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第二次上海事変

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詳細 2023年8月14日 00:07更新

チャペル中国側の“先制攻撃”である点に注意
いつものように日本軍の「謀略」が発端ではない

【時系列】

1936年4月 【ハプロ条約】(独支工業製品・原料互換条約)
(独→支) 武器弾薬、軍需工場、工業プラント、工作機械等
(支→独) タングステン、モリブデン等のレア・メタル 
1936年10月 【ファルケンハウゼン計画】
ファルケンハウゼンは蒋介石に対日戦争開始計画を具申
出典: ”the Sino-German Connection” by Hsi-Huey Liang, 1977 Van Gorcum & Comp. B.V. , Distributed in the USA by Humanities Press : ISBN 90 232 1554 0
1936年12月27日 ハンス・フォン・ゼークト死去
1937年01月    「ゼークト・ライン」ほぼ完成
1937年08月09日 大山大尉事件
1937年08月13日 淞滬会戦(始) 国際共同租界の日本人区域を包囲
1937年08月15日 上海派遣軍編成
1937年08月23日 上海派遣軍(第11師団)、「川沙鎮」に上陸 →羅店鎮へ
1937年08月23日 上海派遣軍(第3師団)、「呉淞」(ウースン)に上陸、大損害
1937年08月28日 第11師団歩兵第44・22連隊、「羅店鎮」占領
1937年09月02日 第3師団歩兵第68連隊、呉淞砲台占領
1937年10月10日 上海派遣軍、ゼークトラインに攻撃開始
1937年10月20日 第10軍(柳川平助中将)編成
1937年10月23日 国民政府軍総崩れ
1937年10月26日 上海派遣軍(第101師団)、「大場鎮」攻略
1937年11月02日 
廣田外相、駐日独大使ディルクセンに和平仲介依頼。第1条件を提示
1937年11月03日 ブラッセル会議(〜15日まで)
1937年11月05日 蒋介石、日本側の第1条件入手
1937年11月05日 第10軍(柳川平助中将)、杭州湾に上陸
1937年11月07日 
中支那方面軍編成(上海派遣軍+第10軍)
上海西部の蘇州から嘉興を結ぶ線の東側までを作戦制限区域とする
1937年11月12日 第10軍国崎支隊、「北橋鎮」攻略
1937年11月13日 上海派遣軍第16師団(京都)、白茆江に上陸
1937年11月14日 第10軍第6師団、「平望鎮」攻略
1937年11月15日 第10軍第6師団、「崑山」攻略
第10軍司令部、幕僚会議を開き、
「軍全力ヲ以ッテ独断南京追撃ヲ敢行スル」 ことを決定。
1937年11月17日
第10軍柳川平助司令官、
「嘉興より南京に向かう追撃作戦指導要領」を決裁
1937年11月19日 上海派遣軍第11師団、「莫城鎮」攻略
1937年11月19日 上海派遣軍第9師団(金沢)、「蘇州」攻略
1937年11月19日 上海派遣軍第16師団、「常熟」攻略
1937年11月19日 第10軍第18師団(久留米)、「嘉興」攻略
制令線の「嘉興」に達した第10軍第18師団(久留米)、
柳川軍司令官の独断下令により、制令線を越え一路南京追撃開始
1937年11月20日 大本営、方面軍参謀長宛追撃禁止打電
1937年11月22日 
松井石根大将、大本営に対して南京攻略を進言
1937年11月23日 上海派遣軍第16・第11・第9師団、「無錫」攻撃開始
1937年11月23日 第10軍国崎支隊・第18・第114師団、湖州東側地区集結
1937年11月24日
大本営、中支那方面軍の作戦制限区域を解除して
無錫−湖州の線を新たな攻勢限界線と指示 (大陸指第五号)
1937年11月25日 唐生智将軍、南京衛戍司令長官に任命
1937年11月25日 上海派遣軍第16・第11・第9師団、「無錫」攻略
1937年11月25日 第10軍第114師団、「長興」攻略
1937年11月28日 上海派遣軍第13師団、「青陽鎮」攻略
