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ヘンリ・トイボネン

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コミュ内全体

詳細 2015年2月17日 10:22更新

ヘンリ・トイヴォネン(Henri TOIVONEN,1956年8月25日 - 1986年5月2日)は、フィンランド・ユバスキラ出身のラリードライバー。父親のパウリ・トイヴォネン、弟のハリ・トイヴォネンはともにラリードライバーであった。これといった愛称はないが、弟のハリはヘンカと呼んでいる。妻と2人の子供がいた。

WRCで通算3勝しか挙げていないにもかかわらず、長年史上最年少勝利の記録を保持したこと、全力を尽くしたドライビング、そして悲劇的な最期なども相まって「伝説のラリードライバー」「夭折の天才」として世界的にも語り継がれ、また日本でも特別な存在として扱われている。

あまり口数の多い人間ではなかったこともあり、人柄についてはあまり知られていないが、実弟ハリいわく相当の頑固者で、ラリーに自身の全てを傾けていた人物であったらしく、その走りは常に全開、後続といかに差が開いていても手を抜くことなく走り続けたという。そして、未だ誰も乗りこなせたものがいないじゃじゃ馬、ランチア・デルタS4を乗りこなせた唯一の人物である(マルク・アレンですら性能の4-6割しか出せていなかった)。現在様々なドライバーが腕を競うレース・オブ・チャンピオンズは、ミシェル・ムートンがトイヴォネン追悼のために開催したイベントである。

概略
父パウリの影響を受け、早々からラリードライバーの道を目指していたヘンリ・トイヴォネンは、カート(ミカ・ハッキネンの親が息子のために買い与えたゴーカートを借用していたとのこと)、ツーリングカーなどのサーキットレーシングを経て、1975年の1000湖ラリーにてWRCデビューを果たす。初優勝はタルボ・サンビーム ロータスに乗り参戦した1980年のRACラリー。当時トイヴォネンは24歳。WRC史上最年少での勝利であり、2007年まで破られていない記録であったが、2008年2月10日、ラリー・スウェーデンにてヤリーマティ・ラトバラが22歳11か月で勝利したことにより、破られた。しかし、この記録が破られても、ラトバラの搭乗車両が最強と謳われることもあるワークスマシンであることなど、トイヴォネンの実力を否定するものではない。

その後オペル、ポルシェと渡り歩き、1985年にランチアワークスと契約。最も大きなチームとの契約であったが、これが最後の契約となってしまう。


1986年5月2日 ツール・ド・コルス SS18 コルテ-タベルナ
1985年のRACラリーで勝利し、そして1986年のラリー・モンテカルロで圧倒的な勝利を挙げたトイヴォネンは、ツール・ド・コルスへと臨むこととなる。しかし首位でレグ1を終えたトイヴォネンは「このラリーはすべてがうまくいっているのに、なにかおかしい。問題が起きたら、きっと死ぬだろう」と、自らの運命を暗示するかのような言葉を残している。

翌5月2日、レグ2。SS18 コルテ-タベルナ。スタートから7km付近の左カーブでトイヴォネンの乗ったランチア・デルタS4はコースオフ、そのまま崖下へ転落。車体側面に木の幹が貫く状態となり炎上する。後続のブルーノ・サビーとミキ・ビアシオンは車を停め救助を試み、それぞれのコドライバーが必死に救援を求めるも、周囲は木の枝で覆われ脱出は不可能に近く、マグネシウムホイールを装着しケブラー樹脂とプラスチックで覆われたデルタS4の車体は瞬時にして焼け落ち、救護班が駆けつけた頃には既にパイプフレームとサスペンションを残し全焼。ヘンリ・トイヴォネンと、この年からコドライバーを勤めていたセルジオ・クレストは帰らぬ人となった。

さほどきつくないカーブであったにも関わらず、何故トイヴォネンがコースオフしたのか、今となっては知るよしもない。後日、ワルター・ロールは「トイヴォネンはインフルエンザを発症し薬を飲んでいた」と証言したが、事故との因果関係は不明である。ただ、問題のカーブにはブレーキ跡が一切なかったということだけは確かである。事故現場は、数年にわたって黒い焦げ跡が残っていたという。

事故の直前、トイヴォネンはツール・ド・コルス特有の狭く曲がりくねり、片方は山、もう片方は深い崖という危険極まりないコースと、グループBカーの相性の悪さを訴えていた。「この危険なコースにこの車はあまりにも速すぎる」と。くしくも前年、ツール・ド・コルスではランチア・ラリー037で参戦していたアッティリオ・ベッテガが衝突事故で亡くなっている。


