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市村清

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詳細 2011年3月26日 12:35更新

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市村 清(いちむら きよし、1900年4月4日〜1968年12月16日)は、日本の実業家。リコーを中心とする「リコー三愛グループ」の創始者。昭和初期から後期の日本を代表する経営者の一人。

「人の行く裏に道あり花の山」を座右の銘とし、常識の裏をかくアイディア社長として一世を風靡した。現在も銀座4丁目交差点に建つ、円柱・総ガラス張りの個性的な「三愛ドリームセンター」(1963年完成)も、元々は市村の「お客を動かさず、建物を回して商品の方を動かしてはどうか」との発想に基づくものである。


[編集] 来歴・人物
佐賀県三養基郡北茂安村(現・みやき町)に、農業・市村豊吉の長男として生まれる。名門・佐賀中学校(現・佐賀県立佐賀西高等学校)に入学するも、経済的困窮により2年で中退を余儀なくされる。その後野菜売り、銀行員を経て、中央大学専門部(夜間)法科に入学する。1922年、日中合弁の「大東銀行」に入社するため大学を
中退、北京に渡る。

昭和金融恐慌のため、1927年大東銀行は閉鎖される。帰国した市村は富国徴兵保険(現・富国生命保険)のセールスマンとして再出発し、赴任先の熊本で抜群の成績を上げる。

1929年、縁あって理化学研究所(理研)が開発した陽画感光紙の九州総代理店の権利を譲り受け、たちまち業績拡大に成功、朝鮮・満州の総代理店の権利も獲得す
る。1933年、理研所長大河内正敏より理化学興業(株)感光紙部長に招聘される。1936年理研感光紙(株)専務取締役に就任。同社は2年後に「理研光学工業」に改称され、これが後のリコーとなる。1942年には理研産業団より独立する。

1945年終戦を迎えると、「人を愛し、国を愛し、勤めを愛す」の三愛主義をモットーに「三愛商事」を設立、銀座4丁目角の土地を取得し食料品店を開業する。後に婦人服専門店に転業する。銀座の土地は買収に難航したが、ある地権者の老婦人が大雪の中断りに出向いた時、彼女の濡れた足元を見た女性事務員が自分のスリッパを履
かせ、抱きかかえるように3階まで案内したことに感激し、交渉がまとまったというエピソードは有名である。

1952年には三愛石油を設立、外資の攻勢をはねのけて、羽田空港の給油権獲得に成功する。本拠の理研光学においても、1950年に二眼レフカメラ「リコーフレックスIII」を発表、従来のカメラの1/4ほどの価格低下を実現し、大衆カメラブームを巻き起こした。

この他、西銀座デパート、日本リース(リース会社の先駆け、1998年倒産)など各社を次々と設立、1962年には経営不振に陥った名古屋の「高野精密工業」の社長となり再建に成功する(現在のリコーエレメックス)。「経営の神様」としてマスコミの寵児となり、五島昇、盛田昭夫ら若手経営者や大宅壮一、邱永漢、今東光、升田幸
三等の文化人が市村を取り巻いて教えを求め、世間はこれを「市村学校」と呼んだ。

1965年、リコーは無配に転落し、世間からは一転してバッシングが浴びせられることとなる。市村はこれに耐え、組織の効率化と業績給導入を柱とする改革を陣頭指揮で推進、「電子リコピー」の成功により2年後に復配を実現し、現在のOA機器メーカーとしての隆盛の基礎を築く。

1968年12月16日、急性肝萎縮症のため逝去。享年68。(Wikipediaより)

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開設日
2008年1月25日

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