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虚無の信仰

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詳細 2015年7月13日 20:57更新

『虚無の信仰−西欧はなぜ仏教を怖れたか−』 ロジェ=ポル・ドロワ[著]/島田裕巳・田桐正彦[訳]

この本に感動した人!

 異文化同士の出会いは、すんなりとした直線的なプロセスではない。また、完全に客観的な出来事でもない。したがって、事実や日付や目に見えるデータを集めてみても、ただそれだけでは、その出会いの歴史を書物にまとめあげることはできない。むしろ、それまでお互いに相手の存在を知らずにいた相異なふたつの精神世界が出会って、お互いの世界を発見しはじめる場合、ありとあらゆる誤解やとめどもない空想が積みかさねられるものである。双方とも、相手の世界を発見したつもりでいるが、まずほとんどの場合、じつは夢の世界を重ね合わせて見ているにすぎない。そしてこの空想の産物は、理想的な夢のかたちをとることもあれば、悪夢となってあらわれる場合もある。それに応じて、この空想の世界は天の楽園とも、また地獄ともなりうるのである。「異文化間の対話」と呼ばれるものが遅々として進まず、おうおうにして実り少ないものに終わってしまうのも、こうした事情による。

 言語・宗教・イデオロギー・美の基準の差異といったさまざまの障害を乗りこえて、自分たちの慣れ親しんだ心の地図からその外がわへ抜けだすことはむずかしい。そのために、この異文化間の対話は、そもそも成り立たないという場合も多い。互いに相手の世界に敬意を抱いてはいるが、けっきょくは噛み合うことのないふたつのモノローグが並べられて、それが真の対話にすりかわってしまう。これが一般的な図式である。というのも、たとえ相手の世界の習俗や信仰にまつわる基本的な原典の翻訳や学術研究が豊富に出そろったとしても、まだそれだけでは、真の意味でこの対話が成り立つにはほど遠いからである。ほかにもさまざまの条件がそろわなければならないが、とりわけ、自分自身のまなざしがひきおこす歪曲を自覚する必要がある。見知らぬ世界の現実を眺めるとき、自分自身がどういうメガネをかけているのか、つまり、どういうフィルター、どういう思考の枠組み、どういう先入観を通して眺めているのかを、自覚しなければならないのである。

 その点を自覚すれば、すくなくともある程度までは、この先入観の支配をすり抜けることができる。つまり、他者に対する誤解や過ちの歴史は、自分自身について、こんにちのわたしたち自身の思考の形成過程や、すでに忘れられかけているこの思考の系譜について、なにかを教えてくれるだけではない。昔のすれ違いをたどり返してみれば、こびりついているこの過去の残滓をいくばくかは溶かし去ることもできるだろう。期待をこめて、そう思いたい。たとえば、本書で行なったように、虚無主義に染まった仏教の暗いイメージが十九世紀のヨーロッパの思考の内にひろまっていく過程を復元してみると、こんにちでも依然としてカトリックの上層部が仏教に対して抱いている否定的な見解(教皇ヨハネ=パウロ二世の回勅『真理の輝き』[ウェーリターティス・スプレンドール][歴代教皇は折にふれて回勅と呼ばれる長大な文章を発表するが、これは1993年に、全司教に対してカトリック教会の倫理観を明示したもの]のなかにその例がみられる)の多くが、このいわれなき神話の遺産であることがあきらかとなるにちがいない。

 しかしながら、この日本語版の刊行に際してわたしが強調しておきたいのは、さらに具体的なひとつの点である。ご覧になればお分かりいただけるように、本書は近代ヨーロッパ史の一時期をあつかっている。それは、西洋の学者たちが仏教の教義を学術的なレベルで発見した時期である。本書でとくに考察の対象としたのは、この発見が生みだした空想の産物である。東洋学の専門家の研究成果をもとにして、ドイツ、フランスの哲学者は、架空の、ニヒリズムの仏教なるものをつくりあげた。そこに、「虚無信仰」なるものが出現したのである。

 さて、異文化間の対話を成り立たせようとする歩みのなかで本書の日本語への翻訳が占める、ささやかな、けれども特別な意味をもつ位置について触れておこう。この歩みは、おそらく四つの段階に分けられる。ひとつづつ順に現われるという意味で、それらはおおまかに区別しうる年代上の層をなしているが、しかし厳密には、かならずしもひとつが消え去ってから次が現われるというわけではない。現に、この四つの段階は、いまでも同時に併存しているのである。