現在、ツール・ド・コルスにおいてコルテ-タベルナのステージは使用されていない。そして、事故現場の近くには、トイヴォネンとクレストへ向けた小さな慰霊碑が建てられており、今なお多くのラリー関係者およびラリーファンが訪れている。


グループBの終焉
1985年のベッテガの死亡事故、アルゼンチン・ラリーでのアリ・バタネンの重傷事故、1986年のラリー・ポルトガルにおけるヨアキム・サントスによる多数の観客死傷事故などがあっても、グループB廃止論は表沙汰にはならなかった。しかし、トイヴォネンおよびクレストの死という事態を受け、FISAは緊急に会議を開き、2日という異例の速さで以後のグループBカーのホモロゲーション申請を却下し、1986年をもって世界選手権におけるグループBカテゴリーの廃止を決定した。


戦績
ヘンリ・トイヴォネンのWRCでのキャリアは40戦3勝、11回の表彰台と183回のステージトップタイム、そして22回のリタイアを記録している。キャリアが頂点に達した瞬間に迎えた死であるため、生きていればさらに記録が伸びたであろうとする見方が強い。 また、事故が起きたSSの1つ前のSSでは、他の天才たちを抑えて、そのSSだけで2位との差を46秒も広げるという神業をやっている。


サーキットレースでの活躍
ヘンリ・トイヴォネンはグラベル、ターマックのどちらでも走れるドライバーであったが、これは前述のとおりサーキットでの経験を積んだのちにラリーに進んだが故である。彼はラリーを選ぶかサーキットを選ぶかで非常に悩んだという。

ラリー参戦後も、何回か世界耐久選手権(のちのスポーツカー世界選手権)に出場していた。このときトイヴォネンが所属していたチームの監督、エディ・ジョーダンはトイヴォネンの走りをアイルトン・セナと比較しても「信じられないものだ」と賞賛し、トイヴォネンの死後、F1でもトイヴォネンはきっと成功していただろうと推測した。

こんな逸話も残っている。1986年、F1ポルトガルGPが開催されるエストリルサーキットをランチア・デルタS4でエキシビジョン走行した際、トイヴォネンは当時の予選グリッドで6位に相当するタイムを出した。


日本での影響
漫画家のサラ・イネスはサラ・イイネス時代の作品「大阪豆ゴハン」の中でヘンリ・トイヴォネンをモデルにした人物を登場させている。この作品のほとんどの登場人物は1980年代から1990年代のラリー関係者をモデルにしている。また、某モータースポーツ誌の編集部に現れてはトイヴォネンの写真を失敬していくという奇妙な行動が目撃されている。なお、「水玉生活」単行本裏表紙は、ランチア・ラリー037とヘンリのイラストである。















ヘンリ・トイボネンというラリードライバーをご存知でしょうか?
「WRC」、「グループB」、そして「ランチアデルタS4」・・・。
この3つを知っている人ならば、必ず聞いた事がある筈です。




「一番好きなWRCドライバーを挙げよ」と問われれば、
間違いなくオレは「ペター・ソルベルグ」と答えるでしょう。
好きなドライバーは何人かいますが、一番はソルベルグです。

でも、「伝説と呼ぶに一番相応しいと思うドライバーは?」と
聞かれれば、「ヘンリ・トイボネン」と答えると思います。


WRCでは、サインツやマクレー、マキネンやオリオールなど、
世界チャンピオンに輝き、大活躍をしたドライバーは大勢います。
本当に凄い人達が沢山。では、トイボネンはどうでしょうか?


記録上、WRCではたった3勝しかしていない上に、
チャンピンを獲得した事は一度もありません。
ですが、彼は未だにWRC史上最強の天才とも呼ばれています。

しかし残念ながら、トイボネンの名は天才と呼ばれる一方で、
悲劇として語られる事もまた多いです。それはなぜかというと・・・。




1986年5月2日。


この日、彼とそのコドライバーは、
ツール・ド・コルスで壮絶な事故死を遂げたからです。




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1956年8月25日、フィンランドでトイボネンは生まれました。
父はラリードライバーだったパウリ・トイボネン。

WRCデビューは1975年。1980年のフィンランドラリーで
24歳にしてWRC初優勝を飾り、その後85年のRAC、
86年のモンテカルロと連勝し、ついに覚醒した天才トイボネン。

WRCについに彼の時代がやってくる・・・筈でしたが、
1986年の第5戦ツール・ド・コルスで悲劇は起きてしまいます。




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その前に、グループBの説明を簡単にしておきましょう。

1983年、WRCにグループBという新規定が制定されました。
ベースマシンは「1年間に200台生産された車」とされましたが、
メーカーにとっては200台というのはたかが知れた台数。