1937年11月28日 第10軍第114師団、「宜興」攻略
1937年11月29日 上海派遣軍第13師団、江陰要塞攻撃
1937年11月30日 第10軍第18師団、「広徳」攻略
1937年12月01日 大本営、南京攻略を命令(大陸命第八号)
1937年12月02日 上海派遣軍第13師団、江陰要塞攻略
1937年12月02日 上海派遣軍第16師団、「丹陽」攻略
1937年12月02日 上海派遣軍第9師団、「金壇」攻略
1937年12月02日 第10軍第114師団、「深陽」攻略
蒋介石、第1条件を交渉の基礎として受け入れることを駐南京独大使トラウトマンに伝達
1937年12月04日 中支那方面軍、南京防衛外郭陣地を突破
1937年12月04日 上海派遣軍第13師団沼田支隊、揚子江渡河 「靖江」攻略
1937年12月05日 上海派遣軍第16師団、句容付近の敵陣地突破
1937年12月05日 
上海派遣軍第9師団、化鎮付近(南京第一線陣地)に進出
1937年12月07日 ドイツ外務省、日本側の回答を求める
1937年12月07日 第10軍第114師団、「秣陵関」攻略
1937年12月07日 第10軍第18師団、「宜城」攻略
1937年12月07日 
大本営、南京攻略後の基本任務を指令(大陸命第二十四号)
1937年12月07日 方面軍司令部、南京城攻略要領示達
蒋介石ら首脳陣および政府要人や地方公務員等が南京を脱出
1937年12月08日 中支那方面軍、南京を包囲
1937年12月09日 第10軍国崎支隊、「太平」攻略
1937年12月09日 松井石根大将、中国軍に対し開城(降伏)を勧告(期限12/10正午)
1937年12月10日 第10軍第18師団、「蕪湖」攻略
1937年12月10日 南京総攻撃開始
1937年12月10日 上海派遣軍第16師団、紫金山及びその両側地区攻撃
1937年12月10日 上海派遣軍第9師団、「光華門」城門占領
1937年12月10日 上海派遣軍第9師団、「雨花台」東端攻撃
1937年12月10日 第10軍第114・第6師団、雨花台第三線陣地、複郭陣地攻撃
1937年12月11日 上海派遣軍第13師団、図山要塞攻略と「鎮江」集結 渡河準備
1937年12月11日 第10軍第18師団、南京進撃を中止(杭州攻略参加の為)
1937年12月11日 第10軍国崎支隊、「慈湖鎮」付近で揚子江渡河
1937年12月12日 上海派遣軍第16師団、紫金山頂を南北に連ねる線を占領
1937年12月13日 上海派遣軍第16師団歩兵第20連隊第2大隊、「中山門」占領
1937年12月13日 佐々木支隊(第16師団歩兵第30旅団)、紫金山で交戦
1937年12月13日 山田支隊(第13師団歩兵第103旅団)第一大隊、烏龍山砲台へ進軍
1937年12月13日 上海派遣軍第9師団歩兵第36連隊、「光華門」占領(6:00)
1937年12月13日 第3師団歩兵第68連隊第2・第3大隊、「通済門」占領(12:00)
1937年12月13日 佐々木支隊独立軽装甲車第8中隊、「下関」突入(13:40)
1937年12月13日 第16師団歩兵第33連隊、下関進出 揚子江を逃れる敵を射殺(14:30)
1937年12月13日 佐々木支隊歩兵第38連隊、下関進出 揚子江を逃れる敵を射殺(15:00)
1937年12月13日 第10軍国崎支隊、「浦口」攻略(23:30)
1937年12月14日 天谷支隊(第11師団歩兵第10旅団)、「揚州」攻略
1937年12月14日 上海派遣軍第13師団、揚子江北岸へ進出
1937年12月14日 第16師団歩兵第33連隊第2大隊、城内西北角一帯掃蕩
1937年12月14日 第16師団歩兵第33連隊第3大隊、下関地区掃蕩
1937年12月14日 上海派遣軍第9師団歩兵第7連隊、城内掃討
1937年12月14日 佐々木倒一少将私記
1937年12月14日 山田支隊、幕府山砲台占領
1937年12月17日 幕府山事件
1937年12月18日 故宮飛行場にて忠霊祭
1937年12月21日 日本、より強硬な第2条件を閣議決定
1937年12月22日 廣田外相、駐日独大使ディルクセンに第2条件提示
1938年01月13日 「帝国政府は爾後国民政府を相手にせず」声明

