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雍正帝

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コミュ内全体

詳細 2015年5月28日 07:59更新

成す事も無く中年を迎えながらも、おそらくは努力で
歴史の表舞台に登板した中年の星、雍正帝の魅力について語りましょう。
若年諸君も雍正帝を目指し努力を欠かさない事が肝腎と思われます



ウィキペディアより
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%9B%8D%E6%AD%A3%E5%B8%9D

雍正帝(ようせいてい、康熙十七年(1678年) - 雍正十三年八月二十三日(1735年10月8日) 在位1722年 - 1735年)は清の第五代皇帝。諱は胤如覆い鵑靴鵝麿任了は示眞)、廟号は世宗、謚号は憲皇帝。在世時の元号を取って雍正帝と呼ばれる。


康熙帝の第四子として生まれ、45歳で即位する。この時の経緯には不明な点が多い。康熙帝には、寵愛する次男で皇后の子胤礽(いんじょう)がいて、2歳で皇太子となった。しかし、彼は遊び歩くだけではなく、賄賂を取って政治を歪め、さらには、康熙帝を亡きものにするクーデターにまで手を染めた。そこで、やむを得ず廃太子とした。皇太子のいないまま死の床についた康熙帝の遺詔を傍にいたロンコド(隆科多、康熙帝の皇后の弟)が聞いて、それを雍正帝に伝えたということになっていたが、ロンコドと雍正帝が遺詔に十四子と書いていたのを十を取って捻じ曲げたという噂が絶えなかった(「伝位十四子(皇帝の位を十四皇子に伝えること)」の「十」の字に加筆して「伝位于四子(皇帝の位を四皇子に伝えること)」に書き換えたとも)。だが、そもそも詔書などといった皇室の書類は満州文と漢文両方によって編纂することが多く、たとえ漢文版を変造できても、同じ手口で満州文版を変造することは不可能であり、よって噂の信憑性は非常に低いと言われる。

この噂に対し雍正帝は恐怖政治で臨んだ。ロンコドを早々に誅殺し、相続を争いそうな皇弟廉親王允ソンを阿其那(あきな、犬)、允トウを塞思黒(さすへ、豚)と改名させて監禁し、至る所に密偵を潜り込ませた。更に独裁権確立を狙い、1732年に内閣を飛び越えて決裁を行う軍機処を創設し、閣臣達に口出しさせずに政治に当たった。

皇位継承の暗闘を経験したことから、雍正帝はあらかじめ隠しておく勅書を死後に開いて、後継を決める方法を考案した。これを「密勅立太子法」(太子密建)と言う。それまでは皇太子の周りに次代の権力の座を狙って集まって来る者が追従を繰り返すことによって皇太子の性格が歪んだり、皇帝派と皇太子派の派閥争いが起きる弊害があったが、これを封じ、皇帝の専制君主の座が確立した。また、この方法により清代には比較的に暗愚な皇帝が出なかったと言われている。

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