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及川古志郎

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詳細 2017年2月12日 12:01更新

旧制岩手県立盛岡中等学校(現・岩手県立盛岡第一高等学校)出身。中学の同窓には作家の野村胡堂、言語学者の金田一京助がおり、3学年下に石川啄木がいて、彼らと面識があった。

日露戦争に千代田乗組で参加する。その後、大正4年(1915年)から大正11年(1922年)にかけて東宮武官を務める。

大正12年(1923年)に海軍大佐に昇任後は、軽巡洋艦鬼怒・多摩の各艦長及び軍令部作戦課長に就任した。

昭和3年(1928年)、海軍少将。以後、呉鎮守府参謀長・軍令部第一班長・第一航空戦隊司令官・海軍兵学校校長を歴任。

昭和8年(1933年)、海軍中将。昭和10年(1935年)、海軍航空本部長に就任。

昭和13年(1938年)4月25日、日中戦争の勃発に伴い第三艦隊が編成されると、及川は支那方面艦隊司令長官と兼任で就任、この時に井上成美が支那方面艦隊参謀長として及川の下で勤務している。

昭和14年(1939年)海軍大将に昇進、翌年横須賀鎮守府司令長官になる。

及川が横須賀鎮守府長官になった時には、中央では日独伊三国同盟が問題となっており、当時の吉田善吾海相はこれに対し反対の姿勢を貫いていた。しかし過度のストレスなどにより吉田は病に倒れ海相を辞任、及川が後任の海相に就任した。この就任には海相の後任ポストの第一位が横須賀鎮守府司令長官という伝統を、吉田が行っただけといわれている。

第3次近衛内閣まで及川は海相を務めるが、及川が海相に就任するとすぐに海軍は同盟に同意することになる。この背景としては、反対を押し切ってまで自らの信念を貫く性格ではなかった及川ら海軍首脳部が、陸軍との争いを回避したい意向を持っていたからといわれている。

なお、及川が海相を務めていたこの時期に仏印進駐・日ソ中立条約締結や帝国国策遂行要領の決定など、後の日本の進路を決めることになる重要な国策が数多く決定されている。

昭和16年(1941年)10月18日の海相辞任後は軍事参議官、海上護衛総司令部長官、軍令部総長などを歴任した。昭和20年(1945年)9月5日、予備役。

ちなみに及川は熱心な読書家であり、漢籍については日常的に白文で読みこなすほど学者顔負けであった。蔵書も数多く保有しており、自宅の土蔵の一つは完全に書庫となっている。古書の老舗丸善には及川担当者が置かれるほどの上得意であった。

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