【上海派遣軍】

・第3師団(鷹森孝)
・第9師団(吉住良輔)
・第11師団
・第13師団
・第16師団(中島今朝吾)
・第101師団
・重藤支隊
・野戦重砲兵第5旅団

【第10軍】

・第6師団(谷寿夫)
・第18師団(牛島貞雄)
・第114師団
・国崎支隊
・野戦重砲兵第6旅団


出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

第二次上海事変(だいにじしゃんはいじへん)とは、1937年(昭和12)8月13日から始まる国民党軍の上海への攻撃とそれに続く日本軍の反撃である。

盧溝橋事件により始まった華北(北支)での散発的戦闘に続いて、これ以後華中(中支)において中国内陸部に侵攻し、中国全土に日華事変が波及した。

1932年(昭和7)1月28日に起きた上海事変に対してこう呼ぶ。

■当時の状況

1937年(昭和12年)7月7日の盧溝橋事件を発端に、同月28日に至り日中両軍は華北において衝突状態に入った(北支事変)。上海では1935年(昭和10年)ごろから中国人による日本人暴行・殺害事件が発生していたが、7月24日に宮崎貞夫一等水兵が行方不明となったため、上海市民は第1次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難する市民まであった。

この事件は当初、中国人に拉致された事件と報道され、日本は神経を尖らせた。しかし、この事件は宮崎水兵が軍紀違反の発覚を恐れて逃亡したという真相が後に明らかになった。

■事件の背景

この戦闘の背景には、蒋介石の、万里の長城以南の中国に対する統一を守る(蒋介石は当時満州における領土主張は撤回してもよいと考えていた)ために、日本軍を華北から撤兵に追い込むという戦略があった。このとき既に日本は華北分離工作によって華北にその影響力を強めており、これは国共内戦を戦う蒋介石にとっては国民の支持を得続けるためにも容認できない事態であった。

この戦略の基礎となったのが1930年代における独中間の軍事支援協定である。1934年からドイツの中国国民党への投資が続いており、ドイツ製の軍需物資が輸出され、第一次世界大戦型の要塞線「ゼークトライン(チャイニーズヒンデンブルクラインとも)」が上海の西方の非武装地帯に上海停戦協定を違反して築かれた。又、継続的に参謀も派遣され、当時ドイツからの軍事顧問として国民党で働いていたファルケンハウゼンの計画にそって、国民党軍は上海租界を攻撃し、日本軍を要塞線にひきつけようとした。

この作戦は、上海に駐留する日本軍を攻撃により挑発して要塞線で出血を強いる事で、日本国内の対中干渉世論を転換させる事が目的であった。第一次世界大戦で得られた軍事的経験に従えばこれはあまり冒険的でない作戦計画であり、だからこそ蒋介石も採用したと思われる。

■大山事件

事件の発端は1937年8月9日に起こった、海軍上海特別陸戦隊中隊長の大山勇夫海軍中尉(海軍兵学校第60期卒業、死後海軍大尉に特進)が関係した銃撃事件である。この日も日本と中華民国の間で盧溝橋事件以来続いていた、日華間の緊張を改善させるための閣僚級会談が開かれていた。

8月9日、大山中尉は斎藤要蔵一等水兵を運転手として(彼は大山のお抱え運転手であったが)上海の虹橋飛行場に向かった。午後6時半ごろ、共同租界のエクステンション(国際的な自由通行路)であったモニュメントロード(日本側呼称「記念通り」、中国側呼称「碑坊路」)において、中国保安隊(平和維持部隊)の隊員との間で銃撃戦が起こった。

この銃撃戦については、『大公報』1937年8月10日号は次のように報道している。8月9日午後5時半、日本海軍将兵2名が自動車に乗り虹橋飛行場に来て、場内に進入しようとした。飛行場の衛兵はこれを阻止しようとしたところ、日本軍側は発砲し始めた。衛兵は、日本軍とのトラブルを避けるように注意を受けていたので、これに反撃せずに退避していた。ところが、付近の保安隊が銃撃を聞きつけ出動した。これに対し、日本軍側がさらに発砲を行ったことで銃撃戦となり、保安隊員1名と日本人1名がその場で死亡し、日本人1名が重傷の後死亡した。

一方、『東京朝日新聞』1937年8月11日付けによると、中国側から銃撃を受けたこと、大山中尉は武器を所持していなかったこと、中国側に停戦協定違反があったことなどが報じられている。

この銃撃戦によって大山中尉、斎藤水兵および中国保安隊員1名が死亡した。日中共同の公式調査によれば、中国保安隊員は背中から小銃弾2発を打ち込まれて即死した。大山は全身に30発以上の銃弾を打ち込まれた後、頭部・腹部などに刃物・鈍器によると見られる損傷が見られた。また彼の靴、札入れ、時計などの貴重品が奪われたという。

