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井上良馨

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詳細 2012年4月2日 01:26更新

薩摩藩士井上七郎の長男。幼名は直八で、同郷で6歳年下の井上良智海軍中将とは血縁がない。名前がよく似ている長州出身の井上馨外務大臣とも関係がない。文久3年(1863年)8月に勃発した薩英戦争で初陣を飾る。野津鎮雄(のち陸軍中将)の指揮下で沖小島砲台の警備に就いた。この戦いで薩摩藩はすべての砲台を艦砲射撃で破壊され、9名の死傷者を出した。物的被害に比べて格段に少ない人的被害の中に井上も含まれる。弾丸の破片で左腿貫通の重傷を負った。井上はこの怪我で恐れをなすどころか、イギリス海軍の破壊力と機動力に魅了され、陸軍から海軍に転向することを決意して治癒に励んだ。完治と同時に薩摩藩海軍に入隊し、船乗りとしての基礎訓練を受けた。

慶応4年(1868年)より春日艦の小頭を命じられ、戊辰戦争に参戦した。上官に勝海舟門下生の伊東祐亨がおり、大いに影響された。新政府での井上の経歴は伊東の経歴と非常に似通っており、日清戦争の戦功で伊東が突き放すまで、両者はほぼ同時に昇進している。明治3年(1870年)に軍艦を政府の所有物と定めるまでは、新政府海軍の軍艦は各藩の所有物とされていたため、井上は新制度制定まで春日艦に乗り続けた。したがって春日艦が戦列に加わった慶応4年(1868年)1月の阿波沖海戦、明治2年(1869年)3月の宮古沖海戦、4〜5月の箱館戦争にすべて参加している。

新制度制定に合わせて龍驤乗組に代わり、中尉の階級から新政府海軍軍人の生活が始まった。龍驤で経験を重ね、副長に任命されるとともに少佐まで昇進した。明治5年(1872年)、井上は懐かしい春日に艦長として帰ってきた。春日艦長を2年間勤める。この期間、郷土の名士であった西郷隆盛の征韓論に共鳴したが、新政府海軍の職分を重んじ、西郷に随行することなく春日艦長に留まった。任期中に佐賀の乱・征台の役が連続して起きたが、春日は鎮圧部隊に召集されなかったため、井上も従軍していない。

明治7年(1874年)10月、艦長として2隻目の雲揚に着任した。政府は朝鮮王朝に外圧をかけるべく、翌年5月に雲揚と第二丁卯を派遣した。 征韓論者である井上は嬉々として釜山に乗り込み、示威砲撃訓練や無断測量などの挑発を重ねて朝鮮西岸へ進出した。明治8年(1875年)9月15日、江華島砲台は遂に井上の挑発に屈して反撃し、雲揚が応戦して砲台を陥落させた。いわゆる江華島事件である。砲台を陥落させた井上は早速雲揚を帰国させ、長崎より顛末を川村純義中将に報告した。

井上の硝煙にまみれた生活はまだ続く。同年10月、雲揚から建造中の清輝に乗り代わり、3隻目の艦長となった。清輝艦長時代は中断をはさみ4年弱もの長期に渡る。この間に西南の役が起きた。西郷隆盛に共鳴しつつも新政府海軍の中堅士官である井上は、新政府軍を率いて故郷と戦う決意をした。西南の役は陸軍主導の内戦であり、海軍のできることは海上輸送と沿岸砲撃支援ぐらいであった。井上が指揮する清輝は主に宮崎方面で行動し、激戦に加わることはなかった。都城方面に薩摩軍が進入し、延岡と鹿児島の連絡路が分断された際に、細島から鹿児島へ海路緊急輸送を行ったのが目立つ行動である。

9月24日早朝、西郷が自決して7ヶ月の内乱は終わった。ようやく平穏を取り戻した明治11年(1878年)1月、井上は清輝とともにヨーロッパへ出航した。清輝は初めて日本が製造した軍艦であり、井上は建造中から艦長に任じられ、装備や船体のチェックを担当していた。西南の役が勃発したために実施できず先送りされていた清輝のテスト航海を実施するためである。井上の指揮下、清輝は3ヶ月で日欧間を無事に往復し、国産艦でも充分な航行性能を持つことを実証した。

