mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

ホーム > コミュニティ > 地域 > 大友 宗麟

大友 宗麟

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

詳細 2017年4月30日 08:32更新

このコミュは、豊後の国(現在の大分県)を治めたキリシタン大名、大友宗麟のコミュですわーい(嬉しい顔)

キリシタン大名としての宗麟、

外交官としての宗麟、

民衆から見た宗麟、

戦国武将としての宗麟。

など、様々な観点から宗麟を見ていきましょう!!

もちろん、宗麟に限らず大友家に関係する人物もおkです!!


ちなみに、現在、コミュ説明文章工事中です!!


略歴
本姓は藤原氏。当初は禅宗に帰依していたが、後にキリスト教の洗礼を受けた。

父は大友家第20代当主・大友義鑑。母は大内義興の娘といわれているが、周防大内氏の家督を継いだ大内義長とは異母兄弟にあたるともいわれ、異説として公家出身の娘か、家臣の娘が母ではないかとする説がある。一説に生母は阿蘇惟憲の娘。

弟に大内義長、大友塩市丸、大友親貞など(親貞に関しては甥ともいわれる)。子に大友義統(吉統)、大友親家、大友親盛など。

キリシタン大名としても有名だが、一時は九州6ヶ国を平定し、九州最強の大名とまで称されたことがある。しかしキリシタン王国建設間近で島津義久に敗れ、晩年には豊臣秀吉の家臣に甘んじて豊後1国を維持するのがやっとというほどまでに衰退した。


生涯

家督相続
享禄3年(1530年)1月3日、大友家第20代当主・大友義鑑の嫡男として豊後府内に生まれる。

父の義鑑は義鎮の異母弟である塩市丸に家督を譲ろうと画策して義鎮の廃嫡を試み、天文19年(1550年)2月に義鎮を強制的に湯治に行かせているその間に義鎮派を粛清しようと目論んだところ、逆に義鎮派重臣が謀反を起こし、2月10日に塩市丸とその母を殺害し、義鑑も負傷して2月12日に死去するという二階崩れの変が起こる。そのため大友氏の家督を相続し、第21代当主となった。同時に入田親誠ら反義鎮派は粛清された。


勢力拡大
天文20年(1551年)に周防の大内義隆が家臣の陶隆房(陶晴賢)の謀反により自害すると、義鎮は隆房の申し出を受けて弟の大友晴英(大内義長)を大内家の新当主として送り込んだ。これにより北九州における大内家に服属する国人が、同時に大友家にも服属する事になり、周防・長門方面にも影響力を確保した。しかし弘治3年(1557年)に大内義長は毛利元就に攻め込まれて自害し、大内氏が滅亡する。このため、周防方面への影響力は失ったが、北九州における旧大内領は確保することに成功した。特に博多を得た事は、大友家に多大な利益をもたらした。

また、叔父の菊池義武から肥後の守護職を奪い、天文23年(1554年)には菊池氏を滅亡させて肥後に勢力を拡大した。しかし父の不慮の死、さらに義鎮がキリスト教に関心を示してフランシスコ・ザビエルら宣教師に大友領内でのキリスト教信仰を許可したため、これが大友家臣団の宗教対立に結びついて天文22年(1553年)に一萬田鑑相、弘治2年(1556年)には小原鑑元が謀反を起こすなど、義鎮の治世は当初から苦慮したものであった。

大内氏滅亡後、毛利元就が北九州に進出してくると、義鎮は元就との対立を決意し、弘治3年(1557年)に元就と内通した筑前の秋月文種を滅ぼした。永禄2年(1559年)には室町幕府第13代将軍・足利義輝に運動して九州探題に補任された。永禄3年(1560年)、左衛門督に任官する。こうして、大友家の最大版図を築き上げ、全盛期を創出したのである。


敗戦
永禄10年(1567年)、豊前や筑前方面で大友方の国人が毛利元就と内通して蜂起し、これに重臣の高橋鑑種も加わるという事態になったが、義鎮は立花道雪らに命じてこれを平定させた。永禄12年(1569年)、肥前で勢力を拡大する龍造寺隆信を討伐するため、自ら軍勢を率いて肥前に侵攻するが、毛利元就が筑前に侵攻してきたため、慌てて撤退する。そして重臣の吉岡長増の進言を受けて大内氏の残党である大内輝弘を周防に上陸させて毛利氏の後方を脅かさせ、毛利元就を安芸に撤退へと追い込んだ。

元亀元年(1570年)、再度肥前に侵攻するが、今山の戦いで龍造寺隆信に弟の大友親貞を討たれるという大敗を喫し、隆信と不利な条件で和睦せざるを得なくなった。

天正4年(1576年)、家督を長男の大友義統に譲って丹生島城へ隠居する。このときから義統と二元政治を開始した。

天正5年(1577年)、薩摩の島津義久が日向侵攻を開始すると、義鎮も大軍を率いて出陣した。しかし天正6年(1578年)に耳川の戦いで島津軍に大敗し、多くの重臣を失った。また、家督を譲った大友義統とも、二元政治の確執から対立が深まり、以後の大友氏は衰退の一途をたどる。なお、耳川の戦い直前の7月、宗麟は正式にキリシタンとして洗礼を受けた。


衰退から最期へ
耳川の戦い後、大友領内の各地で国人の反乱が相次ぎ、さらに島津義久や龍造寺隆信、秋月種実らの侵攻もあって大友氏の領土は次々と侵食されていく。天正12年(1584年)に沖田畷の戦いで龍造寺隆信が島津軍に敗死すると、立花道雪に命じて筑後国侵攻を行い、筑後国の大半を奪回したものの、天正13年(1585年)に道雪が病死してしまい、これを好機と見た島津義久の北上が始まることとなる。

