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おりょう お龍 坂本龍・楢崎龍

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詳細 2016年9月23日 19:41更新

坂本龍馬の妻、『おりょうさん』
坂本 龍。

旧姓・楢崎 龍( ならさき りょう )  
天保12年6月6日(1841年7月23日)〜明治39年(1906年)11月15日
寺田屋事件ののち、坂本龍馬と結婚。
名は一般におりょう(お龍)と呼ばれることが多い。


1840-1906 楢崎龍 西村つる

お龍は嘉永三年(1850)六月六日、京都府下の町医者の長女として生まれた。
お龍の父、楢崎将作は勤王家で、安政の大獄に連座して獄死。

お龍は母親や弟妹を養うため、龍馬たち勤王派の人達の炊事を手伝ったり京都の料理屋で働いたりしていた。龍馬は楢崎家でも料理屋でもお龍に会ったことがあり、元治元年(1864年)龍馬から自由奔放なところを気に入られて、苦しい生活を助けるため龍馬の世話で寺田屋に預けられそして寺田屋の養女となる。

慶応元年一月、薩長同盟を終えて寺田屋に投宿していた龍馬が襲撃された際には、風呂に入っていたお龍が幕吏に取り囲まれたのをいち早く知り、裸で二階の龍馬らに急を告げた。龍馬と三吉慎三は応戦し、お龍は伏見の薩摩藩邸に走り救援を求めた。

こうして難を逃れた二人は事件後、時を経ず中岡慎太郎の仲人(西郷隆盛説も有)で結婚し(内祝言は元治元年八月という説も有)西郷の勧めもあって薩摩へ(一説には龍馬の怪我の)湯治に出かける。これが日本初の新婚旅行だといわれている。

しかし幸せな新婚生活は長くは続かず、龍馬は、翌三年十一月十五日、京都の河原町通り薬師下ル「近江屋」で暗殺された。 したがってニ人の結婚生活は、わずかー年十カ月間である。
慶応三年九月、下関で龍馬に会ったのが最後となった。

龍馬暗殺の知らせを下関の豪商 伊藤助太夫宅で受けたお龍は気丈に振舞っていたが、法事を済ませ髪を切り落として仏前に供え号泣したという。

ちなみにお龍自身は龍馬の事業や仕事には全く興味が無く、知らされるまで彼の業績を知らずにいた。全てを知るのは明治政府から伝えられたときだったという。

それからしばらく三吉慎蔵らの世話になっていたが、墓参りのため京都に向かった。近江屋に泊まり龍馬の霊を弔った。


明治元年七月、土佐の龍馬の実家に迎えられるが一年ほどで土佐を離れることになる。兄夫婦や乙女に疎んじられたためという説もあるが環境があまりにも違いすぎて水が合わなかったというところだろう。

土佐を離れて京都に帰り、東山の霊山のの麓に室屋を営んだ。そこは龍馬の墓のすぐ近くであり、墓守をして菩提を弔おうとしたのであろう。だが生活を維持できず、明治五年頃、龍馬の旧友を頼り上京する。

東京では香川敬三(水戸藩出身、陸援隊)らが持ち回りで世話をみてくれた。(晩年「優しくしてくれたのは西郷隆盛だけだった」と憎まれ口をたたいている)しかし、いつまでも彼らの行為に甘えるわけにもいかず自活の道を求めて旅館の仲居などをしていたが、その折用いていた変名が”つる”ではなかったかという。

ついで、お龍は大道商人、西村松兵衛と神奈川宿で女中をしていて知り合い、明治八年(1875)七月、お龍は西村ツル(鶴)として入籍。 その時は、今の上町、当時の豊島村にいたが、松兵衛の倒産で、三十年ごろから深田(今の米が浜通)で長屋住まい。貧窮な生活だった。
横須賀の生活も満足なものでなかったが、晩年は貧しいながら穏やかに暮らしたようだ。しばしば失意を紛らすため大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった」とつぶやいたそうだ。一説にはアルコール依存症状態であったと伝えられる。この間、松兵衛との間に子をもうけたが残念ながら幼くして亡くしてしまった。

 明治三十七年に日露戦争が起こると、国を挙げてその成り行きを心配した。 葉山御用邸にご滞在中の照憲皇太后は、ある夜のこと、白装束の龍馬が夢まくらに立ち、皇太后に「ご安心なさるように」 と申し上げて姿を消した、という。 皇太后大夫(だゆう)の香川敬三が、皇太后のおぼしめしを持ってお龍を見舞った、という話が残っている。

明治三十九年没
坂本龍馬の妻お龍(りょう)の墓は幕末・維新ゆかりの地、 久里浜や浦賀に近い大津の信楽(しんぎょう)寺にある。 墓は門前の石段下、右側のイチョウの木のわきに。 正面に「贈正四位坂本龍馬之妻竜子之墓」裏面には「永代寄附 明治三九年一月十五日歿 享年六拾有六謚昭龍院閑月珠光大姉 大正三年八月十六日 実妹中沢光枝建立」と刻まれている。 さらに、台石左側に「賛助人西村松平(松兵衛) 鈴木魚龍(清治郎) 新原了雄」とあり、坂本家のききょう紋も。
龍馬の妻であることを明記するこの墓碑銘は、お龍にとって最高のはなむけになったことだろう。
後、西村松兵衛の意思によりお骨の一部は龍馬の眠る京都霊山護国神社に葬られたという。



佐々木高行(土佐藩)はお龍の魅力を日記にこう記している。

「有名なる美人なれども、賢婦人なるや否やは知らず。
善悪ともに兼ぬるように思われたり」
破天荒な言動は、当時の女性からは大きくはみ出していたようで武勇伝には事欠かない。
十八、九の頃、お龍の留守中に借金の証文を手にした悪党が現れ、妹君枝を大坂の女郎屋に、妹光枝は京都島原に連れて行かれた。それを知ったお龍は着物を売って金を作り、ふところに短刀をしのばせて大坂に飛ぶと刺青のあるやくざ相手に直談判した。「殺すぞ」と脅されても「殺せ。殺せ。殺されに大坂まではるばる下りておる。それはおもしろい。殺せ。殺せ」とわめき無事妹を助け出したそうだ。

あまりよい評判を聞かないお龍ではあるが

「おりょうの面白さは龍馬の中にしか棲んでいない」とは、司馬遼太郎氏の至言である。

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