極的に披露してはいない。

第5回日本歌謡大賞では「浜昼顔」で放送音楽賞を4年連続受賞。 一方、第16回日本レコード大賞では「みれん」で歌唱賞を4年連続受賞。 そして第16回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を初受賞。 この年の森進一との頂上決戦は熾烈さを極め、<日本レコード大賞史上最大の激戦>として語り草となっているほどである。 五木の所属するミノルフォンは、1965年に作曲家・遠藤実自らが創業してまだ十年にも満たない新興レコード会社で、<レコード界の第8勢力>と云われていた。 当時はまだ山本リンダや千昌夫(いずれも遠藤実の内弟子)くらいしか名の通った歌手が在籍しておらず、弱小レコード会社と目されていた。 まともに勝負しても勝ち目はなかった。 それでもミノルフォンは不利を承知の上で、数々の大賞受賞実績を残してきた”老舗”ビクターや”大手”渡辺プロダクションを向こう側に廻して果敢に挑んだ。 最終的には、前年に大賞を獲得している五木が、まだ受賞していない「最優秀歌唱賞を欲しい!」と宣言することによって、これまでに大賞候補として4年連続で(1968・1969・1970・1971年)ノミネートされながらもすべて逃しているところから「今度こそは何が何でも大賞を!」と意気込む森に大賞を譲ったものと云われている。

前述したが、賞によってその年の<受賞曲が分かれる(食い違う)>ことがこういった重大な局面では弱点ともなり得るということを指摘しておかなければならない。 「受賞曲=その年のその歌手の勝負曲(代表曲)」という観点では、日本歌謡大賞放送音楽賞受賞曲(「待っている女」、「ふるさと」、「浜昼顔」)の方がNHK紅白歌合戦歌唱曲とも合致しており、妥当な選択と云える。

五木と森は人気と実力を兼ね備えた<男性演歌の旗頭>として並び称せられるほどに成長。 年齢が同じ、歌唱力が同等、ジャンルが同じ、曲調も似ている、女ごころを歌わせたら双璧、とふたりは共通点が多く、何事に於いても比較された。 以降も<宿命のライバル>として切磋琢磨していくことになる。

1975年、ポップス演歌「哀恋記」は軽いアクションが話題になる。

桜の季節にあわせてリリースされた初の<音頭>もの「さくら音頭」は和服姿で披露。 後年、「ひろしのさくら音頭」と改題。

この年の勝負作となる<旅情演歌>「千曲川」はもともと猪俣公章が春日はるみ(現在の川中美幸)の不振を打開するために用意した作品で、すでに星野哲郎によって題(「笛吹川夜曲」)も詞もでき上がっていた。 しかし、山口洋子が五木の「NHK紅白歌合戦での初トリと2度目の日本レコード大賞獲り」を願って、猪俣からこの曲を譲り受け、改題の上、敢えて長野県戸倉(歌碑が建立されている)には赴かずに東京に居ながら現地のことを想って詞を練り直した。 その際、演歌にありがちな愛や色恋や情の部分を廃した。これらが功を奏し大ヒット。五木の代表作のひとつに数えられる。

<初の本格演歌>と宣伝された猪俣作品第2弾「ふたりの旅路」はジャケット(歌詞カード)の他に、山口洋子らの挨拶文を収めた小カードが挿入されるほどの力の入れようであった。

第4回東京音楽祭国内大会では「千曲川」でゴールデン・カナリー賞を連続受賞し、同世界大会へも連続出場。 第6回日本歌謡大賞では「千曲川」で放送音楽賞を受賞。 第17回日本レコード大賞では「千曲川」で歌唱賞、そして第17回日本レコード大賞最優秀歌唱賞を受賞。 この年は布施明「シクラメンのかほり」が席捲したので、大賞受賞こそ叶わなかったが、日本歌謡大賞史上唯一の5年連続での放送音楽賞受賞、そして日本レコード大賞史上唯一の5年連続での歌唱賞受賞、日本レコード大賞史上初となる連続での最優秀歌唱賞受賞となり、<前人未踏の金字塔>を打ち立てる。 第26回NHK紅白歌合戦では「千曲川」で悲願であった白組トリを務める。

