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癒城(いやしろ)サンクチュアリ

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コミュ内全体

詳細 2011年10月7日 16:15更新

大阪の北摂地域・千里中央に鎮座する上新田天神社を核とする約1万坪の竹林・雑木林。この鎮守の杜を乱開発から護り、自然あふれる癒し・人間性甦生の地として次代に受け継ぐため――縁あるひと、ひとりひとりが、できる協力をしていこうというムーブメントのためのコミュニティです。


癒城(いやしろ)サンクチュアリ構想

背景

 我が国・日本は現在、その歴史上、最も危機的状況にあるといえる。
 全地球的な環境問題を筆頭に、高齢化、少子化、犯罪の凶悪化、自殺の増加、利己主義の蔓延、いじめ問題、経済至上主義・拝金主義の信奉、人間関係の崩壊……等々、枚挙にいとまがない。
 しかし、これら表層に顕現した事象を凝視するなら、その深層に横たわる根源的な問題は、たったひとつであることに気づく。言い換えるなら、顕れてきている諸問題は、たったひとつの問題のちがう側面といえよう。
 そして、その問題とは――教育・文化の荒廃である。

 旧世紀は「モノの時代」といわれ、我々はひたすら物質的な豊かさを追求してきた。戦後復興の高度成長時代からバブル経済時代がそれである。ところがバブル崩壊以降、このことに猛省が持たれ、今世紀は「こころの時代」「精神の世紀」といわれるに至った。
 にもかかわらず、社会は相変わらずに目先の経済的な利得追求を是とする状況にある。いや、これまでは専門家の分野であった株式や債券への投機など、個々人が射幸心に引きずられての活動も顕著だ。すなわち、それらの持つ本来の役目を逸脱した、ある意味、ゲーム化が進んでいるように思われる。言い換えるなら、ひとびとが本源的な人間としての『生きる』という行為を放棄し、刹那の狂乱に流されてしまっているわけだ。
 反面では「精神の時代」という潮流はますます、その流れを強め、奔流となりつつあることも事実だ。コンシャスネス(気づき)を持ったひとびとは、自らの存在意義を再認識し、社会における役割を果たそうと活動をはじめている。このことは企業においても、その社会的責任を再考し、ソーシャル・エンタープライズ(社会企業)への脱皮を図っているところも少なくない。
 しかしながら精神世界では奔流となりつつある新しい潮流下においても、これらのことはまだまだ現実界では明確な像を結んでいない。なぜなら、模範となる具体的な事例が存在しないからだ。いや、あるとしても単発的・散発的であり、対処療法的な域を脱していないのが実状である。

 ならば、しっかりとした構築概念の元、これら点として存在するソリューションを立体的・有機的に結びつけたダイナミックなモデルケースを示すなら、この新しい潮流も現実界での奔流となろう。その壮大なる実施実験が「癒城サンクチュアリ構想」である。

コンシャスネス

 時代は精神の世紀である。
 このことは、だれもが意識の奥底では分かっている。たしかに急速に進歩する文明は、ひとびとの暮らしを便利にはするが、けっして幸福に直結させるものではない。いや、むしろ、その加速度的なスピードにより焦燥感や飢餓感を生むパラドクスを内在している。
 そこはかとなく感じる潮流の変化――気づきから、ひとびとは「癒し」を求める。だが、あくまでそれは一時的なもので、残念ながら、継続的な流れには至っていない。
 なぜなら「癒された身体やこころは、どこに向かうのか?」ということに対する解を与えられないまま、対処療法がおこなわれているからである。そのため、効能・効果は一時的・限定的なものに留まってしまう。せっかくの「癒し」が、つぎのステージへのステップを踏めないまま、消失してしまうのだ。

 いうまでもなく、その向かう先は『甦生』である。それも個々人レベルではなく、全地球的――すなわちホリスティックなベクトルを明確に示すことが肝要だ。それも精神論・観念論ではなく、具体的に「見て、聴いて、触れる」カタチを示さなければ、泡沫化してしまう可能性が高い。
 言い換えるなら、いかに高邁な思想や哲学であったとしても「小学生が分かる」レベルに還元しなければ、未来に亘る大きな潮流とはならないということだ。つまり、全地球的・全国規模で考えつつも、地域やコミュニティとして行動することがいま、最も求められていると我々は考えるのである。