このため、天正14年(1586年)、宗麟は中央で統一政策を進める豊臣秀吉に大坂城で謁見して支援を要請する。しかし島津義久はその後も大友領へ侵攻し、天正14年(1586年)12月には島津家久軍が戸次川の戦いで大友方を破って本拠地である豊後国府内を占領してしまった。このとき、丹生島城に籠城していた大友宗麟は大砲・国崩しを使って丹生島城を死守し、戦国大名としての意地を見せた。

天正15年(1587年)、豊臣秀吉は自ら兵を率いて九州征伐に出陣し、各地で島津軍を破っていく。宗麟は戦局が一気に逆転していく中で病気に倒れ、島津義久の降伏直前に豊後国津久見で病死した。享年58。

九州征伐後、秀吉の命令で大友義統には豊後一国を安堵された。秀吉は大友宗麟に日向の地を与えようとしていたが、統治意欲を失っていた宗麟はこれを辞退した、もしくは直前に死去したとされている。

墓所:大分県津久見市津久見。また、京都市北区の龍寶山大徳寺の塔頭寺院である瑞峯院。さらに津久見市上宮本町の響流山長泉寺に位牌。肖像画は瑞峯院所蔵。


人物・逸話
キリシタン大名としても知られる義鎮だが、若き日の天文20年(1551年)に豊後へ布教のためにやってきたイエズス会宣教師・フランシスコ・ザビエルの知己を得たことがキリスト教との出会いであった。27年後の天正6年(1578年)7月にキリスト教の洗礼を受け、ポルトガル国王に親書を持たせた家臣を派遣している。領内での布教活動を保護し、南蛮貿易を行う。また、博多商人の島井宗室と交友し、日明貿易や日朝貿易も行う。その他、文化的活動も幅広く行う。当初は貿易目的のためにキリシタンを保護していたが次第に宗麟自身もキリスト教の教義に惹かれるようになり、遂には入信し、ムシカ(理想郷。現在の宮崎県延岡市無鹿町の付近)の建国を夢見て、耳川の合戦を引き起こすことになる。
他人の気持ちを考えない横暴な性格と伝えられており、家臣の妻(一萬田親実の妻)を略奪したり、キリスト教をめぐり妻と離婚したり、酒色に耽るなど横暴な君主としての記録も残っており、それが家臣や一族の反乱を引き起こした要因となっている。政務を拒否し遊び惚けた宗麟を立花道雪が戒めたという逸話も残っている。しかし大友氏は結果として、立花道雪ら優秀な家臣団を持った事と、大内氏滅亡により北九州の大内領を継承するという幸運によって大成したのである。
天正10年(1582年)に九州のキリシタン大名らがローマへ派遣した天正遣欧少年使節では、伊東マンショを名代として派遣している。
「欲の無い武将」と称されるが、これは晩年の宗麟が求めていたものが領土よりも自身の生命のゆとりや安らぎであった事からである(前述に記載されているとおり前半生の宗麟は領土拡大に積極的だった)。
宗麟は今山・耳川の戦いで敗北していることから戦略家としては二流と見られている。しかし政略においては、毛利元就ですら手玉に取るほどの手腕を見せている。すでに有名無実となっていた室町幕府の権威を利用し、莫大な献上金を差し出すことで守護職・九州探題職を得て九州支配の正当化を確立している。さらに天正9年(1581年)には当時の天下人・織田信長と誼を通じ、それを後ろ盾にして一時的に島津義久と和睦するなど、外交手腕は特に秀でていた。
キリシタンになったのは、南蛮の優れた文化を取り入れるためともいわれる。しかしキリシタンになったことが、大友家臣団の宗教対立にも結びつき、これは宗麟の晩年に国人の蜂起という形で表れることとなったのは皮肉である。また、宗麟はかなりキリスト教を厚く信仰していたため、神社仏閣を徹底的に破壊するという行為も行なっている。
かなりの好色家であったようで、わざわざ京都に赴いて美女を探し、目星をつけると見境無く略奪婚のようなことを繰り返したとされる。最初の正室・一色夫人とは家督相続時に離婚しているが、その理由は不明。継室の大友イザベルとはキリスト教の信仰対立で離婚している。
耳川の戦いは、宗麟主導のもとでキリスト教王国建設を夢見て行なった無謀な戦争とされることが多い。しかし天正5年(1577年)から天正6年(1578年)にかけて宗麟は領国経営の文書を発行していない。さらに敗北後の事態収拾に当主だった義統ではなく、隠居していた宗麟が家臣団の要請を受けて出馬していることから、耳川の戦いは宗麟ではなく、義統主導によるものだったのではないかとされている。
日本で初めて大砲(当時は国崩し)を使ったのは、宗麟であったとされる。

            【以上Wikipediaより抜粋】

以下工事中

関係人物
【大友宗麟(義鎮)】〔オオトモ ソウリン(ヨシシゲ)〕
(1530〜1587)
・大友家二十一代当主。洗礼名はドン・フランシスコ。
 キリシタン大名として知られる。

【大友義統】〔オオトモ ヨシムネ〕(1558〜1610)
・父は大友宗麟、洗礼名はコンスタンチノ。


 

コミュニティにつぶやきを投稿

loading

参加メンバー 143人

もっと見る

開設日
2007年8月4日

3586日間運営

カテゴリ
地域
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!