1976年、猪俣作品第3弾となる軽快な「愛の始発」がヒット。

しかしこの年の勝負作として投入された「北酒場」は、大ヒットした森進一「襟裳岬」に触発された形で五木が初めて取り組んだ<フォーク>作品であったが、期待されたほど大きな成果を上げることはできず。

<テレビ・コマーシャル最後の大物>と云われて久しかったが、終にテレビ・コマーシャルに初出演。 スポンサー「味の素」と契約を交わす。

「旅人」はヒットさせることを目指した作品ではなく、コマーシャル(C.M.)・ソングとしてリリースされたものであることからテレビ歌謡番組等では積極的に披露してはいない。

つづく「どこへ帰る」で久々に平尾作品に回帰。

アメリカ合衆国ネバダ州ラスベガスでのコンサートを、当地のヒルトンホテルにて興行(日本人歌手としては初めて)。

第27回NHK紅白歌合戦では「愛の始発」で2回目の白組トリを務める。

1977年、<心情演歌>とプロモーションされた「風の子守唄」につづいてリリースされたこの年の勝負作「灯りが欲しい」は初めて<男ごころ>を採り上げ、ヒット。

第28回NHK紅白歌合戦では「灯りが欲しい」で3回目の白組トリ、初の大トリを務める。

1978年、本間千代子(あたらしかずよ名義)が作詞したことで話題を集めた「熱愛」は、その割には売上げがそれほど伴わず。

「熱愛」で第20回日本レコード大賞古賀政男記念賞を受賞。美空ひばりは辞退。

日本レコード大賞は歌唱力のない歌手でも大賞が獲得できるようにとの配慮から歌唱賞を廃止、金賞が新設される。

1979年、折りからのカラオケブームに乗り、古賀政男の弟子でギタリスト・木村好夫作曲による「おまえとふたり」がオリコン・シングル週間チャートで最高位3位、登場週数41、売上げ枚数91.7万枚を記録、久々に大ヒット。

「おまえとふたり」で第21回日本レコード大賞金賞を受賞。

第30回NHK紅白歌合戦では「おまえとふたり」で4回目の白組トリを務める。

1980年、「倖せさがして」「ふたりの夜明け」と一年を通じて大ヒットを連発。

「ふたりの夜明け」で第22回日本レコード大賞金賞を受賞。 大賞を巡り、八代亜紀「雨の慕情」と<五八戦争>を繰り広げるが敗れる。

第31回NHK紅白歌合戦では「ふたりの夜明け」で5回目の白組トリを務める。 1981年、「人生かくれんぼ」で第23回日本レコード大賞金賞を受賞。

1982年、自作の非・演歌「契り」が映画(東映系)「大日本帝国」の主題歌として採用される。

木の実ナナとのデュエット「居酒屋」は、カラオケでの男女<デュエット・ソングの定番>である。

「契り」で第24回日本レコード大賞金賞を受賞。

1983年、<初の艶歌>となる「細雪」がヒット。 五木は後に、「艶歌(つやうた)は特に歌唱が難しい」と語っている。

「細雪」で第25回日本レコード大賞特別金賞を受賞。

1984年、この年の勝負作「長良川艶歌」は前作に引き続き艶歌ではあったが、「石本美由起=コロムビア専属作詞家」という<レコード会社の壁>を乗り越えて誕生。石本美由起は喚起力のある言葉、音感的にきれいな言葉、というのが作詞家としての信条であり、この曲とぴったり符号。大ヒットを記録。

「長良川艶歌」で第26回日本レコード大賞金賞を受賞。 大賞を巡っては、中森明菜「北ウイング」との一騎打ちとなるが圧勝、第26回日本レコード大賞を受賞(2度目の大賞受賞)。

1985年、「そして・・・めぐり逢い」で第27回日本レコード大賞金賞を受賞。

1986年、大阪を舞台とした<浪花演歌>「浪花盃」が話題となる。

「浪花盃」で第28回日本レコード大賞金賞を受賞。

テレビドラマ(テレビ朝日)「私鉄沿線97分署」主題歌のために<ブービーズ>なる覆面バンドを結成、ポップス・ナンバー「当日・消印・有効」をリリース。テレビ(フジテレビ)歌謡番組「夜のヒットスタジオ」でも生演奏で披露。因みに、ジャケットのデザインはメンバー全員の両目の部分だけ写ったもの。