 第一の時期は、軽蔑と驚きの時期である。たとえば、ポルトガルのイエズス会士が日本で味わった驚きと、この宣教師たちに出会った日本人の当惑ぶりがその好例である。この最初の表面的な観察では、いつでも判で押したように、誤解だらけの類推や、過小評価、相手を見くだす尊大な態度といったものが幅を利かせる。

 その次にやってくるのが、客観的なデータ(翻訳や厳密な研究)と奇怪な幻想をないまぜにする、真の発見とまぎれもない曲解の同居する時代である。先の例でいえば、やがて「ジャポニスム」の生誕をみる十九世紀末のヨーロッパにおける日本の美の発見や、明治時代の日本における西洋技術との遭遇には、ともに客観的な要素と奔放な空想とが混在している。舞台はヨーロッパのがわに限るが、仏教を主題にすえて、本書が探求しようとしたのも、他者が正確に認識されると同時にまた夢想の対象ともなる、この一時期のはらむ問題にほかならない

 しかし、この書物自体は、こんにちの同種の企てと同じく、あきらかに第三の時代に属している。第三の時代とは、こうした初期の発見の歴史をふりかえる書物がぼつぼつ現われはじめ、空想の産物の生じた道すじをたどる分析の端緒が開かれる時代である。研究の一方面に偏った専門化の結果、わたしの立場では、知識はもっぱらアジアに対する西洋の空想や学術研究にかんする著作に限られるが、おそらく、これと対称的に、東洋がヨーロッパに対して抱いた夢想や知見にかんする研究書が数多く存在することだろう。

 さて、本書の日本語版は、はたしてどこに位置するのだろうか。それは、いよいよ第四の時期に属するというべきかもしれない。第四の時期、それは、双方がめいめい、かつて相手の世界が自分たちを誤解した歴史を学ぶことができるようになる時期である。つまり、仏教に対して西洋世界がどのように誤った認識を抱いたかをあきらかにする研究に興味をもつ日本の読者があらわれるのと同じように、キリスト教、あるいはプラトンやデカルトなどを理解しようとして日本文化がぶつかった困難の歴史の解明に興味を寄せるヨーロッパの読者があらわれても、不思議ではないということである。

 いま触れたことは、こういう読み方もありうるという示唆にすぎない。むろんこのほかにも、さまざまの読み方がありうるだろうし、わたし自身のまったく思いおよばないような読み方もいくらでもありそうである。好きなように読んでいただければそれでよい。テクストの利用法や読み解き方を説くのは著者のなすべきことではなかろう。かつてミシェル・フーコーがそう望んでいたのにならって、わたしとしては、この本が読者諸氏にとって使いでのある「道具箱」たらんことを願うのみである。読者のひとりひとりが、自分に合ったものをこのなかからつかみ出し、それぞれの分野で役立てていただけたらと願う。ことによると、まったく思いがけない使い途があるかもしれない。

 この序文をしめくくるにあたって、わたしは、ぜひとも、故花山信勝教授への賞賛と感謝の念をここに明記しておきたい。教授は、ヨーロッパの仏教発見にかんする文献目録の作成という偉業を遺された。もしも教授がまとめられた厖大な目録の情報を参照することができなかったとしたら、本書はまったく異なる条件からの出発を強いられたはずである。

   二〇〇一年七月一八日
   シチリア、チェファルーにて                   ロジェ=ポル・ドロワ



第一部 信仰の誕生(一七八四年〜一八三一年)

一七八四年。ウィリアム・ジョーンズがカルカッタで、ベンガル王立アジア協会の初会合のまとめ役をつとめる。サンスクリット語とインド文化の研究は立派な学問分野となる。しかしながら、ブッダの名を冠せられた教義は、十一世紀以降インドからは消え去っており、このインド学の曙の時期には依然として知られてはいなかった。

一八三一年。ベルリンでヘーゲル死去。最晩年に彼は、「仏教」という新しいことばで呼ばれることになったこの宗教の特質として、「人間は自らを無としなければならない」と述べる。「仏教」の語は先駆者の仕事を通して、ヨーロッパ諸語に浸透していく。


第一章 ブッダとは何か

十八世紀の書物において、ブッダは多くの場合「原始の世界」に属するものとみなされていた。ブッダは、ほとんど正体不明で、おおむね、虚無というテーマと密接な関係をもたないままであった。

ブッダとは、古代エジプトのトト、古代ギリシアのヘルメス、ヨーロッパ諸国におけるメルクリウス、ゴート系諸部族のウォーデンなどの神々と同様に、バラモンに先立つ立法者である。
『アジア研究』誌(パリ、帝国出版局刊)フランス語版へのラングレス[一七六三〜一八二四。フランスの東洋学者]による注記(一八〇五年、第二巻、五六四〜五六五頁)
  
