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ヴァンデ戦争

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詳細 2015年1月11日 23:11更新

ヴァンデ戦争

Revolt in the Vendée

http://en.wikipedia.org/wiki/Revolt_in_the_Vend%C3%A9e

 フランス革命の間、1793年から1796年の間にヴァンデで発生した蜂起、新制共和政に対する最大の国内の反革命活動であった。それは「蜂起」、「暴動」、「反乱」、「ヴァンデの反乱」、「ヴァンデ戦争」などと様々な呼び名で知られる。

・背景
 階級対立はヴァンデにおいては首都パリや他のフランスの地方よりも少なく、田舎のヴァンデにおいては、地方貴族は当地に居住する者が比較的多く、彼らはフランスの他の地域におけるよりも激しく憎まれていたわけではなかった。革命を駆り立てた闘争は、この著しく孤立した地域においては、住民のローマ・カトリックへの堅い帰依によって、少なくなっていた。1791年と1792年に、反共和政の暴動が勃発した。百姓達が、彼らの状況が悪化していて、アンシャン・レジームの崩壊以来改善されていないと感じていたためである。社会不安が、聖職者法(1790)と徴兵令(1793)による外的な圧力と相俟って後、この地域は爆発した。
 市民憲法は、全ての聖職者が市民憲法と、更にますます反聖職者的となりつつある国民議会への忠誠を誓うことを要求した。ヴァンデの聖職者はほとんど全員が宣誓を拒否し、革命当局によって任命され認可された、「宣誓者」と呼ばれる聖職者によって取って代わられた。「宣誓者」は侵入者としてほとんど例外なく嫌われ非難された。非宣誓聖職者達は、新しい市民祭典は誤謬であり無価値であると宣言した。その報復として、共和政府の一団が都市から地方へやって来て、非宣誓聖職者の教会を閉鎖し破壊した。

・反乱の勃発
 1793年3月7日、人々は、彼らが共和国の不正と感じたものに対して反乱を起こした。徴兵が8月に採用されて以来、徴兵反対の他の暴動がフランス中で発生していた。ヴァンデでは統制するに足る軍隊が存在していなかったが、ブルターニュのより深刻と思われた反乱は直ちに粉砕された。
 勃発に続いて、3月10日から13日にかけて、多くの町や村で自発的で統制の取れていない反乱が発生した。共和政の代理人たち、即ち市長、判事、国民衛兵、教育者、聖職者、その他の人々は攻撃と殺害に晒された。最も血なまぐさい暴動において、3月11日にMachecoulでは40人が街頭で撲殺されたり刺殺されたりした。続いて他の400余人が集められて逮捕された。この人々は「ロザリオ」(胸を縄で縛られて一列につながれた状態)で引き立てられ、溝を掘らされ射殺された。彼らの体は自分らの彫った墓穴に転げ落ちていった。
 群集も加わって、次第に大きい町へ移動していき、鹵獲した武器で武装し、狩猟管理人と車大工によって率いられた。北部ではCholetとChemille、南部ではFontenay-le-comteが、すぐさま反乱軍の手に落ちた。彼らの数は共和国の取るに足りない守備隊を圧倒していた。地方貴族も要請を受け、彼らの多くが断る中で、幾人か(d'Elbee, Sapinaud de la Verrie, Charette)が地方軍の指導者となり、それぞれの地域の小規模な勤王軍を創設した。聖職者もかなり控え目だったが、一部の重要な人々は人々を編成するのに重要な役割を果たした。
 数週間のうちに反乱軍は、装備は不満足であるにしろ強大な軍隊、「王党カトリック軍」を形成した。軍は非正規の騎兵隊といくらかの鹵獲された大砲によって援護されていた。反乱軍の主力は、反乱者のずば抜けた地理感覚と、人々の善意によって強化された、ゲリラ戦術によるより小規模な作戦を展開した。

