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日本最古の官道「竹内街道」

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詳細 2016年5月14日 23:00更新

『もし文化庁にその気があって

道路をも文化財指定の対象にするなら

長尾〜竹内間のほんの数丁の間は

日本で唯一の国宝に指定さるべき道であろう。』

  司馬遼太郎著 「街道を行く 竹内街道」より抜粋



堺と大和をつなぎ、遣隋使、遣唐使が行き来したシルクロードにして、日本最古の官道「竹内街道」についてのコミュがないので作ってみました。



○竹内街道フォトギャラリー
http://www.tsubakimoto-dental.com/takenouchi/topflame.html



○竹内街道
出典:フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E5%86%85%E8%A1%97%E9%81%93

竹内街道(たけのうちかいどう)は、大阪府堺市から東へ向かい、二上山の南麓・竹内峠を越えて、奈良県葛城市の長尾神社付近に至る約26kmの街道である。

羽曳野市の白鳥交差点から葛城市の竹内集落付近までの区間は、そのほとんどの区域が国道166号に指定されている。



【成り立ち・歴史】

竹内街道は日本書紀の推古天皇二十一年(613年)の条に「難波より京(飛鳥)に至る大道(おおじ)を置く」と記されていた、日本最古の「官道」。 現在の竹内街道は、大部分は推古天皇時代の官道と重なっている。東側は奈良盆地南部を東西に横切る官道横大路につながっている。 かつては丹比道(たじひみち)と言われた。

官道として整備されたのは上記の通り7世紀初め頃であるが、二上山の西麓(現在の大阪府太子町)には4世紀から5世紀にかけての陵墓・古墳などの遺跡が数多く残っているため、すでにかなりの人々の往来があったと思われる。

飛鳥時代には、遣隋使の使節や留学僧が往来し、大陸から中国や朝鮮の文化をもたらし、飛鳥文化のいしづえとなった。

中世には伊勢街道の一部として存続し、現在では国道166号が通っている。したがって竹内街道は飛鳥時代より現在に至るまで街道として利用されていることになる。

江戸時代、沿道の竹内集落に松尾芭蕉が一時期住んでいた。現在、そこに芭蕉歌碑の綿弓塚があり、公園として整備されている。



【経由地(沿線施設等)】

○堺市
市役所付近 − 榎元町(西高野街道と分岐) − 大阪市交通局中百舌鳥検車場 − 金岡町(金岡神社) − 大阪府道2号大阪中央環状線と斜めに交差 − 大泉緑地南沿い − 西除川(西除橋) −

○松原市
岡町(丹南北交差点=国道309号交点) − 立部(立部西・立部東交差点=大阪中央環状線交点) −

○羽曳野市
野(野公民館前) − 東除川(伊勢橋) − 豊川病院前 − ボケ山古墳(仁賢天皇陵)付近 − 軽里1丁目交点 − 白鳥交差点(国道170号交点)− 古市駅前 − (国道166号)− 上ノ太子駅前 −

○南河内郡太子町
六枚橋交差点(太子町役場付近) − (旧街道) − 竹内街道歴史資料館 − 風鼻橋東詰交差点(道の駅近つ飛鳥の里太子付近) − 竹内峠

○葛城市
高峰神社付近 − (旧街道・竹内集落内) − 芭蕉旧跡綿弓塚 − 竹内交差点南 − 長尾街道交点 − 長尾神社 − 長尾交差点(以東は横大路)



○道マガ大阪第9号【特集】竹内街道
http://www.osaka.kkr.mlit.go.jp/mitimaga/09/theme/

堺市の大小路から松原市南部、羽曳野市を経て、太子町、竹内峠を越えて奈良県當麻町の長尾神社へ。この全長約30キロメートルにおよぶ街道が、竹内街道です。

 推古天皇21年「難波より京に至る大道を置く」と、『日本書紀』記録された日本最古の国道「大道」。竹内街道はこの「大道」とほぼ同じルートを通 っています。飛鳥時代には、中国や朝鮮半島の優れた大陸文化がこの道を通じて伝来。日本で最初の本格的文化である飛鳥文化の発展に、大きく貢献した街道でした。また、竹内街道は大陸からの渡来人を迎えるだけでなく、大陸へ赴く遣隋使や遣唐使が利用したことも、この街道の特徴です。

 このように外交路として繁栄した街道も、710年に奈良の平城京へと都が遷されると、次第にその役割を消失。その後は、聖徳太子信仰が強まることで、太子信仰の道としての性質が色濃くなります。中世末には、自治都市・堺と大和をつなぐ経済の道としての役目も果 たしました。

 西国巡りや伊勢詣、山上詣りなどが盛んに行われた江戸時代。竹内街道は、その往来においても宗教の道として利用されました。庶民の寺社詣も一般 的になり、街道沿いには旅籠や茶店が軒を連ね、道標も多く見られたこのときが、竹内街道が最も賑わいだ時代かも知れません。

 明治時代に大阪南部が堺県となり、やがて堺県が奈良県と併合すると、この街道の重要性はさらに高まります。竹内峠では大改修が行われ、『竹内街道』という名称もこの頃に定着したようです。

 戦後は、自動車の普及率が高まるともに、交通手段の進歩もあって、奈良と大阪を結ぶ重要な道となりました。昭和50年には、竹内街道の東部が国道166号となり、沿道や新道の整備が進められました。そして、2004年にはこの道筋に新しく『南阪奈道路』が完成。平成の竹内街道として、万葉への道が現代へ甦りました。



【竹内街道にまつわる人物】
日本最古の国道「大道」とほぼ同じルートを通る竹内街道は、多くの歴史的人物と深い関係をもっています。中でも、聖徳太子と松尾芭蕉。この二人の人物における、竹内街道でのエピソードは数多く残されています。


【聖徳太子】
前述したように、わが国最古の国道「大道」がつくられたのが、推古天皇が即位 してから21年のことです。この当時の摂政が聖徳太子でした。大陸の文化や先進技術に熱心であった太子は、この大道づくりにも深く携わったと考えられます。その名残から、太子と関係のあった人物にまつわるものが、多く見られる竹内街道沿いの町々。太子ゆかりの地として、その名が付いた太子町には、当時の推古天皇の御陵や聖徳太子廟、小野妹子や蘇我馬子の名前を伝えるものがあり、30基あまりの古墳墓が集まる場所は、磯長谷古墳群、王陵の谷などとも呼ばれていました。


【松尾芭蕉】
松尾芭蕉の最初の大旅行である『野ざらし紀行』は、現當麻町の竹内出身の門人・千里を伴った、九ヶ月にわたる長き旅でした。『野ざらし紀行』には、「葛下郡竹の内という所に至る。此所は例の千里が旧里なれば、日ごろとどまりて足を休む」と書かれ、芭蕉が数日間この地に滞在したことを記しています。また、この旅は芭蕉の名句「綿弓や 琵琶に慰む 竹の奥」を生んだ旅でもありました。

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