簡単に言えば、一般ユーザーが求める実用性など必要なく、
コストや手間を贅沢にかけての、ラリーに特化したマシンの
開発が可能になるという事です。
その上、この200台には競技車両を含める事も出来ました。



また、「エボリューションモデルを20台まで認める」という
項目もあり、更に過激なベースモデルをたった20台作れば
WRCに参戦出来るという、これは本当にとんでもない話。

このため、グループB時代は過激なベースモデルが多数登場し、
それをベースとしたラリーカーは更に過激でした。




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トイボネンが死亡時に乗っていたマシンは、ランチアデルタS4。
一般的には「エスフォー」と読んでも大丈夫だと思いますが、
正式な現地読みだと「エッセクワトロ」になるようです。
イタリア語で「S」はエッセと読み、「クワトロ」は「4」を表します。


「四国自動車博物館」には、このデルタS4が展示されています。
「四国自動車博物館にて展示のランチアデルタS4」




他にも、以下のマシンなども展示されているようです。

「ランチアラリー037」
この車は、史上最も美しいラリーカーと言われています。

「フォードRS200」
※こちらはグループBマシンではなく、そのベースモデルです。




さて、最強のラリーカーと呼ばれる事さえある、デルタS4。
雑誌でこのマシンの姿を初めて見た時の印象は、まさに「狂気」。
カッコいいとかカッコ悪いとかいうような次元の感覚ではない、
何か身震いのような、恐怖にも似たような感覚がしました。
未だにそうですけど、雰囲気・佇まいからして「ヤバイ」です。


その理由の一つに、リアを見るとリアバンパーさえありません。
つまり、ランチアデルタS4はそういうマシン。

「必要がないなら、そんなものは付けなくて良い」という、
おそらくただそれだけの理由。空力面についての考え方も、
多分今とはかなり違うものだった事もあるんでしょうけど、
潔いというよりは、異様という言葉の方が似合うと思います。

また、テールランプにしても、飾り気も何も無いような、
「法規上装着しているだけ」という感じの非常に簡素なもの。


2輪駆動の037ラリーが時代遅れになってしまい、打倒プジョーを
目指して満を辞して登場したのが、このランチア初の4WDマシン。
「コードネーム038」=デルタS4でした。




性能面に目を移せば、エンジンは1.8リッター4気筒DOHCで、
これにボルメックススーパーチャージャーとKKKターボをプラス。
市販モデルでも250馬力、そしてラリーカーでは450馬力を
オーバーしていると言われる程の暴力的なスペックを誇り、
加速力は当時1000馬力といわれたF1を上回るとの事で、
デルタS4は4WDだとはいえ、その異常さが分かります。

また、リアに搭載されたエンジンの上には巨大な
インタークーラーが搭載され、当時のグループCカーよりも、
その面積は上回っていたという、これまた異常な話。

ペラペラのカウルがただベースマシンに似ているというだけで、
中身は恐ろしくスペシャルなマシンでした。
ライバル、プジョーのマシンにおいては、ベース車と共通部品は
ドアハンドルとフロントウィンドゥのたったそれだけだそうで、
形は似てても市販車とは全く別物だという事が分かります。

また、ツインショックも当たり前だったという、グループBマシン。
一応確認しておきますが、こういったマシンが走ったのは、
サーキットではなく封鎖しただけの狭い一般公道です。




また、通称「みにくいアヒルの子」と言われている
シトロエンBX 4TCなどのような珍車も登場した事も特徴。

あの日産サニートラック(サニトラ)やマツダSA22初代RX-7、
ダイハツシャレード926ターボなどといった日本車も
実は出走していたのもまた、このグループBでした。

しかしこれらのマシンは市販車をグループBに適用するように
改造していたため、それ程過激にはなっていませんでした。
過激なのは、最初からグループBを目指してベースモデルが
開発されたグループBマシン達が一番でしょう。




ちなみに、ランチアデルタS4の排気量がなぜ1800ccかというと、
マシンの最低重量は排気量によって異なる決め方がされていて、
排気量2500ccまでならば車重を900kgまで軽くしてもOKだから。

ただし、過給機付きのマシンの場合は係数1.4をかけられるので、
1759cc(デルタS4の排気量)×1.4=約2462ccという事で、
900kgという最低重量を認めてもらうために1800ccという排気量が
決定されたという事ですね。


そのターボ係数ですが、ツインターボだと1.7となるようです。




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グループBはパワー競争が特に極端に白熱し、デルタS4のような
異常としか言えないマシンがたくさん登場しました。


フォードRS200やプジョー205ターボ16エボリューションなどは
450馬力。「シルエットフォーミュラかよ」と言いたくなる
派手なエアロパーツを装着したアウディスポーツクワトロ
エボリューションは500馬力オーバー。
ちなみにこの車、燃費はリッター800mだとか?

