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長谷川清

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詳細 2011年10月19日 17:25更新

旧制福井県立福井中学校より海軍兵学校第31期入校。入校時成績順位は196名中第7位、卒業時成績順位は173名中第6位。

海軍を志したのは福井中学校在学中で、日清戦争開戦の第一報を耳にした長谷川は、中学を退学して海軍兵学校を目指し、戦争遂行の一翼を担わんと思い立ったというが、最終的に周囲の猛反対と説得に折れて中退は踏みとどまった。

福井中学以来の同級生に津田静枝海軍中将と東林岩次郎海軍少将がいる。両者とも長谷川が中国方面で活躍する前に既に第一線から引退していたが、津田は海軍士官としては珍しく中国在勤が長く、少将時代以降は第2遣外艦隊や駐満海軍部など駐留部隊の司令官を歴任した。東林は砲術学校教頭や横須賀海兵団長など陸戦指導の第一人者であり、中国に於ける長谷川の活躍は津田や東林の業績なくしては成立し得なかった。

長谷川が海軍兵学校を卒業したのは日露戦争勃発間近だった為に、練習艦隊による近遠洋航海実習を経験していない。また日露戦争後に改めて実施された近遠洋航海にも参加していない。

日露戦争開戦時は戦艦「八島」に乗艦したが、旅順沖接雷事故で沈没した後は戦艦「三笠」乗組となる。日本海海戦に於けるロシア艦隊接触直後の情景を描いた東城鉦太郎画伯による『三笠艦橋の図』で、東郷平八郎海軍大将の背後に描かれた測距儀の上から軍帽だけ見えているのが長谷川である。
対英米協調派の長谷川は、同郷出身の先輩で艦隊派首領の加藤寛治とは思想的にも全くソリが合わず、長谷川は岡田啓介に重用される。

第一次世界大戦中は中南部太平洋に於いてドイツの軽巡洋艦「エムデン」追撃作戦に従事した。

大正6年から15年まで途中1年間帰国した以外は、アメリカでの出張在勤が続く。この間アメリカの対日感情は漸次悪化しつつあり、黄禍論も高まりを見せた。海軍武官府では盗聴を危惧する声も存在したが、長谷川は海軍駐在武官府庁舎内での日本語使用を一切禁じ、英語のみで会話するよう海軍スタッフに命じ、自ら何ら後ろ暗さが無い事を表明した。因みに、長谷川の後任として海軍駐米武官となったのが山本五十六であり、任務引継ぎを機に山本と親交を深める事になり、対米重視の立場を鮮明化させた。

帰国後は艦長・戦隊司令官を歴任するが、この頃に連合艦隊司令長官だったのが同郷の先輩である加藤寛治である。長谷川と加藤では思想が大きく異なっていたが、それなりの礼節を保った。このように長谷川は思想信条を問わずあらゆる人々を許容したが、特に海軍兵学校と海軍大学校甲種課程が同期の寺島健中将とは「どっちが先に死んでも残った方が葬儀委員長をして送り出してやる」と誓うほど深い友情を交わしていた。長谷川は昭和45年、寺島は昭和47年死去であり、寺島は盟約を守り葬儀委員長を務める。

大陸駐留の第3艦隊司令長官に就任した際には、真っ先に中国陸海軍の首脳陣と会談している。中国将官の多くが長谷川の礼節ある態度に感服し、日華事変で対戦した提督であるにもかかわらず、長谷川を責める者は少なかった。日華事変勃発初期にアメリカ砲艦「パナイ」、及び、イギリス砲艦「レディバード」を相次いで誤沈する事件が発生した。これは東京裁判でも戦犯の訴追原因となった重大事件であるが、長谷川は事態を知るや早速米英両国の駐支機関に遺憾の意と謝罪を伝えている。支那方面艦隊司令長官として日華事変の戦争責任を問う為に、GHQは長谷川を逮捕したが、この時の対応に感服した連合国側は長谷川を無罪と判断して釈放した。しかし長谷川が戦争回避に徹した訳ではない。盧溝橋事件が勃発すると、即時に支那派遣軍首脳と会談し、勃発から僅か2日間で陸海軍の航空隊運用の役割分担を決定し、実行に移している。台湾海峡横断の渡洋爆撃は世界初の試みであるが、長谷川の即断がなければ実施が遅れていたことは必至である。

昭和15年に台湾総督に赴任した際、慣例では予備役に編入される予定だったが、南進策に取り組もうとしている海軍としては現役大将が望ましいと考え、長谷川は現役で総督となった。この時に現役総督を主張したのが指導力のなさで定評ある及川古志郎海軍大臣だったという。及川が長谷川の現役に固執したのは、南進策の重要性もさることながら、海軍兵学校同期の長谷川を現役に留めたい意向を有していたとの推測がある。台湾総督となった長谷川は、着任式後の歓迎レセプションで上機嫌になり、給仕の少女を抱き上げて膝の上に座らせ、歓迎に対する謝辞を述べた。現代の感覚から見れば明らかなセクハラで、当時でも取材班が唖然とするほど開けっぴろげな暴挙であった。長谷川は仲間内での宴会でも「愛人でも作って小洒落た小料理屋でもやらせて飲んだくれて暮らせたら最高だ」と本心を吐露し周囲を唖然とさせた事もある。もっとも、横須賀の花柳界では人気があったが家庭生活は円満であり、特に娘がいたこともあってある程度の節度を持って清遊していたという。

台湾では皇民運動強化をはじめ初等普通教育義務化や台北帝國大学予科設置など、教育普及に熱心に取り組み効果を上げた。

鈴木貫太郎内閣組閣の際に、井上成美海軍次官とともに長谷川も大臣有力候補の一人に擬せられたが、井上や高木惣吉などが米内光政の続投を工作し、長谷川自身も「どうして米内さんじゃいけないんだ」と米内続投を支持したために大臣就任はなかった。海軍省廃官最終日まで現役だった。

戦後はA級戦犯容疑で約2ヶ月間、巣鴨刑務所に収監された。

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2007年7月2日

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