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藤原鎌足

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詳細 2016年6月6日 01:20更新

 藤原鎌足のコミュニティです。中臣鎌足(なかとみのかまたり)、藤原鎌足(ふじわらのかまたり、推古天皇22年(614年) - 天智天皇8年10月16日(669年11月14日))は、飛鳥時代の政治家で、藤原氏の始祖。大化の改新以降に中大兄皇子(天智天皇)の腹心として活躍した。『藤氏家伝』には「偉雅、風姿特秀」と記されている。中臣氏の一族で中臣鎌子(なかとみのかまこ)・中臣鎌足(なかとみのかまたり)ともいう。字は仲郎。鎌足は藤原氏繁栄の礎を築いた。

[名称]
 初期のころには中臣鎌子と名乗っていた。その後中臣鎌足となる。死の直前、臨終に際して、大織冠とともに藤原姓を賜った。つまり、彼自身が生きていたころを指す場合は中臣鎌足を用い、藤原氏の祖として彼を指す場合には藤原鎌足を用いる。
 なお、欽明天皇朝で物部尾輿と共に排仏をおこなった中臣鎌子とは全く別人である。

[系譜]
 父、中臣御食子(なかとみのみけこ)、母、大伴夫人(大伴囓子の娘)の長子。
 正妻:鏡王女(?-683)(最初、中大兄皇子妃であった)
 妻:車持与志古娘
 長男:定恵(俗名、真人)(644-665)(僧侶)
 次男:不比等(659-720)(『尊卑分脈』による。なお『興福寺縁起』では不比等の母は鏡王女とされている)
 母未詳
 娘:氷上娘(ひかみのいらつめ)(?-682)(天武天皇夫人、但馬皇女の母)
 娘:五百重娘(いおえのいらつめ)(天武天皇夫人、後に不比等の妻 新田部親王・藤原麻呂の母)
 娘:耳面刀自(みみもとじ、みみものとじ)(弘文天皇夫人、壹志姫王の母)
 娘:斗売娘(とめのいらつめ、とねのいらつめ)(中臣意美麻呂室、中臣東人の母)

[来歴]
 出生地は、『藤氏家伝』は大和国高市郡藤原(現在の橿原市)としているが、大原(現在の明日香村)や常陸国鹿島とする説(『大鏡』)もある。
 早くから、中国の史書に関心を持ち、『六韜(りくとう)』を暗記した。隋・唐に留学していた南淵請安が塾を開くと、儒教を学び、そこでは蘇我入鹿とともに秀才とされた。『日本書紀』によると、644年に中臣氏の家業であった祭官につくことを求められたが、鎌足は固辞して摂津国三島の別邸に退いた。
 密かに蘇我氏体制打倒の意志を固め、擁立すべき皇子を探した。初めは軽皇子(孝徳天皇)に近づき、後に中大兄皇子に接近した。また、蘇我一族内部の対立に乗じて、蘇我倉山田石川麻呂(そがの・くらのやまだ・の・いしかわまろ)を味方に引き入れた。
 645年、中大兄皇子・石川麻呂らと協力して飛鳥板蓋宮(あすかのいたぶきのみや)にて、当時政権を握っていた蘇我入鹿を暗殺、入鹿の父の蘇我蝦夷を自殺に追いやった(乙巳の変)。この功績から、内臣(うちつおみ)に任じられ、軍事指揮権を握った。ただし、内臣は寵臣・参謀の意味で正式な官職ではない。
 その後、大化の改新を推進しようとする中大兄皇子の側近として、保守派の左大臣の阿部倉梯麻呂(あべのくらはしまろ)、右大臣の蘇我(倉山田)石川麻呂と対立した。647年の新冠位制度では大錦冠(だいきんかん)を授与された。649年に梯麻呂・石川麻呂が死去・失脚したあと勢力を伸ばし、654年(白雉5年)ごろには大紫冠(だいしかん)に昇格した。669年、死の直前に、天智天皇から大織冠を授けられ、内大臣に任じ、「藤原」の姓を賜った。
 鎌足の業績ははっきりしていない。『藤氏家伝』には近江令の編纂を命じられたとされているが、これを疑問視する研究者も多い。

[墓所・祭所]
 死後、奈良県桜井市多武峯の談山神社、及び大和郡山市の久松寺に祭られる。 「多武峯縁起絵巻」には、鎌足が生まれるときに、どこからか鎌をくわえた白い狐が現われ、生まれた子の足元に置いたため、その子を「鎌子」(のちの鎌足)と名づけたと描かれている。このエピソードにちなみ、談山神社では鎌をくわえたかわいい白狐のお守りが売られている。
 墓処は定かではないが、『日本三代実録』天安2年(858年)条には「多武峰墓を藤原鎌足の墓とし、十陵四墓の例に入れる」という記述があり、平安時代中ごろ成立と見られる「多武峯略記」などに「最初は摂津国安威(現在の大阪府茨木市)に葬られたが、後に大和国の多武峯に改葬された」との説が見える。 なお、昭和9年(1934年)に大阪府茨木市大字安威の阿武山古墳の発掘中に発見された埋葬人骨は藤原鎌足本人であるとする説も存在する。一方、『藤氏家伝』の記述に基づき、鎌足の墓は京都市山科区のどこかに存在するという説もある。

大織冠神社・将軍塚古墳(鎌足公古廟)・将軍山
 追手門学院大学付近に藤原鎌足の古廟と伝えられている大織冠神社・将軍塚古墳があります。
 「藤原鎌足公の墓処は、初め摂津の阿威にあったが、後に大和多武峰に改葬された」という説があり、この神社の場所がその「阿威」にあたるのではないかということで、江戸時代になってこの塚をあてるようになりました。
 そのために鳥居を建て、石碑を造り、石室内に祠をつくって崇拝し、毎年10月16日には、京都の九条家から反物2千匹を持参し、お祭りをされていました。
 考古学上からは、山頂を利用して造った円墳で、南向きの横穴式石室を有しています。石室は、羨道が玄室の片方に寄ったいわゆる片袖式のもので、丸みのある花崗岩を積み上げています。
 玄室の長さは、4.5m、幅1.71m、高さ2.4mで5枚の天井石が乗せられています。時代は古墳時代後期(6世紀)のものですが、早くに開口されたため副葬品については何もわかっていないそうです。
 江戸時代には、毎年10月16日に京都の九条家から使者が来て、反物2千匹を持参してお参りしていたそうです。

[和歌]
 『万葉集』に2首所収。『歌経標式』に1首所収。『万葉集』の1首は正室・鏡女王に送った物で、もう1首が鎌足が采女安見児(ヤスミコ)を得たことを喜ぶ歌である。
 『われはもや安見児得たり皆人の得難にすとふ安見児得たり』 (私は安見児を得た、皆が手に入れられないと言っていたあの安見児を得たのだ)
 采女とは、各国の豪族から天皇に献上された美女たちである。数は多しといえども天皇の妻ともなる資格を持つことから、当時、采女への恋は命をもって償うべき禁忌であった。鎌足の場合は、おそらく天智天皇に覚えが良かったことから、特別に采女を賜ったのであろう。 上の歌には万葉らしく、鎌足の二重の喜びが素直に表現されている。すなわち、恋を成就した歓びと、天皇が自分だけに特別な許可を与えたという名誉である。

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