ルノー5(サンク)MAXIターボは、1.5リッターから350馬力を
叩き出す等、今のWRカーが公称300馬力、実測でもせいぜい
350馬力と言われている中、驚くべきハイパワーです。

更に、現在はマシン重量はレギュレーションで1230kgが最低重量と
決められていますが、グループBマシンは900kg程しか重量がなく、
中にはマシンを軽くするために、安全面を削ってまでも
重量を軽くしようとしていたマシンも珍しくなかったようです。


そうして、シャーシ性能を上回るエンジンを搭載された
グループBマシン達は、結果ドライバーの手に負えない程の
スペックを身につけ、ついには死亡事故が起きてしまいます。

もはや、グループBマシンは人間の手には負えない、
天才の手でさえも扱いきれない程のモンスターと化していました。




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1985年に、ランチアチームのアッティリオ・ベッテガが
ランチアラリー037で立ち木に衝突する事故を起こし、死亡。
これは通称、「ベッテガの悲劇」とも言われています。
また、同年にプジョー205ターボ16に乗るアリ・バタネンが
誰もが再起不能と信じて疑わなかった程の大事故を起こします。


いい加減ここで気付けば良かったんですが、グループBは続行。
1986年にはヨアキム・サントスが駆るフォードRS200が観客の列に
突っ込むという事故も発生。しかし、それでもグループBは続行。
当時、既に安全面で疑問視する声もあったかもしれませんが、
それでもFIAがグループB廃止を決定する事はありませんでした。




そして、運命の1986年5月2日のツール・ド・コルス。
デルタS4に乗る、ヘンリ・トイボネン、セルジオ・クレスト組は
前日を首位で終え、この日も後続を更に引き離すべく、
アタックを続けていました。最後のサービスを出たトイボネンは、
事故直前の58kmのSSで、そこだけで更に47秒も後続車を
引き離すという、まさに天才的な走りで首位を快走。

しかし、次のSSであるコルテ・タベルナの中盤にあるタイトな
左コーナーにて判断を誤ったトイボネンのデルタS4は、
崖下を滑り落ち、裏返しに着地。不思議な事にブレーキ痕が
全く無かったそうで、詳しい事故状況は分かっていないとの事。
トイボネンは当日、体調不良を訴えていたという話もありますが、
なぜ判断を誤ったのかは不明なままのようです。


「素人目にも別に何でもない、よくありがちな左コーナー」、
どうやら現場はそんなような普通にあるコーナーだそうです。

しかし、ツール・ド・コルスは今でも最も危険と言われるラリー。
山肌を縫ったクネクネと曲がった細い道を走り続け、
一方は山ですが、もう一方はガードレールも無くて、
転落したら数百メートル下まで一気に転げ落ちるのもザラな、
深い谷底がスグそこに顔を見せている、そんなラリーです。




話には、転落して着地した際にそこにあった太い木の幹が
サイドからマシンを串刺し状態で貫いていた状況で、
もしかしたら2人のクルーをも貫いていたかもしれないと。
そして、周りは枝が密集していて、ドアさえも開かなかった状況。
なんともむごい話ですが、実際にあった悲劇なんだなと。


特殊な軽金属と燃料に火がつき、マシンはあっという間に全焼。
ランチアチームのヘリコプターがやってきて、ローターの風で
火を消そうと試みましたが、それでもマシンは燃え続けたとの事。

更に、当時のレギュレーションでは安全タンクや消火器といった
安全装備の装着義務付けはされていなかったという・・・。
燃え上がるマシンを見ていた人達は、彼らが既に即死したか、
意識を失っていた事を願うばかりだったといいます。


トイボネンの次にスタートしたブルーノ・サビーは、
一度は事故には気付かずに現場を通り過ぎたものの、
通過後に燃え上がる炎と煙を見て、その場へ引き返したそうです。
逆走はとても勇気ある決断。普通なら危険ですが、サビーは
SSフィニッシュを目指すべきではないと判断したんでしょうね。