 十九世紀初頭以前には、厳密に定義されたいかなる体系も、ブッダの名と結びつけられていなかった。旅行記においても、キリスト教の宣教師の書簡においても、いろいろな名称で呼ばれるこの開祖はひとりの人間とは考えられていなかった。中国の仏、日本の釈迦、シャム[タイ]の仏教僧サンモナコドンが、インドのブッダと同一であることが判明してはるかのちになっても、ブッダはせいぜいアジアの周辺諸地域に生き延びた正体不明の偶像崇拝の父とみなされたにすぎなかった。ボード、ブードあるいはブッドゥは、古代的[アルカイック]な迷信の生みの親とされていた。その輪郭のはっきりしない漠然とした崇拝は、興味をひくこともなく、心配の種になることもなかった。その偶像は、知識と知恵の古代的で一般的な表現を体現したものと信じられた。それは、固有の存在をもたないもの、人間の現実とはかかわりのないもの、歴史のなかに明確な場所をもたないものとみなされた。ブッダの実際のありよう──伝説なのか史実なのか──や、教義の具体的な内容、バラモン教諸派との差異、アジア一帯へ伝来した経路といきさつといったものは、関心の対象にならなかった。

 これらの疑問がなかったわけではない。ただそれは、おおやけにされるまでもなかった。というのも、ありとあらゆる答えがすでに用意され明白であるとみなされていたために、疑問を発する余地が残されていなかったのである。用意された答えから生まれたのは、区別や限定や個別化ではなく、ある種の要求であった。[疑問どころか]逆に、同一性の認識、同一視への欲求を満足させようとする傾向があった。著作家たちは重ね合わせひとまとめにする作業に従事した。彼らはたえず、一見したところばらばらなイメージ、形象、手がかり、名前のあいだに、新たな一致を見出していった。文献学の発展によって実証的できちんとした知識がもたらされるまで、ブッダの問題は、ある意味で修辞学の問題にすぎなかった。つまり、この名前がなにをさしているかをみきわめることよりも、この名前をあるカテゴリーのなかに位置づけることが重要だったのである。

 十七・十八世紀には一般的だったこの種の理論構築は、ジョージ・スタンリー・フェイバー[一七七三〜一八五四。イギリスの神学者]の『異教の偶像崇拝の起源』(一八一六年)のようなのちの書物にもまだ残っている。彼はすでに長い伝統をもつ言説を、彼なりのやり方で要約している。「原始のブッダとは、ヴィシュヌ、シヴァ、オシリス[古代エジプトの神]と同じものである(1)」とフェイバーは述べている。なぜなのか。いかなる資料によって、いかなる論証によってそう断定できるのか。こうした疑問は、実のところ、適切なものとはみなされなかった。さまざまな名前で呼ばれているものが、じつは同一の存在であると指摘することだけが重要であった。同書の別の箇所で、そのことが確認できる。そこでは、「トトとブッダはイドリスと同じ神格である」とか、さらには、ブッダとヴィシュヌとノアは、じつは同一人物であることがわかるとされている。といってもジョージ・スタンリー・フェイバーは頭がおかしいわけではない。何十冊もの書物が、ブッダをヘルメス、メルクリウス、ノア、モーゼ、トト、オーディンないしウォータン[ゲルマン神話の最高神で北欧神話のオーディンに相当する]と同一視した。こうした同一視が物語るのは、ブッダという人物像がなによりもまず「原始の世界」に属するものと考えられたということである。・・・・


第二章 ブッダの正体

 一八一七年、パリで、こんにちでは忘れ去られてしまった一冊の薄いパンフレットが刊行される。作者は不明で、その文章が言及されたこともほとんどない。しかしながら、この小冊子は、ブッダをどのようにとらえるかという点で、根本的な変化の兆しを告げる。

 無知と迷信によってまつり上げられていた祭壇から降ろされたビュッドゥは、卓越せる哲学者であり、自分の同胞たちの幸福と人類の安寧のために生をうけた賢者なのである。
 ミシェル=ジャン=フランソワ・オズレー『東アジアの宗教の開祖ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』(パリ、一八一七年、一一一頁。)

