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八代六郎

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詳細 2012年4月2日 01:27更新

丹羽郡楽田村(犬山市)の地主、松山庄七の三男。明治元年(1868年)、水戸藩浪士八代逸平の養子となる。愛知英語学校を経て海軍兵学校に入学。「万が一にも兵学校に入学できなければ侠客になる」と豪語し、公約を果たす。

明治14年(1881年)、兵学校8期を35名中19位で卒業。ちなみにトップは航海術と測量術の権威となった今泉利義少将。8期で大将まで昇進したのは八代のみで、中将が3名・少将が7名いる。少尉時代は兵学校練習所で分隊士として教育助手を務めた。中尉の階級が存在しなかったため、明治20年(1887年)に大尉へ昇進。9年間にわたり海軍参謀部に属した。

この期間にウラジオストクに2年間出張している。この実績を買われ、明治28年(1895年)から31年までの3年間、ロシア公使館附武官を勤め、対ロシアの諜報活動に勤めた。この任期中に中佐へ昇進している。

日露戦争勃発までの5年間、八島副長、常備艦隊参謀、宮古艦長、和泉艦長と最前線のトップを歴任。海軍大学校選科学生を経て、日露戦争には浅間艦長として参戦する。

浅間艦長時代には、豪快かつユニークな言動で有名になる。

仁川沖海戦前夜、趣味の尺八を吹いている様子を新聞記者に見られ、「風流提督」と新聞記事で紹介されるや、憤然と「軍人にふさわしくない」として尺八をやめてしまった。
旅順への奇襲攻撃に失敗した水雷隊を詰問する連合艦隊司令部に居合わせた八代は、「水雷とはコソ泥のようなもので、サッと攻めてサッと退くものです」と弁明する石田一郎司令の言葉尻を捕らえ、「亭主を叩き起こして朝飯を食わせてもらうくらいじゃなきゃ割りに合わんだろう」と発言。東郷平八郎長官以下、座の空気は一気に和らぎ、石田司令の更迭は回避された。
日本海海戦の戦闘中、被弾した浅間は後部に浸水し、あわや航行不能に陥った。乗員の奮闘の結果、戦闘を継続できた。乗り合わせた森山慶三郎第2艦隊参謀が「危ういところでした」と呟くや、平然と「俺は前しか見てなかったから気づかなかったなぁ」。
口だけではなく行動も義理堅く、旅順港閉塞作戦の戦死者の遺児を成人するまで支援している。

戦後はドイツ公使館・大使館附武官を2年勤める。ロシアに続き仮想敵国の諜報活動に最適とみなされていた節がある。明治40年(1907年)に少将へ昇進。翌年に帰国して横須賀予備艦隊、第1艦隊、練習艦隊、第2艦隊の司令官を歴任する。

明治44年(1911年)に中将へ昇進し、海軍大学校長に就任。この任期中の後半に、秋山真之軍令部第1班長が兼任教官として着任する。大正2年(1913年)には楽隠居コースと言われた舞鶴鎮守府司令長官に就任し、八代の海軍生活が終わるものと思われた。

しかしシーメンス事件が発覚して山本権兵衛内閣が倒れ、斎藤実海軍大臣が辞職し、海軍は大混乱に陥った。斎藤は後任に八代を指名した。世間の非難にさらされた海軍の復権は八代にゆだねられることとなった。

八代は就任前から、従来の海軍組織を無視し、海軍を政府のコントロール下に置いて信頼回復に努める腹案を持っていたようである。指名を受けるや、海大の部下であった秋山を海軍次官に推薦する。これは海軍省残留が決定していた鈴木貫太郎人事局長が先任であるため拒絶されたが、鈴木を次官に昇格させるとともに、秋山を軍務局長に任命し、腹心としてそばに置くことに成功する。舞鶴から上京すると、慣例であった前任者への面会を後回しにし、首班指名された大隈重信へ真っ先に挨拶した。

大正3年(1914年)4月16日、第2次大隈内閣発足とともに、破天荒な八代の海軍省改革が始まった。山本権兵衛大将と斎藤実大将を予備役編入する際は、井上良馨元帥や東郷元帥ら長老の忠告にも耳を貸さなかった。現役に残留する財部彪中将の影響力をそぐために、財部より先輩ながら出世が遅れた黒井悌次郎・野間口兼雄・栃内曽次郎の3少将を財部と同じ中将に昇格させ、要職を埋めさせた。このようにして、山本の息のかかった提督を無力化していった。

また、軍令部の意向を無視し、日英同盟に基づいてドイツへ宣戦布告をすることに賛成した。この時も島村速雄軍令部長へ相談していない。島村や加藤を中心とする山本の後継者も、八代は無視した。これに業を煮やした佐藤鉄太郎が、のちに軍令部の権限強化を公約として軍令部次長に就任するも、半年で更迭される要因となった。

さらに、陸軍が朝鮮総督の職を独占しようとする活動を始めると、対抗して台湾総督を海軍将官に歴任させようと画策した。しかし、長老の片岡七郎に相談したところ「河童の海軍が陸に上がれば必ずや失敗するだろう」と猛反対され、断念にいたっている。

このように、八代の海軍改革は、海軍の独りよがりな権限拡張を抑止し、政府の方針と綿密に連携した、政府のための軍隊をモットーとしていた。この結果、海軍に対する国民の不信感は徐々に解消されていく。海軍の危機を救った人と絶賛する声もある一方、「大黒柱だった山本さんの派閥を排除し、昭和に海軍が割れた原因を作ったのは八代さんである。大正に破綻しなかったのは、加藤さんと島村さんの人徳に過ぎない」と述べた山梨勝之進のような痛烈な批判もある。

翌大正4年(1915年)8月15日、大浦兼武内務大臣の汚職事件が発覚し、今度は大隈内閣の権威が失墜すると、八代は海軍大臣を辞職した。同年12月に第2艦隊司令長官として現場に復帰、大正6年(1917年)に最後の職となる佐世保鎮守府司令長官に就任し、この間に大将へ昇進する。1年の任期を終えて軍事参議官へ降り、大正9年に予備役編入、昭和5年に退役した。

引退後は男爵の爵位によって枢密顧問官を勤めた。退役直後の昭和5年(1930年)6月30日没。享年70。従二位に叙せられた。

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開設日
2007年7月2日

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