1987年、「追憶」で第29回日本レコード大賞金賞を受賞。 3度目の大賞受賞を狙ったが、近藤真彦「愚か者」に一票差で敗れる。

第38回NHK紅白歌合戦では「追憶」で6回目の白組トリ、2回目の大トリを務める。

1988年、「港の五番町」はかつて自身のLPに収録されていた曲を<発掘>、リメイクしたもの。

「港の五番町」で第30回日本レコード大賞金賞を受賞。 10年連続で金賞を受賞すると云う日本レコード大賞史上唯一の快挙を達成したことから、第30回日本レコード大賞特別賞も併せて受賞。

1989年5月、女優の和由布子と結婚(披露宴の規模は5億円と云われ、当時芸能界最高額)。

「じっくり時間をかけて優れた作品を歌い込む」旨の新方針の下、永井龍雲によって作られた新曲「暖簾」を一年間に亘って歌唱。

1991年、20周年ゴールド・シングルとしてリリースされた<夫婦演歌>「おしどり」は長年連れ添う夫婦愛を描き、話題となる。

1994年、「浪花物語」は中村美律子とのデュエットが話題を集める。

第45回NHK紅白歌合戦では「汽笛」で7回目の白組トリを務める。

1995年、初めて<童謡>「パパと遊ぼう」をリリース。

1997年、第48回NHK紅白歌合戦では「千曲川」で8回目の白組トリ、3回目の大トリを務める。 NHK紅白歌合戦でその年のヒット曲ではない曲を歌ったのは、他人の持ち歌を含めても自身初。 但し、これはこの年五木に突出したヒット曲が生まれなかったからではなく、翌年長野でオリンピックが開催されるため、それを盛り上げるのに同県を舞台としたこの名曲に白羽の矢が立ったと云うのが理由。

1998年、30年余に亘り第一線の地位を確保してきた業績により、第40回日本レコード大賞美空ひばりメモリアル選奨を受賞。

第49回NHK紅白歌合戦では「酒ひとり」で9回目の白組トリを務める。

2000年、ミレニアム・シングルと銘打ってリリースされた大作「山河」は中国を舞台に小椋佳-堀内孝雄コンビによって作られた。 スタンド・マイクを用いたことでも知られる。

第51回NHK紅白歌合戦では「山河」で10回目の白組トリ、4回目の大トリを務める。

2001年、<母>をテーマにした「おふくろの子守唄」はつんく♂がプロデュースしたことで話題となるが、母の急死以後は歌唱を封印。

「逢いたかったぜ」は往年の岡晴夫が放ったヒット曲(1955年7月発売)をカヴァー。

2002年、長年所属してきた徳間ジャパン・コミュニケーションズから独立。自身のレコード会社「ファイブス・エンタテインメント」を設立。(メジャーディスリビューションはキングレコードが行う。)

ファイブス・エンタテインメント移籍シングル第一弾「傘ん中」がヒット。

堀内孝雄やつんくファミリー(モーニング娘。など)とのデュエット企画「愛のメリークリスマス」が話題となる。

「愛のメリークリスマス」で第44回日本レコード大賞企画賞を受賞。

第53回NHK紅白歌合戦では「おふくろの子守唄」で11回目の白組トリ、5回目の大トリを務める。(NHK紅白歌合戦で「おふくろの子守唄」の歌唱封印を解き、涙ながらに熱唱。)

2003年、「逢えて・・・横浜」がヒット。

2004年3月、自身の構成演出による日生劇場ライブコンサートが評価され、文化庁より第54回芸術選奨文部科学大臣賞(大衆芸能部門)を受賞。

芸能生活40周年記念シングルとしてリリースされた「アカシア挽歌/雪燃えて」(両A面扱い)がヒット。

第55回NHK紅白歌合戦では「雪燃えて」で12回目の白組トリを務める。

2005年3月、名付け親である<五木寛之との初コラボ作品>「ふりむけば日本海」がヒット。

日本各地で開催された「美しき日々コンサート」では、演出と構成を手懸ける。 地球の緑を次世代に継承するためのプロジェクト「Green Earth21」構想を計画し、実行委員長に就任。