 「この神は人間であった」。この文章は断絶を、神話から歴史への移行を告げるものである。そればかりではなく、「ブッダ」が神聖な力の呼び名ではないとするなら、仏教[ブッディスム]は伝統的な意味での「宗教」にはあたらないのかもしれない。引用したことばは一八一七年にパリで刊行されたミシェル=ジャン=フランソワ・オズレーの『…ビュッドゥあるいはブッドゥにかんする研究』(1)と題された小冊子からとったものである。これはフランス語で「仏教(bouddismet:原文表記のまま)」という単語を「ブッドゥの宗教」をさすために使った最初の著作のひとつで、著者はそれを「多神教という宗教上の主要な錯誤」と対立させている(2)。その点をのぞけば、この著作にはとくに注目すべき理由はほとんど見当たらないであろう。こうした著作には東洋学の発見も純粋に哲学的な分析もふくまれてはいない。ブッダにかんして著者はなんら新しい情報はもっていない。この著作に引用されている文献は、ラ・ルベール、ド・ギーニュ、ソンヌラ[一七四八〜一八一四。フランスの博物学者]、ケンプファー[一六五一〜一七一六。ドイツの生物学者。医師として日本に滞在し『日本とその歴史』を書く]、パルラーズ[一七四一〜一八一一。ドイツの探検家]、サン・バルテルミーのパウリヌス……といったもので最新とはいえない。その参考文献は、小冊子の刊行直前の二十年間に起こったインド学の発展よりも以前のものにかぎられている。野心的な業績であることを公然と予告する、この小冊子の冒頭の口調からうかがえるのは、分別ざかりの年齢に達していながら、まだ計画されたものと実際の成果の区別もつかないような著者の姿なのである。

 けれども、無意味にみえるこの短い文献は、じつは問題のパースペクティブが根底から変化したことを示している。たしかにこの著者が、その変化を「作りだし」たわけではない。しかし、彼が「ビュッドゥあるいはブッドゥ」の考察に割いた百ページほどの文章は、表面的には平凡ではあるものの──当時はまだ好奇心の的であり、将来は学術的研究の新しい対象ともなるこの存在にふさわしい名称はどうあるべきか、表題で迷っている点まで含めて──、今でもヨーロッパの関心をひき続けているブッダの新しい顔の最初のスケッチとなっている。この小冊子のなかに集められている要素こそ、その後何年間も支配的になる新しい通念の材料となるものなのだ。したがって、この小冊子は、それが示している変容のうちの主要なものを把握するためのひとつの実例、あるいは、ひとつの徴候と言うべきものなのである。

人間以外の何者でもないもの

 最初に示されたことは、まだ名称も定まらない人物の、人間としての性格、とりもなおさず歴史上の存在としての性格にかかわっている。この人物は「神格化された人間」(4)であって神ではない。「神格化されたブッドゥを、不死性から生じる神と混同してはならない。ブッドゥの伝説のなかには、その伝記的事実がいくつか跡をとどめている(5)」。この指摘が出発点となって、さまざまな神話の神々に分かれる以前の同一視はすべてしりぞけられた。ラ・ルベールや、とりわけサン・バルテルミーのパウリヌスのように、ブッダとは「天の聖霊、学問と知識の神メルクリウス」にほかならないなどと信じ込むことは、「思慮のたりない判断」(6)を慎むべき領域にもちこむことなのである。M・−J・−F・オズレーは新しい事柄の報告などひとつもしていないし、証拠となるものをほとんど持ちだせないまま断定的に自説を述べているだけなのだが、大胆にも、「この人物の正体にかんしてはいかなる疑問の余地もない(7)」と記している。

 唯一の論拠としてとりあげられているのは、セイロンからチベットにいたるさまざまな寺院にみられる、同じタイプの仏像にかんするものである。この像は、かつてサン・バルテルミーのパウリヌスが、ブッダとメルクリウスの同一性という、正反対の結論を導きだすための証拠として持ちだしたものであった。ようするに変化したのはその時点で手に入る情報の内容そのものではなく、情報の見方であり、情報の意味づけの仕方なのである。その数年前にはブッダ=メルクリウス説の証拠として持ちだされたのとまったく同じ伝承、まったく同じ手がかりが、ブッダは人間であるという主張の根拠となった。ブッドゥはあいかわらず「アジアの宗教の創始者」とされている。けれども、もはや神としての本質をもってはいない。