未来地球投資

 ユダヤに「わたしたちのいまは、未来の世代からの預かりもの」という格言がある。
 健全なるひとはだれだって子どもが可愛い。孫なら、なおさらであろう。自らの生命を賭してまで、これを護ろうとする。ところが、それが差し迫ったカタストロフィとして認識されないと、ひとはまた、このことに疎いのが実際である。
 その結果、背景で述べた危機的な状況を生み出してしまった。換言すれば、これらの危機は、ひとびとの「無関心」が生んだクライシスである。

 では「なぜ、そのような無関心に陥ってしまったのか?」というと、これもまた背景で述べた「教育・文化の荒廃」に原因を求めることができる。大東亜戦争の終結以降、我が国は復興のため、文明の進歩向上に全力を傾注してきた。結果、奇跡ともいわれる経済的繁栄を築くことができた。ところが、その代償として日本人が本来有する「美学」や「美徳」「文化」をないがしろにしてきたことも事実である。すなわち日本人の「矜恃(きょうじ)」を犠牲としてしまったのだ。
 矜恃とは、大和民族が本源的に有する「究極の誇り」である。そしてそれは「教育」によって伝えられる。ただし、矜恃は雛壇教育的な方法では伝えることはできない。自らが感得するものであり、伝達には啓蒙・啓発といった支援が重要となる。すなわち、このことは「学ぶ」のではなく「感じる」ことにより体得が可能なコンシャスネス。言い換えるなら、ひととひと、ひとと自然の交わりの中で――あたかも鳴り響く音叉が、つぎの音叉を震わせるが如く、レゾナンス(共鳴)によって受け継がれるものである。

 しかしながら、時計を戻すことはできない。我々は、むかしに回帰することはできないのが現実である。そして、物質文明の洗礼を受けたひとびとに、むかしながらの方法論を持って臨んでも、その効果は期待できないであろう。なぜなら、これを受け容れ、レゾナンス可能なバックヤードが存在しないからである。

 温故知新――日本精神の原風景をベースとしつつも、時代の息吹を受けた具体的なソリューションによってこそ、未来の世代への投資は、いずれ開花し結実すると考える。
 さらにいうなら、いかなる繁栄も、地球そのものが健全でない限り、砂上の楼閣に過ぎない。我々は地球株式会社の正社員であり、いま居るところでは派遣社員。これまでは、親会社である地球の一方的な投資を甘受していたが……ここ精神の時代に至って、こんどは借金を返済し、さらに親会社の繁栄に寄与することが本当の繁栄への近道であることを識った。しかるに我々は未来地球投資を志向するものである。

鎮守の杜(もり)――上新田天神社

 現代社会において、やはり現実問題としての「ひと、モノ、金」+「情報」という資源を有さない限り、いかに高邁なコンセプトであっても画餅に過ぎない。
 しかしながら都会にはひとが多く、資本も集まりやすいが適当なフィールドがない。反対に地方には豊かな自然も場所もあるが、ひとや資本に枯渇している。この相矛盾する課題に対する代表的なソリューションとして考えられるのが「鎮守の杜」である。
 ただし、その鎮守の杜は――由緒ある神社を核に持ち、都市近郊にあり、公共交通のアクセスが利便で、幹線道路からも近く、周辺に商業施設等が充実しており、収容施設などのスペースが充分で、宮司や氏子衆が理解を持つ……といった諸条件がクリアされている、もしくはクリア可能な条件を内在していなければならない。このように条件づけをしていくならば、候補は狭く限定されてくる。

