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曹操孟徳

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管理人:
乱世の姦雄、これは三国志好きな人なら誰もが一度は聞いた事がある名言である、幼い頃から悪知恵に富んでいた曹操。彼の偉大な業績には沢山学ぶ事が有り過ぎる。彼みたいな普通以上に人間に興味を持った人物も又彼を偉人にさせた理由であろう。彼の洞察力から伺われる人材登用に起用も又一流であったが使い方も荒いという事から現代で言う厳しい取締役だ。自分の覇業が基本でそれに携える周りの人材、役に立たなければ切り捨て、気に入らなければ切り捨てる、現代で言えば会社の経営状況が好調でリストラを用いるのは正当であるが、時に非情ぶりな切り捨て方には驚きと共に尊敬をせざる得なくなる。そんな彼のやり方、生き方は自分の人生に多大な影響を及ぼした。数々の偉業を成し遂げてきた乱世の奸雄、曹操孟徳。生きてる時代こそ違うが彼の精神を勉強し自分の人生モデルに取り入れられればと願い日々汗を流している次第でございます。


曹操孟徳:

155年−220年
中国後漢末では武将であり同時に政治家、詩人でもあった。
幼少期の名は阿瞞また吉利、後に三国の一つ魏の皇帝になる。
(後世では魏武帝、魏武とも呼ばれる。)
演義では爪黄飛電・絶影を愛馬とし、対となす宝剣倚天の剣・青の剣を作らせる。(「絶影」は実際にも乗っていた。影もとどめぬという意味)

『三国志』に登場する人物には背が高く、立派な外見をしていると書かれている者が多い。そんな中で曹操は背が低く(身長7尺=約160cm)、みすぼらしかった。それに加えて、名臣曹参の裔を自称していたものの、実際には蔑まれていた宦官の家系である事から常に周りの士大夫から馬鹿にされ続けていた。たとえば袁紹の謀臣であった陳琳は曹操との戦いに向けた檄文の中で曹操を「贅閹の遺醜」(宦官という薄汚い存在の臭い倅、といったような意味)と決め付けている。しかしその事が曹操に実質の才能を重んじる気風を育てたのだと思われる(前述の陳琳も後にその文才を曹操自身によって認められ、取り立てられている)。他の群雄達が農民から略奪するだけの強盗まがいの事をしていた時に曹操は韓浩に提言された屯田と呼ばれる農政を行っていた。屯田は戦乱のために耕すものがいなくなった農地を官の兵士が農民を護衛して耕させる制度である。この政策により曹操軍は食料に事欠かないようになり、各地の食い詰めた民衆達を大量に集める事が出来たのである。曹操が勝ち残った理由は献帝の確保とこの屯田にあるといって良い。

曹操は文章家でもあり、兵書『孫子』を現在残る十三篇に編纂したのは曹操である(演義では、『孟徳新書』を張松に笑われ焼き捨てている)。漢詩にも卓越しており、赤壁の戦いの際に歌った「短歌行」は『文選』に収録されている。文武両面に非凡な才能を見せた曹操を陳寿は「非常の人、超世の傑」(非常な才能の持ち主であり、時代を超えた英雄である)と評している。

『三国志演義』には曹操を悪人とするための逸話がいくつも書かれているが、そのほとんどは曹瞞伝と言った悪意のある伝承の類を採用した者が多い。また、三国志演義の成立の過程には北朝(非漢民族)と南朝(漢民族)の対立の構図があり、南朝の代表として蜀漢が、北朝の代表として華北に位置する曹魏が置かれたためことさら悪く書かれるようになった。また、英雄とは人を使いこなす器と言う考えがあり、多くの分野に長けており自分ですべてをこなしてしまう曹操はあまり好人物とはとらえられていなかった。さらに、曹操の人気が下がったのは徐州の虐殺が大きな原因となっていると思われ、曹操に責任が無いとは言えない。ただし、徐州の虐殺は肉親が殺されたのが原因であり、曹操の激情家の一面が垣間見えるところでもある(ただ、肉親が殺されたのは徐州虐殺の結果であるという説があるが冷静に法を洵ずる能臣としては私情をすてる部分がありおもしろくもある)。また、劉備や孫権と違って漢王朝を蔑ろにし主君である献帝に忠誠せずに反旗を翻し漢王朝に忠義を尽くした多数の人物らを迫害もしくは処刑したことも三国志演義で悪人として描かれる理由ともなっている。

リファレンス: Wikipedia 人物辞典 −曹操

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2005年09月15日
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