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男爵 平沼騏一郎

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コミュ内全体

詳細 2015年9月18日 17:43更新

既に業に平沼のコミュニティは設置されているが、その説明は、詳細であるが明確な事実誤認のある『ウィキペディア』「平沼騏一郎」条章の記載に頼っており、本当の平沼騏一郎コミュニティとは言い難い。
(『ウィキペディア』の該条章自体は、最近余程改善されているが……)
学ぶ所も多く、その内容の夥しく多端なのは結構は結構であるが、彼が「ナチス・ドイツを規範とし、また日本型ナチズムの確立を最大の目標とした」と言うが如き、少しでも平沼研究をしたことがある者からすれば、客観的に見て牽強付会無知蒙昧と謂わざるを得ないのは遺憾である。
そのためだけに、彼のコミュニティを改めて設立する云爾。


日本国第三十五代内閣総理大臣
正二位勲一等男爵 法学博士
平沼騏一郎(慶応三年〜昭和二十七年)

機外と号す。
慶応三年九月二十八日、岡山県津山市に平沼晋の二男として生れる。
幼少より漢学・英語等を修め、東大予備門を経て明治二十一年七月、東京帝国大学法学部英法科を卒業。
司法省に入り、昇進して四十四年司法次官、大正元年検事総長、十年大審院長を歴任。
大正十二年九月、第二次山本内閣に司法大臣として入閣。
一貫して我が国の司法行政の確立に貢献し、刑事訴訟法の形成に中心的役割りを果した。
その間、明治三十四・五年、東大法学部講師を委嘱され、同四十年法学博士の学位を受ける。
大正十三年枢密顧問官に任ぜられ、同十五年同副議長となり、爾来昭和十一年まで存在。
大正十四年帝室制度審議会委員であった功績によって男爵を授けられる。
昭和十一年三月、枢密院議長に昇任すると共にその主宰する国本社を解散した。
昭和十四年一月内閣総理大臣となったが、独・蘇不可侵条約に遭い、在任八ヶ月にして総辞職。
更に国務大臣、内務大臣を経て、昭和二十年四月再び枢密院議長に任ぜられ、正に国政の重鎮であった。
国敗れてA級戦犯に指定され、巣鴨プリズン(巣鴨刑務所)に入所。
極東軍事裁判により終身禁固に処せられ、同二十七年八月二十二日、慶応病院にて逝去。
邦算八十六歳。
平沼は津山の藩邸に生れて祖母の愛撫を受け、毎夜唐詩選の低吟を聞きつつ眠りに入ったという。
このような家庭環境の影響もあってか、洋学(法律)を専攻しながら、広く和漢の古書を読破し特に国体の精華に暁通していた。
東洋の道に思いを罩め、明治二十年代、既に参禅の事実もあり、特に経世致用の学―所謂皇道に醇化した儒教を尊崇して、屡々諸大家を聘して皇学・儒学の講席を設けた。
彼を囲む青年時代からの平沼グループは、社会事業に関心があり、また読書会を継続し、平沼邸における毎週一回の講義は盛況で、畳廊下付きの大広間二室に若手・中老の人々が溢れる程であったと言う。
大正四年に至り、秋月・北条・織田・早川・土岐氏ら同志と相諮って無窮會を創立。
大正中期以降 謂わゆる漢学復興の推進力となった東洋文化學會を興す(この会の機関雑誌として月刊雑誌「東洋文化」発足)。
大正十三年一月、大東文化学院が開設されるや、初代総長に就任。
修己治人の諸碩学の後継者を育成しようとしたが、二ヶ年にして内紛の勃発に遭って総辞職。
その素志は挫折したが、最初の目的の遠く難いのを悲しみ、常に堅実な一研究所を作りたいと望んで、小規模ながらも、自己の手塩にかけて真の学者を養成したいと決心し、有らゆる努力を傾けて、悲願は凝って十五年の後、東洋文化研究所の創設となって初めて結実した。
戦争が急になり、灯火管制、敵機の焼打、物資の欠乏という最中でも、研究所の授業は休むなと厳命し、空襲下にも窓に黒幕をかけ、蝋燭をつけて一夜の授業も休まなかった。
平沼が心血を注いだ事業で、今もなお存続しており、ここに世界最高の学府が実現した。
その他日本大学総長・皇典講究所(国学院大学の母胎)副総裁をも兼ね、また修養団々長となり(大正十二年)、国本社を創立して社長となり(同十三年)、力を邦家の経綸に致す傍ら、思いを斯学の振興に傾けた。
つまり官事の傍ら、学問と青年教育の振興・国民精神涵養のことに寝食を廃し、数十年にわたり私財を損じて吝むところがなかった。
特に、民族を蝕むべき思想横行を第二次大戦の後に予見すると共に、その対策への配慮こそ、晩年の彼の第一の関心事であったようである。
養嗣子は平沼恭四郎(大協石油株式会社取締役)。平沼赳夫(前経済産業大臣)はその令息。



