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清沢満之

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詳細 2018年9月7日 19:08更新

ないので 作成しました。

ウィキペディアよりhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%85%E6%B2%A2%E6%BA%80%E4%B9%8B
「清沢満之
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

清沢 満之(きよざわ まんし、旧姓は徳永、幼名は満之助、文久3年6月26日(1863年8月10日) - 明治36年(1903年)6月6日)は、日本の明治期に活躍した哲学者・宗教家。
経歴

建峰時代
尾張藩士、徳永永則の子として、尾張国名古屋(現、名古屋市)に生まれる。英語学校、医学校に入るも、いずれも廃校になり、その方面の道を断念。

1878年2月、得度して真宗大谷派の僧侶となり、東本願寺育英教校に入学、その留学生として東京大学予備門に進み、1887年に東京大学文学部哲学科を首席で卒業。学生時代に、井上円了らと「哲学会」を始め、1887年2月に『哲学会雑誌』を創刊した際には編集に当たる。大学院では、宗教哲学を専攻。哲学館(現、東洋大学)の創設に関わる。 1888年7月には、真宗大谷派の要請で、当時、同派が経営を委嘱されていた京都府尋常中学校の校長を務め、高倉大学寮にも出講する一方、清沢やす子と結婚し、愛知県碧南市の西方寺の住職となる。

骸骨時代
京都府尋常中学校校長を辞任する。この頃からミニマム・ポッシブル(Minimum Possible)と呼ばれる最低限の制欲自戒生活を始める。そんな生活を続ける中、学問の面でも『歎異抄』などをよく読み、その自戒生活の実践の中で得意の哲学的を駆使して『宗教哲学骸骨』『他力門哲学骸骨』を執筆する。1892年8月に刊行された『宗教哲学骸骨』は、1893年9月のシカゴ万国宗教大会で英訳されて評判となった。

石水時代
1894年、肺結核を発病し、1896年に京都府愛宕郡白川村(現在の京都市左京区)に移り済む。白川党の宗門改革運動を始める。今川覚神や稲葉昌丸らと『教界時言』を発刊、東本願寺における近代的な教育制度・組織の確立を期して種々の改革を建議・推進し、しばしば当局者と対立し、宗門からの除名処分を受ける。

臘扇時代
1898年、宗門よりの除名を解かれ、1899年9月に東京本郷森川に私塾浩々洞を開き、多田鼎、佐々木月樵、暁烏敏ら多くの真宗学者、仏教学者を輩出する。1901年、浩々洞にて雑誌『精神界』を創刊。同年、東本願寺が東京巣鴨に開校した真宗大学(後に、高倉大学寮と併合、京都に移されて真宗大谷大学と改称、現、大谷大学)の初代学監(学長)に就任するも、翌年辞任。

浜風時代
1894年に感染した肺結核が悪化し、改革の道半ばにして死去した。

西洋近代哲学の素養の上に立って浄土真宗の信仰を受け止め、近代思想界に紹介した功績、また、そうした素養と信仰とに基づき、内外両面において仏教の近代化を推進した功績は大きい。晩年の著作からは、自身の深い信仰のあり様がうかがわれる。著述は『清沢満之全集』(岩波書店)に収載される。

主要な著書
宗教哲学骸骨
他力門哲学
我が信念(絶筆)

参考文献
『清沢先生信仰坐談』安藤州一著(無我山房, 1910年)
『思想史としての「精神主義」』福島栄寿著(法蔵館, 2003年)(『日本仏教史研究叢書』) ISBN 4831860328

外部リンク
清沢満之京都大学文学部日本哲学史研究室 」

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カテゴリ
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