この事件の報告を受け、喩上海市長は岡本上海総領事に、周珏外交部秘書は日本海軍武官本田に問い合わせをした。日本側は当初、日本軍将兵が虹橋飛行場に行くはずがないと主張した。中国側は、日本軍が事件以前から虹橋飛行場付近の偵察などを行い守備兵との衝突がおこっており、書面による抗議、再発防止を求めていたことを指摘するとともに、事態の拡大防止、事件の調査、外交交渉による解決を要請した。日本側もこの要請に同意し、中国側と共同調査を開始した。

■事件後の対応

8月10日、上海のノルウェー総領事アールは、在上海各国領事に対し領事団会議を開催することを求めた。当初、日本総領事岡本は固辞したものの、再三の歓説により出席することになった。この会議で日本代表が事件の詳細を発表し、中国保安隊は国際租界とフランス特権区域に接する地域から一次的に撤退すべきであると提案した。[要出典]英米仏伊代表は賛成し、上海市長も実現する為にできる限りのことをすると約束した。これを受け、海軍の長谷川清中将は国際租界内の海軍司令部に対し、平静を保つように命令した。またこの日には、海軍陸戦隊には上陸命令はだされなかった。

8月11日、上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報した。危機を感じた日本は同日夜、陸戦隊1支隊を予防のために上陸させた。

8月12日未明、中国正規軍本隊が上海まで前進、国際共同租界の日本人区域を包囲した。このため、日本領事は国際委員会を再び召集し、中国軍の撤退を要求した。

■戦闘の開始

8月13日未明、包囲した中国軍は国際租界の日本海軍陸戦隊と交戦を開始した。陸戦隊は戦闘区域が国際区域に拡大しないよう、防衛的戦術に限定したほか、中国軍機が低空を飛行したが陸戦隊は対空砲火を行わなかった。列強各国の調停の申し出を期待したためである。

英米仏の各領事は日中双方に申し入れを行い、上海での敵対行動を回避する為に直接交渉を行うことを勧めた。また、回避案として以下を提案した。この提案原文が東京に届いたのはこの日の深夜であった。

1. 中国軍は国際共同租界とフランス特権区域から撤退する。
2. 日本軍は国際租界から撤退する。
3. 中国軍撤退地域は多国籍軍が治安維持を行う。

会議中であった13日の午後から国民党軍機による空からの攻撃が開始された。これに対し、黄浦江の日本艦隊は中国軍陣地に砲撃を加えた。

長谷川清海軍中将(海軍上海特別陸戦隊及び第三艦隊司令)は、当初戦争回避を考えていたが、7月からの華北での戦火拡大から考えて、中国軍すでに開戦を意図していると察した。そこで主戦論に切り替えて、5個師団の増援を日本政府に要求した。しかし政府は北支の収拾に気をとられ、1個師団の増援にとどまった。

8月14日、上海租界内の帝国海軍上海陸戦隊が国民党軍の攻撃にさらされる。しかし、この攻撃は国民党軍が砲を随伴しなかった(もしくは保有しなかった)ため失敗に終わり、日本軍の反撃を招いた。重火器の欠乏から18日には国民党軍は攻撃を停止する。

さらに国民党軍機が日本艦隊を空襲したが、この爆撃によって周辺のフランス租界や国際共同租界にも爆弾が落ち、民間人に2000人ほどの死傷者が出た事に対し、国民党政府は遺憾の意を表明した。しかし、租界への爆撃、もしくは誤爆はその後も発生した。又、国民党系メディアが爆撃は日本軍機によるものであると報道したこともあった。日本海軍も、この日より九州から中国本土への航空機による空襲(いわゆる渡洋爆撃)を開始し、戦闘の激化と共に飛行機を輸入に頼る国民党軍を駆逐し、上海周辺の制空権を掌握していく。

8月15日、上海派遣軍が編制され、松井石根大将が司令官となる。

8月18日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。

しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙したが、中国軍も列強と戦争を行うつもりは無かったので、租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国はこの事件において中立を表明した。

8月22日、上海派遣軍の帝国陸軍3個師団が、上海北部沿岸に艦船砲撃の支援の下で、上陸に成功。

その後9月上旬には上海陸戦隊本部前面から国民党軍を駆逐。同時期に中国側は、第二次国共合作を成立させ、又、華北の日本軍の南進が開始された。

10月10日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、2日後には各所で突破に成功した。

10月26日に上海近郊の要衝大場(Dachang)が陥落、国民党上海攻囲軍は以後南京への全面壊走に入った。

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2007年8月9日

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