○逸話○

戦前法曹界の大御所と言えば平沼騏一郎で、弟分が鈴木喜三郎であった。
その鈴木の伝記ができた時、平沼の伝記を作る話が起き、その資料として彼の直話を聞く会が行われた。
話題は平沼が自分で作って一人話した。
筆記はここまでで、それが終ると食事になり、以後は平沼を混じえながら一同(集まったブレーン)の雑談であった。
ところがある日のこの雑談の時、平沼は、自分は許されればアメリカに行って講和を結びたい、と思いがけないことを言った。
しかし戦時下で一億の国民も一丸となって、打ちてし止まんと玉砕を覚悟していた時であるから、講和などとは噯気(おくび)にも出せない、まして記録などは当然できなかった。

平沼騏一郎は、戦前親交の深かったグルー米国務長官に一生懸命働きかけて、何とか戦争になるのを食い止めようと努力した。
しかし昭和十六年十二月八日、日本は米英二国を新たな敵とする戦争に突入した。
緒戦の勝利は次第に受け身の状況に変り、十九年秋頃から米軍のB29爆撃機が帝都上空に飛来し、全国の主要都市が次々と焼夷弾攻撃に曝された。
戦争が苛烈となった昭和二十年、平沼騏一郎は再度枢密院議長に就任し、終戦に導くために努力をする。
ポツダム宣言を受諾する旨の聖断が初めて下った昭和二十年八月九日の深夜から翌十日の早暁に至る最高戦争指導会議の構成員が主体の御前会議への出席やら、同日午後のお召しによる重臣達の集合への参加やら、さらには国体護持の照会に対する連合国側の返信に接して閣議がまとまらず、閣僚と最高戦争指導会議構成員のすべてを召された会議の席上、返信の趣旨を怪しみ再照会を主張してやまなかった向き向きの意見を親しく聴取された後、直ちにこれを受諾すべき旨の決定的な聖断を下された八月十四日の十時過ぎから正午に至る御前会議の出席やらで、廟議一決してポツダム宣言受諾の証書が発布されたのは当十四日の午後十一時のことであった。
御前会議の折は、枢密院議長として鈴木首相、東郷外相と共に、軍部側三名の徹底抗戦に反対し、本土決戦を避け国体維持を条件に戦争終結のご聖断を仰ぎ終戦を迎えたが、これが軍部の一部に漏れて八月十五日の早朝、反乱軍により西大久保の自宅を襲撃され炎上。
その際、渡り廊下で繋がっていた別棟の無窮會に避難した平沼騏一郎に、反乱軍は気づかず助かった。
平沼邸は数次の大空襲にも燃えずに終戦の日まで残った。
周辺が殆ど焼け野原になったにも拘らず西大久保のほんの一部が奇跡的に焼け残った。
東京大空襲の際、吹雪の様に火の粉が飛び交う中、防空頭巾をかぶり、濡れタオルを口に当て、騏一郎を先頭に家を脱出、安全な所を求めてさまよったこともある。
降伏もやむを得ぬと発言した平沼は国賊とされ、殺害する目的で、平沼邸は襲撃され、暴徒は家中を捜し、平沼が見つからぬと判るや、一斉に屋敷に火を放ち、平沼邸はまさに大東亜戦争終結の日に灰燼に帰したのであった。
翌十五日、天皇の臨御を仰いで枢密院会議。
会議中断中、地下壕の御座所の隣室で、玉音放送を拝聴した平沼は、前かがみになってついには二つに折れたようになり、悌泣した。

平沼は生涯日本国家の事を考えて色々な事業をした。
それは世人の周知する所である。
然し戦争に就いては、重臣として和平工作をしたがうまくゆかず、ついに戦争になっても猶和平、講和を念願していた。
その愛国の心底を知る者は、今や皆逝去したが、先述の講和の言葉は、日本の国体の護持を深く考えて、その機会を待っていたので、内輪の会でもあり、つい覚えず口から出たのであろう。
寸言ではあるが、国を思う本心から語ったのであるから、真に国を愛した平沼騏一郎の真骨頂を伝えることばとして、逸すべからざる一項である。

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2008年3月10日

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カテゴリ
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