明治12年(1879年)に辛苦をともにした清輝を降り、東・浅間・扶桑の各艦長を歴任。扶桑艦長就任直前の明治15年(1882年)6月に大佐へ昇進した。明治17年(1884年)2月から10ヶ月間、初めての陸上勤務となる海軍省軍事部次長を務める。この辺りから、ともに艦長職を歴任してきた伊東祐亨と井上の地位に変化が出始める。伊東は艦長からそのまま艦隊司令官へと戦場で華々しく活躍を続け、井上は海軍省でのあらゆる実務を掌握して実行を命じる軍政官に変わった。両者はともに明治25年(1892年)12月に中将へ昇進している。むしろ、明治20年(1887年)に男爵に叙せられた井上の方が新政府の中では高く評価されていた。しかし伊東は連合艦隊司令長官として日清戦争を勝利に導き、井上よりも高い子爵に叙せられた。さらに井上より3年早く大将に昇進している。軍政の中枢である軍務局長・軍令の頂点である参謀本部海軍部長を歴任した井上の功績は決して低くはないが、どうしても伊東の活躍が目立ち、井上の活躍は地味に見えるようになった。6年にわたる少将時代の前半を、伊東は常備小艦隊司令官、井上は軍務局長として過ごし、後半は互いのポストを交換した。

中将時代、井上は佐世保・横須賀両鎮守府司令長官を歴任し、日清戦争の決着がついた明治28年(1895年)2月に西海艦隊司令長官に転じた。実際に一戦交えることなく、秋に常備艦隊司令長官に横滑りし、西海・常備両艦隊を合わせて1年間、最後の海上勤務を謳歌して呉鎮守府司令長官となった。これで井上は横須賀・呉・佐世保の3鎮守府すべての長官を務めたことになる。呉鎮守府長官も4年に及ぶ長期政権であった。

明治33年(1900年)5月、最後の任務として横須賀鎮守府司令長官に就いた。このポストも日露戦争終結の明治38年(1905年)12月まで5年半にも及ぶ長期政権である。井上は二度と外戦に出ることはなかったが、任期中に室蘭鎮守府の設置案が撤回された。代わりに大湊要港部を代わりに設置するための事務処理に携わった。また日露戦争でも津軽海峡の防衛・監視を鎮守府・要港部が担うため、頻発する通商破壊対策や臨検作業に悩まされた。このポストを務めていた明治34年(1901年)12月、井上も大将へ昇り詰めた。

日露戦争とともに井上は現場を去って軍事参議官に降りた。幕末から日露まで足跡を残した井上に、明治40年(1907年)に子爵、明治44年(1911年)に元帥が叙せられた。元帥については、同時に叙せられた歴戦の将軍・奥保鞏陸軍大将の功績と比較され、「奥大将のおまけで元帥になった」あるいは「寺内正毅陸軍大将が井上を推したのは、将来寺内自身が元帥になるために恩を売ったのだ」などの誹謗中傷も受けている。井上自身はこの件について一切弁明していない。当時の中傷を受けて、現在でも井上の業績を過小評価する空気もある。井上の前後に元帥となった伊東祐亨や東郷平八郎の功績と、井上自身の功績が異質なので、一概に何とも言えない。

かと言って、のちの東郷のように、元帥の地位を振りかざして現役を翻弄することもなかった。せいぜい、シーメンス事件収拾のために山本権兵衛以下の幹部を追放した八代六郎海相の厳しい懲罰人事を諌めた程度である。東亜情勢の導火線に着火した血気盛んな船乗りは、晩節を汚すことなく昭和4年(1929年)3月22日に85歳で静かに他界した。死後は従一位・大勲位を与えられ、遺骨は郷里鹿児島に帰った。

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