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大隈重信を知る

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コミュ内全体

詳細 2015年3月19日 08:47更新

 大隈重信と曽祖父が大隈と同郷で、また大隈に資金的な援助を得ていたこともあり、この偉大な人物をもっと知りたく思いこのコミュを立ち上げました。

明治時代に国の首相として活躍しただけでなく、早稲田大学の創立者だけでなく、明治体制を築いた人傑である。興味津々です。

どなたでもご参加を。





以下Wikipediaより

「大隈 重信(おおくま しげのぶ、天保9年2月16日(1838年3月11日) - 大正11年(1922年)1月10日)は、日本の武士・佐賀藩士、政治家、教育者。第8代、第17代内閣総理大臣。位階勲等は従一位大勲位。爵位は侯爵。東京専門学校(現・早稲田大学)の創立者。幼名は八太郎。

生い立ち

志士時代の大隈重信佐賀城下会所小路(現・佐賀市水ヶ江)に佐賀藩士の大隈信保・三井子夫妻の長男として生まれる。大隈家は知行300石を食み石火矢頭人(砲術長) を務める上士の家柄であった。重信は7歳で藩校弘道館に入学し、佐賀の特色である『葉隠』に基づく儒教教育を受けるが、これに反発し、安政元年(1854年)に同志とともに藩校の改革を訴えた。安政2年(1855年)に、弘道館を南北騒動をきっかけに退学、後に復学を許されたが戻らず、この頃、枝吉神陽から国学を学ぶ。安政3年(1856年)、佐賀藩蘭学寮に転じた。のち文久元年(1861年)、鍋島直正にオランダの憲法について進講し、また、蘭学寮を合併した弘道館教授に着任、蘭学を講じた。

大隈は、長州藩への協力および幕府と長州の調停の斡旋を説いたが、藩政に影響するには至らなかった。そして慶応元年(1865年)、佐賀藩が長崎の五島町にあった諌早藩士山本家屋敷を改造した佐賀藩校英学塾「致遠館」(校長:宣教師グイド・フルベッキ)にて、副島種臣と共に教頭格となって指導に当たった。またフルベッキに英語を学んだ。 このとき新約聖書やアメリカ独立宣言を知り、大きく影響を受けた。また京都や長崎に往来して、尊王派として活動した。慶応3年(1867年)、副島と共に将軍 徳川慶喜に大政奉還を勧めることを計画し、脱藩して京都へ赴いたが、捕縛の上、佐賀に送還され、1か月の謹慎処分を受けた。


明治維新
明治維新に際しては明治元年(1868年)、徴士参与職、外国事務局判事に任ぜられた。キリスト教禁令についてのイギリス公使パークスとの交渉などで手腕を発揮するとともに、明治2年(1869年)からは会計官副知事を兼務し、高輪談判の処理や新貨条例の制定などの金融行政にも携わった。明治3年(1870年)に参議に補され、明治6年(1873年)5月、大蔵省事務総裁、10月から参議兼大蔵卿になった。大隈の下には伊藤博文や井上馨といった若手官僚が集まり、木戸孝允とも結んで近代国家の早期建設を謳って大久保利通らを牽制した。当時、伊藤や井上らが集って政治談義にふけった大隈の私邸をさして「築地梁山泊」と称した。民部省を吸収合併させて大蔵省を一大官庁とした大隈は地租改正などの改革に当たるとともに、殖産興業政策を推進した。征韓論には反対し、その後、殖産興業と財政改革という点から、明治8年(1875年)10月には、大久保利通と連名で財政についての意見書を太政官に提出したりしている。また、単独でも財政の意見書を提出している。さらに、西南戦争による支出費用の調達とその後の財政運営に携わった。自由民権運動に同情して国会開設意見書を提出して早期の憲法公布と国会の即時開設を説く一方、開拓使官有物払下げを巡りかつての盟友である伊藤博文ら薩長勢と対立、大隈自身の財政上の失政もあり、明治14年(1881年)10月12日、参議を免官となった。 いわゆる明治十四年の政変である。大隈は、10月15日付で辞表を提出した。明治13年(1880年)には、会計検査院創設のための建議をおこなっている。