 ところが大阪の北摂に鎮座する『上新田天神社』は、これらを当初からクリアしている稀有な神社である。
 寛永三年(1626年)に幕府の直轄領として拓かれた上新田に鎮座する天神社は、主祭神に菅原道真公、相殿神に天津神、末社に宇迦之御魂大神(稲荷神)を祭祀し「千里の氏神」としての崇敬を受ける。
 立地は、大阪の中心部を南北に貫く地下鉄御堂筋線(正式には相互連絡線である北大阪急行線)の千里中央駅、もしくは大阪モノレールの千里中央駅から徒歩で約8分という位置にある。さらに近隣都市各地を結ぶバスターミナルもあり、その利用客は北摂最大規模にある。
 さらに、近くには幹線道路である大阪中央環状線(高架部分は高速道路の中国自動車道〜近畿自動車道)・新御堂筋線が東西・南北に走っており、自動車でのアクセスもいい。
 この千里中央は、もともと千里ニュータウンおよび北摂地域の要衝であったが、1970年の大阪万博を契機に開発が進み――デパート、スーパーマーケット、専門店、飲食店、銀行、ホテルなどを擁する地域最大の複合商業施設を形成している。ただ、近年の老朽化や交通アクセスの利便さ故に大阪市内の梅田やミナミへの利用客の流出が起こり、往年ほどのにぎわいはない。
 また、天神社の鎮座する上新田近隣は歴史のある地域のため、矜恃を持った地権者の意思で千里ニュータウン開発時に編入されず、鎮守の杜をはじめ竹林や雑木林などの広大な土地と自然が残る。

 最後に――最も重要なこと……天神社の中村暢晃宮司ならびに氏子総代会会長、さらに氏子・町会のかたがたが、当該地区を「最後の未開発地域」と経済優先で参入しようとするマンション開発業者や金融機関から鎮守の杜を護り、ここを人間回復の聖地として残したいと希求し、日夜努力されていることである。
 しかしながら、地権者の高齢化や相続問題などから、早急に対応策を講じなければ、鎮守の杜がマンションの林立する「こころの砂漠地帯」となってしまうおそれが高い。

イヤシロチの防衛と再生

 イヤシロチとは「癒しの地」もしくは「弥盛地」ともいわれ、澄んで清浄なる気が流れ集まるエネルギー・スポットであり、それに縁すれば、本当の意味での「弥栄(いやさか)」を得ることが可能とされる場所のこと。
 形法風水でも、この気の流れは「龍脈」と呼ばれ、その流れを阻害すると、気の滞りから不幸や凶運となってしまうといわれている。現代科学ではまだ未検証であるが、実例が多数あることから、香港などでは龍脈を妨げないよう高層ビルであっても、そこに通路を確保した建築物が多く見られる。
 そして、イヤシロチは、これらの龍脈が出会い、気の集中拡散のキーステーションとなる要衝ともいえる。さらに古の賢者は、このことを知悉しており、かならずといっていいほど神社仏閣はイヤシロチに造営されている。また、神社などが乱開発に巻き込まれ、鎮守の杜――イヤシロチを失ったため、その神社のみならず、地域全体が没落した例も少なくない。

 上新田天神社も例外ではなく、創建者がイヤシロチに造営している。ただ、その範囲は神社の境内・敷地だけでなく、鎮守の杜をも含めた一体を指す。言い換えるなら、地域全体がイヤシロチを形成し、その核として天神社が鎮座しているといったほうが、より適当といえる。
 つまり、上新田天神社一体の鎮守の杜を失うことは、そのまま千里地域のイヤシロチを失い、周辺地域までを含めた運気を手放すことにほかならない。ただ、かつてはあたりまえとされた古代よりの知恵に親しみのない現代人に対して、旧い手法のままに啓蒙活動をおこなうことには無理がある。
 古の叡智と現代の英知を有機的に結びつけ、次代のための息吹を宿した新しい鎮守の杜づくりが急がれるのである。

癒城サンクチュアリ

 癒城(いやしろ)は「イヤシロチ」に語源を置く造語である。同時にそれは「弥社」であり、ひとびとを癒し甦生させるフォートレス(砦)としての城の意でもある。ただ、ここでの城は兵城ではなく、神社の祖型といわれる御嶽(うたき)の現存する南西諸島――琉球における小高く聖なる場所を示す「グスク」の意味であり、倭国の起源とされる邪馬台国の台(臺)を表すものである。
 サンクチュアリ――聖域。こちらは不可侵のエリアというだけでなく、より開かれた・より能動的な「楽園」の意である。神道でいうなら「まほら」となり、仏教でいうなら「寂光土」となるであろうが、神社はすべてのひとびとに開放された場である。宗教や思想、哲学、人種、国籍……等々を超えたエネルギー・フィールドを示す。
 このような息吹の集中拡散の根源地を上新田天神社と鎮守の杜、その地域に創建し、全国さらには全世界に向けてメッセージを発信していくものである。

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開設日
2007年10月27日

3377日間運営

カテゴリ
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