・共和国の対応
 共和国は直ちに、3月末までには4万5000の軍勢を派遣するという対応を取った。政府にとって不幸なことに、20人のうち1人の兵士も満足に訓練を受けておらず、大部分は未経験な若い新兵だった。かろうじて訓練され、粗悪な装備と食料の配給しか受けておらず、臆病で、どうしようもなく士気が低かった。更に、この軍は50人から100人で構成される「penny packets」という小部隊に分けられ、この地域中に散らされた。「侵略する」兵士達の蛮行を許容することによって多くの人々を怒らせ、統制は都市部に限られており、多くの弱い守備兵達を標的に晒した。
 最初の会戦は3月19日の夜に起こった。de Marce将軍によって率いられた共和国の2000名の部隊はラロシェルからナントへ向かったが、Chantonnayの北、Lay付近のPont-Charrault(La Gueriniere)で阻止された。6時間の戦闘の後、反乱軍の援軍が到着し、共和国軍を徹底的に打ち破った。反乱軍はだいぶ南方のNiortまで進んだ。北部では、3月22日に、Chalonnes近郊で他の共和国軍が大敗し、ヴァンデ人に利益となる装備品を残していった。
 ヴァンデ軍はロワールとLayの間の地域、即ちヴァンデ(Marais, Bocage Vendeen, Collines Vendeenes)とLayon西方のメーヌ・エ・ロワールの一部、そしてThouet西方のDeux Sevresの一部を制圧した。賃金を保障することによってヴァンデ軍の欠乏は次第に明白になっていった。統一された戦略(或いは軍隊)を欠き、防戦を続けるうちに、ヴァンデ軍は結束を失い、4月からの大きな戦果によるアドヴァンテージを失った。成功は数回続いた。Thouarsは5月初頭に陥落し、Saumurは6月に陥落した。それはChatillonとVihiersの勝利であった。しかしヴァンデの人々はナントの長引く犠牲の多い包囲戦に移った。

・戦場での敗北
 8月1日、公安委員会はジャン・バプティスト・カリエ将軍に、容赦なき鎮圧を命じた。共和国軍はlevee en masseの選りすぐりと、マインツからの援軍によって補強された。ヴァンデ軍は10月7日にCholetで手痛い最初の敗北を喫した。更に反乱軍にとって悪いことに、彼らの軍隊は分断された。1793年10月、アンリ・ド・ラ・ロシュジャックランによって指揮された25000名の主力軍(あらゆる世代に渡る数千の市民も従っていた)はロワール川を渡り、グランヴィル港へ向かった。彼らはそこで、英国軍艦と亡命したフランス貴族の軍団に出迎えられると予想していた。グランヴィルに到着すると、彼らは町が共和国軍によって包囲されていることに気づき、しかも英国の船は見えなかった。都市を獲得しようとする試みは失敗した。退却中に、長く伸びた部隊は共和国軍の餌食となり、飢えと病気によって彼らの数千人が失われ、軍隊は12月23日のSavenayの決戦で最終的に崩壊した。

・その後
 パリの政府は、反乱中の彼らの敗北に、不適切な行為、裏切りと陰謀があったと判断し、過酷な法案を打ち出した。恐怖政治はフランスのどこでも見られたが、ヴァンデではそれは異常なまでに残虐だった。フリメール14日の法の後、12月だけで6000人の囚人が処刑された。彼らは「国民の浴槽」と呼ばれる船にまとめて縛られてロワール川に沈まされた。その中には400人の子供が含まれていたが、カリエは彼らを特に憎み、彼らを「将来の山賊」と見なしていた。
 1794年2月から共和国軍は最終的な「鎮圧」(「ヴァンデの復讐」)を開始した。Turreau指揮下の「地獄部隊」という12の部隊はヴァンデ中を回り、反乱軍の残党だけでなく彼らを支援した人々や、無実の人々も無差別に標的にした。この大量殺戮の他に、強制移住と「焦土化」の公式な命令があった。農場は破壊され、穀物と森は焼かれ、村落は叩き壊された。数多くの暴虐行為が報告されている。後にジェノサイドと比較されることの多いこの作戦は、公安委員会によって以下のように命令されていた。
 「委員会はこのヴァンデ人という反抗的人種を絶滅させる方策を用意している。彼らの住居を消し去り、彼らの森を焼き払い、彼らの穀物を取り去る。」
 Turreauへの命令は以下のようであった。
 「農場を焼き払う代わりに、山賊どもを最後の一人まで絶滅せよ。逃亡者、臆病者を罰し、おぞましいヴァンデを粉砕せよ。この山賊の人種の全員を絶滅するに足る最も確かな方法を取れ。」
 1796年3月までこの作戦は長引いたが、80万人の人口のうち、予測される死者の数は4万人から25万人とされている。

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