更に、3番目にスタートしたミキ・ビアシオンも車を停め、
後続の車もそれに続きました。




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しかし、この事故により残念ながら二人は死亡。

ランチアチームだけでなく、ラリーに関わり、ラリーを愛する
全ての人が悲しみに包まれたと思います。




この事故を機にFIAによって、翌日からのグループBホモロゲの
申請を全て却下する事が決められ、2日後にはこの年限りでの
グループBの廃止が決定されました。

ちなみに、更に過激になっていたであろう筈のグループS規定は、
当然ながら完全にお蔵入りとなりました。

結局、グループBは1983年から1986年までのたった4年で
終幕を迎えた事になりますが、正しい決定だったと思います。




ちょっとネットで調べてみたところ、どうやら現在まで、
WRCで競技中に死亡したトップクルーは6名だそうです。
アッティリオ・ベッテガ、ヘンリ・トイボネン、セルジオ・クレスト、
ロジャー・フリース、マイケル・パーク、ヨルグ・バスタック。

この内、3人もの死亡者がグループB時代から出ています。
1973年に始まったWRC、その後のたった4年間の間に、
3人も亡くなっています。それに、観客にも死者が出ました。
致命傷を負ってしまったドライバーもいます。

他の3人についても同様に悲劇なのは勿論ですが、
グループBの危険さを分かりやすく表すような数字だと思います。




でも、グループBの4年はとても意味のある4年だったと思います。
技術競争が白熱した事により、今のマシンの技術にも
通ずる根本のような技術がこの時代にたくさん登場したり、
磨かれていったからです。この4年で大きくマシンは進化しました。
まさに、WRCマシンの革命期とも言えると思います。


現にデルタS4は僅か1年という短期間しか活躍しませんでしたが、
ランチア初の4WDマシンとして、後のグループAで大活躍をした
ランチアデルタHFインテグラーレのWRC6連覇という偉業の
基礎を作ったマシンとも言えます。


更に、たった4年のみという歳月に加え、見た目もスペックも
過激なそのグループBマシンの姿は、悲劇を呼び込んだ一方で、
見ている者としては、どこか心が熱くなるような気持ちを
抱かせずにはいられない魅力を放っていると感じます。




現在のWRカー規定のマシンは、グループBよりもパワーも劣り、
重量も重いですが、タイムでは既に上回っています。
そう考えると、技術の進歩というものは本当に恐ろしいです。

でも、明らかにグループBよりもクルーの安全は確保されているし、
なんだかんだ言ってグループBがいろいろな意味で
「ヤバかった」のは、紛れもない事実だと思います。




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さて、下の動画でトイボネンの走りを観る事が出来ます。
勿論トイボネン自身の姿もあるし、肉声も聴く事も出来ます。
音楽、編集共にとても良い出来で、オススメです。

「ヘンリ・トイボネントリビュート映像」



デルタS4がたくさん映ってますが、シャーシとドライバーに対して
明らかなオーバーパワー故に、挙動がフラフラしています。

そして、最後には、事故時の映像も収録されています。
燃え上がるマシンの映像、そして消火作業後にクレーンで
引き上げられた、焼け焦げてフレームのみとなったマシンの
ショッキングな映像が続きます。この辺りは観てて辛い・・・。


トイボネンを知る人は勿論、その名さえも知らない人でも、
この映像を観て何か感じる事はあるでしょうか?


何か心惹かれるものがあって、オレは何回も観ています。
彼に強い思い入れがあるならば、この映像を観て、
涙する人もいるんじゃないでしょうか?




事故の後数年は、草木が焼け焦げた後が残っていたそうで、
今、この死亡事故付近には小さな碑があるという事です。




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「もしもヘンリが生きていたら、
俺はこんなに勝てていなかっただろう。」


これは、世界チャンピオンにもなったユハ・カンクネンの言葉。
そんなカンクネンは、トイボネンを亡くしたツール・ド・コルスを
ずっと嫌っていたそうです。




誰もが認める天才ドライバー、ヘンリ・トイボネン。
しかし、周りの親しい人間たちには、ランチアデルタS4について、
こう話していたという話も伝えられています。


「・・・このクルマでレースを続けるのは危険だ。恐ろしい」




そして、事故当日、死亡する前のトイボネン最後のサービス(※)。
このサービスを出る際に、彼が口にした言葉。


「ツール・ド・コルスはあまりにも危険過ぎる。
このイベントにグループBカーは速すぎるんだよ・・・」




この言葉を残したトイボネン、そしてコドライバーのクレストは、
その後次のサービスに辿り着く事はありませんでした。




天才の早過ぎた死。

改めて、ご冥福をお祈りします。




記事を書いている時ずっと横に置いておいていた雑誌の、
愛娘を抱いたトイボネンの笑顔がとても印象的です。




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※「サービス」

マシンをチェックしたり、メカニックが修理をしたりするところ。
サービス毎に時間が決められており、時間をオーバーすると
ペナルティが課せられる。


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開設日
2008年3月31日

3255日間運営

カテゴリ
車、バイク
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