5月21日、熊本県南阿蘇村の野外劇場アスペクタでチャリティー・コンサートを開催。

2006年、京都・高瀬川を舞台に、久々に和服姿で披露した自作の艶歌「高瀬舟」がオリコン・シングル週間チャートで最高位9位を記録。

五木のTOP10入りは「長良川艶歌/おはん」(1984/9/17付、最高位10位)以来、自身21年7ケ月ぶり通算16作目で、初登場での達成は自身初。 これまでの自身の最高初動順位は1976/2/19付「愛の始発」の15位で、歌手生活42年目で最高のスタートとなる。 又、この21年7ケ月ぶりのTOP10入りと云う記録は「アーティスト別シングルTOP10入りインターバル記録」でカーペンターズの22年1ケ月ぶりに次いで歴代第2位。 「アーティスト別シングルTOP10入りインターバル記録・邦楽アーティスト部門」では美空ひばりの「みだれ髪」の19年10ヶ月を上回る歴代第1位の記録で、18年4ヶ月ぶりに邦楽記録更新。 「アーティスト別シングルTOP10入り高齢記録・邦楽アーティスト部門」では58歳で、小田和正に次いで歴代第2位。

「高瀬舟」で第48回日本レコード大賞作曲賞を受賞。

2007年2月、N響ポップスとのジョイント・コンサートを興行(流行歌手としては初めて)。

3月8日から3月15日迄、国立劇場公演を興行(歌手としては初めて)。

10月16日、 飛騨・美濃観光大使を委嘱され、10月20日に岐阜シティ・タワー43の東側デッキ特設ステージにて委嘱式が行われた。

11月、紫綬褒章を受章(流行歌手としては島倉千代子以来となる)。

第58回NHK紅白歌合戦では「契り」で13回目の白組トリ、6回目の大トリを務める。尚、「契り」は二度目の歌唱となるが、それは作詞家・阿久悠追悼企画のためである。

2008年、アップフロントエージェンシーとマネジメント契約。

★オリコン・シングル・チャート記録     (注)演歌チャートではありません。

アーティスト・シングル・トータル・セールス・・・歴代単独第13位

HOT100チャートイン作品数・・・・・・・・・・・歴代単独第2位

HOT100総登場週数・・・・・・・・・・・・・・・・歴代単独第1位

★NHK紅白歌合戦出場記録

通算出場回数・・・・・・・・・・・歴代単独第3位(37回/北島三郎、森進一に次ぎ)

連続出場回数・・・・・・・・・・・歴代単独第2位(37回/森進一に次ぎ)

トリ回数・・・・・・・・・・・・・歴代第1位(13回/美空ひばりと並び)

大トリ回数・・・・・・・・・・・・歴代単独第3位(6回/美空ひばり、北島三郎に次ぎ)


出身地である福井県三方郡美浜町では、毎年五木マラソンが開催されている。


下積み時代(1950年代)、松方弘樹と席を並べて歌を学んでいたが、五木の歌声を聞いているうちに自信を無くした松方がやがて歌手になることを諦めて、1960年に東映から映画俳優としてデビューに至ったと云うエピソードを持つ。

コブシ(小節)やヴィブラート、ファルセット(裏声)を巧みに使い分け、精密機械のごとく声を震わせる独特の歌唱技術。

右手のファイティング・ポーズと、腰をシェイクさせてリズムを採る歌唱スタイルは今や代名詞。

クリスマス・ディナーショーのチケット価格は例年、最高峰(2007年は5万円)を誇る。

NHK紅白歌合戦への出演ギャラは例年、最高峰(1000万円と云われている)を誇る。


NHK紅白歌合戦出場歴
五木の初出場は1971年・第22回の「よこはま・たそがれ」。以来、2007年・第58回迄37回連続出場を果たしており、連続出場回数は森進一の40回連続(1968〜)に次いで歴代単独第2位である。また通算出場回数は北島三郎、森進一に次いで歴代単独第3位である。トリ回数は1975年・第26回の「千曲川」から2007年の「契り」まで通算13回で、これは美空ひばりと並ぶ第1位の記録となっており、2回目の出場からは比較的大御所が並ぶことの多い後半の曲順から外れたことはない。しかし、彼のトリの場合は北島三郎が「勝利投手」だとすれば、「敗戦処理投手」の位置づけになっていることが多く、トリ回数の割りには大トリを取った回は少ない(1977、1987、1997、2000、2002、2007の6回)。


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2008年4月20日

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