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小渕恵三LOVE♥

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小渕 恵三(おぶち けいぞう、1937年6月25日 - 2000年5月14日)は、日本の男性政治家、第84代内閣総理大臣。 自由民主党に所属した。没後、正二位大勲位。 早稲田大学第一文学部英文科卒業、同大学院修了。
元TBS社員で現衆議院議員の小渕優子は次女。

群馬県吾妻郡中之条町出身。父は小渕光平、母は小渕ちよ。1958年、衆議院議員の光平が亡くなると、政治家になることを決意し早稲田大学雄弁会に入会。

1963年11月、第30回衆議院議員総選挙に旧群馬三区から自由民主党公認で出馬し初当選。同一選挙区には福田赳夫、中曽根康弘、山口鶴男と大物が揃っており、毎回選挙には苦労したが落選はしなかった。1970年1月 郵政政務次官(第3次佐藤内閣)、1972年7月 建設政務次官(第1次田中内閣)、1973年11月 総理府総務副長官(第2次田中改造内閣)、1979年11月 総理府総務長官兼沖縄開発庁長官(第2次大平内閣)を経て、1987年11月 竹下登内閣の内閣官房長官。
内閣官房長官時代に元号が変わり、新しい元号「平成」を公表。

1991年4月、自由民主党幹事長。

1992年10月、経世会(竹下派)会長の金丸信が東京佐川急便事件で議員辞職に追い込まれると、小渕が後継の派閥領袖となった。しかし小沢一郎、羽田孜らが反発して改革フォーラム21(羽田・小沢派)を旗揚げし経世会(小渕派)は分裂。 1993年、羽田らは自民党を離党して新生党を結成した。

1997年9月、第2次橋本龍太郎改造内閣で外相に。1998年7月30日、橋本の後継首相になるも、2000年4月2日に脳梗塞を発症。執務不能となり、官房長官の青木幹雄を首相代行に指名して辞任したとされ、同年、5月14日に病没。尚、青木の首相代行就任に際し、脳梗塞で意識を失いつつあった小渕本人に、代行指名を行うことが出来たか否かが、後任に何かと評判の悪い森喜朗が選出されたこととともに野党・マスコミに「疑惑」として追及された。

その死の翌日、大勲位菊花大綬章が贈られた。
6月8日には日本武道館において内閣・自由民主党合同葬が執り行われ、それに合わせた弔問外交も行なわれた。

2000年の衆議院選挙には次女の優子が後継として群馬五区から出馬し、大差で当選した。

1998年の参議院選挙で自民党が追加公認を含め45議席と大敗すると、橋本内閣は総辞職に追い込まれた。 小渕は自民党総裁選に出馬し、梶山静六、小泉純一郎を破り自民党総裁に就任。 7月30日、国会で首班指名を受け第84代内閣総理大臣に就任。 しかし、与野党が逆転している参議院では民主党代表 菅直人が首班指名され、日本国憲法67条衆議院の優越規定により辛くも小渕が指名されるなど、当初の政権基盤は不安定だった。

同年10月、金融再生法案は野党・民主党案丸飲みを余儀なくされ、10月16日には参議院で防衛庁長官 額賀福志郎の問責決議が可決され、額賀は辞任に追い込まれた。

しかし、その一方で野党公明党、自由党に接近。11月に公明党の地域振興券導入を受け入れ、自由党党首 小沢一郎とは連立政権の協議開始で合意した。

1999年1月、自由党との連立政権発足。 公明党との協力を得て、周辺事態法(ガイドライン法)、憲法調査会設置、国旗・国歌法、通信傍受法(盗聴法)、住民票コード付加法(国民総背番号制)など、「内閣の一つや二つは潰れる」とまでいわれていた重要法案を次々に成立させた。

同年9月、自民党総裁選で加藤紘一、山崎拓を破り総裁に再任。10月に公明党が正式に与党参加。 続く内閣改造・党三役人事では、森喜朗幹事長を留任させ、総務会長には加藤派が推挙した小里貞利を拒否、池田行彦政調会長を一本釣りし、総務会長に横滑り起用し、加藤のライバルであった河野洋平元総裁を外相に起用した。また、山崎派が推挙した保岡興治の入閣も拒否し、深谷隆司を通産相に起用した。これは総裁選後の報復人事とささやかれた。 2000年2月、自由党の要求を受け衆議院の比例代表区定数を20削減する定数削減法を強行採決で成立させた。3月には、教育改革国民会議の開催をはじめた。

同年4月1日、自由党との交渉が決裂し、連立離脱を通告されるが、翌日に脳梗塞で緊急入院。4月4日に正式に内閣総辞職した。在職616日。

首相就任当初は、「人柄の小渕」と称されるその温厚で控えめな性格から、「冷めたピザ」(食えない奴)や「ボキャ貧」(ボキャブラリーが貧しい)、「真空総理」等と野党やマスコミから散々揶揄された。田中眞紀子は1998年の自民党総裁選の立候補者の3人を、梶山は士官学校卒業だから「軍人」、小泉は変な人だから「変人」、そして小渕は「凡人」と評した。しかし、逆に時が経つにつれてその性格や気配りが報道関係者や国民の心を掴み、「ブッチホン」等の流行語を生み出すまでの人気を得るに至った。(もっとも当年新語・流行語大賞にて大賞として「ブッチホン」が選ばれた訳だが、世間の反応は鈍く、「そんな言葉聞いたことがない」という声がほとんどであった。)ただ、本人はあくまで冷静で、「支持率が上がったからといって一喜一憂してはいけない。政権発足時に比べれば支持率は大きく上昇したが、今後、支持率は反転し低落傾向に向かうだろう。そのとき、もう一度支持率を上昇傾向に向かわせられるかどうかが勝負だ」と語っていた。

小渕内閣の特徴として、実力のある重量級の国務大臣を次々登用したことが挙げられる。総理はあくまで全体の方針を策定するだけで、各省庁の個別の案件は国務大臣自らの裁量に任せる、というのが小渕の基本姿勢であり、チームワーク型の内閣である。組織論では、総理が強いリーダーシップを執り国務大臣はその補佐に徹するだけの小泉純一郎内閣のような大統領型内閣と、組織運営の違いがよく対比される。

学生時代から沖縄問題に関心を持ち、後の九州・沖縄サミット開催実現につながった。同サミットの会場となった沖縄県名護市の万国津梁館近くには、小渕の像が建立されている。

郵政省政務次官就任時、「郵政省で政務次官をやるからには現場の職務を深く理解したい」と考え、郵政外務職員に混じって自ら郵便配達を行い、当時の郵政省職員、郵便局局員を驚かせ、また、支持を得ていった。

郵政省が所管するアマチュア無線にも造詣が深く、あまり知られていないが熱心なアマチュア無線家でもあり、議員で構成する「国会アマチュア無線クラブ」の会長も務めていた。

『ルパン三世Y』(山上正月作、モンキー・パンチ監修)の第28話「開かれる千年の輝き」にも登場。

総理大臣当時、目指すべき国家像として「富国有徳」を打ち出す。この概念は石川嘉延により引き継がれ、2005年現在、静岡県のスローガンの一つとなっている。

江沢民中国国家主席(当時)の来日時、江主席の日本に対する謝罪要求をはねつけた。一説では、謝罪要求の迎合を促した外務官僚を、机を叩いて怒鳴りつけたと言われる。

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2005年07月27日
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