下野後
野に下った大隈は、10年後の国会開設に備え、明治15年(1882年)3月には小野梓とともに立憲改進党を結成、尾崎行雄、犬養毅、矢野文雄(龍渓)らが馳せ参じた。また10月、小野梓や高田早苗らと東京専門学校(後の早稲田大学)を東京郊外の早稲田に開設した。

明治20年(1887年)、伯爵に叙された。


外務大臣から総理大臣へ 
大隈の外交手段を評価する伊藤博文は、不平等条約改正のため、政敵である大隈を外務大臣として選び、明治21年(1888年)2月より、大隈は外務大臣に就任した。 同年 黒田清隆が組閣すると大隈は留任するが、反対派の抵抗に遭い、明治22年(1889年)には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受け、右脚を失うとともに、辞職した。明治29年(1896年) 第2次松方内閣(「松隈内閣」(しょうわいないかく)と呼ばれる)で再び外相に就任するが薩摩勢と対立して明治30年(1897年)に辞職した。

明治31年(1898年)6月に板垣退助らと憲政党を結成し、同年6月30日に薩長藩閥以外からでは初の内閣総理大臣を拝命、日本初の政党内閣を組閣した。俗に言う「隈板内閣」(わいはんないかく)である。しかし旧自由党と旧進歩党の間に対立が生じ、また文相 尾崎行雄が共和演説事件をきっかけに辞職すると後任人事をめぐって対立はさらに激化。 後任文相に旧進歩党の犬養毅が就いたことに不満を持った旧自由党の星亨は、一方的に憲政党の解党を宣言、新たな憲政党を結成した。結局、組閣からわずか4ヶ月後の11月8日、内閣は総辞職する羽目となり、大隈は旧進歩党をまとめて憲政本党を率いることとなった。明治40年(1907年)、いったん政界を引退し、早稲田大学総長への就任、大日本文明協会会長としてのヨーロッパ文献の日本語翻訳事業、南極探検隊後援会長への就任など、精力的に文化事業を展開した。

第一次護憲運動が興ると、政界に復帰した。大正3年(1914年)にはシーメンス事件で辞職した山本権兵衛の後を受けて、2度目の内閣を組織した。与党は立憲同志会、大隈伯後援会および中正会である。7月、第一次世界大戦が起こると、中国大陸での権益確保を求めて、8月23日に対独宣戦布告をおこなった。翌・大正4年1915年には外相 加藤高明と共に対華21ヶ条要求を提出した。 しかし内相 大浦兼武の汚職事件(大浦事件)が起こると、8月には自身が外務大臣を兼任するなどして内閣を改造するも、内閣は次第に国民の支持を失っていった。さらに内閣に対する元老の圧迫が激しさを増し、大正5年(1916年)10月ついに内閣は総辞職、あわせて政界から完全に引退した。


護国寺(東京都文京区)内 大隈重信墓
大隈重信墓この間、大正5年7月に侯爵に叙された。大正11年(1922年)1月10日に早稲田で死去、1月17日に自邸での告別式ののち、日比谷公園で未曾有の「国民葬」が催された。その名が示すように式には約30万人の一般市民が参列、会場だけでなく沿道にも多数の市民が並んで大隈との別れを惜しんだ。この三週間後に同じ日比谷公園で行われた山縣有朋の「国葬」では山縣の不人気を反映して政府関係者以外は人影もまばらで、翌日の東京日日新聞は「民抜きの国葬で、幄舎の中はガランドウの寂しさ」と報じたほどだった。墓所は佐賀市の龍泰寺と東京都文京区の護国寺にある。」

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開設日
2007年12月8日

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カテゴリ
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