 これによって─新しい事柄だが─天啓宗教[教祖が神からの啓示を受けたことではじまった宗教のこと]はそっとしておかれることになった。ブッダの人間としての実在だけを想定し、そのアジア的な特異性の研究にむかうということは、「原始の世界」という主題系と「最初の啓示」という主題系を結びつけていたものに別れを告げるということである。古典主義の時代におけるのとは正反対の姿勢をとったオズレーは、ブッダが最初の啓示によってか、さもなければなんらかの仲介によって聖書の知識をひろめるのにあずかったと推測する、いっさいの議論をまえもってしりぞけた。オズレーはこう述べている。「ビュッドゥはもっとも権威ある最古の伝統を託された人間だというわけではまったくない。世界の搖籃期に、モーゼがわたしたちを導き、創世の偉業をよく見せてくれた松明の光の下を、ビュッドゥはまったく歩いてはこなかった(8)」。しかしだからといって、この「立法者」が「うつくしく厳かな格言」によって迷信と戦い、それを抑えつけたという事実はいささかも揺るぎはしないのである。
 ここに新しい見方が登場する。この「名高い人物」は、神でも預言者でもないが、ただたんにどこにでもいる俗人というわけではない。哲学者なのだ。この哲学者ブッダという肖像はその後十九世紀末まで消えることはない。・・・



第三章 浮上する信仰

ほぼ三十年(一八〇〇年―一八三〇年)のあいだに、仏教の世界が、多様ではあるが統一されたものとして姿をあらわす。東洋学者たちによって、ブッダへの信仰がバラモン教よりも後世のものであることがあきらかにされる。彼らは、仏教が中国・日本・チベットへ伝来した歴史を描き出し、経典の解読に着手する……。虚無の教義なのか? 学者たちは「まったくちがう」と言って、それを一蹴する。

ブッダの宗教に関連する問題は、好奇心をあおるだけのひまつぶしなどではないのだ。
『ル・グローブ』紙 一八二九年十一月二五日水曜日付

 一七九九年。「ビルマの宗教と文学について」というフランシス・ブキャナン[一七六二〜一八二九。イギリスの軍医、植物学者]の研究が『アジア研究』誌第四巻に発表された(1)。数年後、この文章はヘーゲルやショーペンハウアーの目にとまる。この長大な論文は、バラモン教徒と仏教徒のちがいを力説し、また、パーリ語原典にもとづくビルマ語経典に影響を受けた最初の文献のひとつである。とくに、涅槃[ニルヴァーナ]という観念を、魂の消滅[アネアンティスマン]でもなければ、神聖な本質への融合でもない独自なものとしてとらえた最初の学問的アプローチだった。その反面、この論文の成立事情をみてみると、十八世紀から十九世紀への変わり目にあって、まだ確立されていないこの研究分野のおかれた状況をつぶさに物語る格好の例であるといえる。ブキャナンは、じつはビルマにはごく短期間しか滞在していないし、ビルマ語を話すこともできなかった。彼はビルマを訪れた際に、当地のシムズ大尉[一七五三〜一八〇九。イギリス大使館付武官]によって、イタリア出身の宣教師ヴィンチェンティウス・サンジェルマーノ[一七五八〜一八一九。イタリアの宣教師で、ビルマに派遣される]のラテン語原稿を託された。この宣教師はパーリ語から二つの仏教経典を訳していた。ヴィンチェンティウスはさらに、宣教活動を円滑にすすめるには敵の主張に精通していたほうがよいと判断したのであろう、キリスト教の宣教師たちの渡来をきっかけとして、仏教の高僧たちがキリスト教徒を仏教徒へ改宗させようと意図して書いた文章も、ビルマ語からラテン語に翻訳している。ブキャナンはこの三つの原稿からひとつのテクストをまとめあげ、そこに自分自身の見聞と考察をくわえて、ラテン語を英語に翻訳した。原典と西洋の読者のあいだに幾重にも翻訳というフィルターがかかり、観察者自身の判断がまぎれこんでいるために、仏教の教義はばかげた、常軌を逸したものとみなされている。

 それから三十年後の一八二九年、フランスの『ル・グローブ』紙は、十一月二十五日水曜日付の一面全部を使って、「仏教について」と題する記事を掲載した。それは次のような文ではじまっていた。「近年東洋学はヨーロッパ諸国民のあいだで飛躍的な進歩をとげた」。このときから、基本的な点が確認され、バラモン教と仏教の相互の位置関係も大筋において確定された。「仏教の歴史と教義についてわたしたちがこれまでに知りえたところからみて、インドにおける仏教の、この広大な国の支配的宗教に対する関係は、ヨーロッパにおけるカトリック信仰に対する宗教改革の関係にほぼひとしいものであった」。記事の著者は、その後にこの判断に含みをもたせ、こうした比較論から生まれかねない誤解をふせごうとしているが、仏教の原始的で素朴な性格や、バラモン教よりも古いといった見方はすでに過去の学説とされている。同様に、学者たちのあいだで仏教のインド起源説を支持する意見が多数を占めていくとともに、空想的な同一視は否定されることになった。「ブッダを〔エジプトの〕メンフィスの神官と考えたケンプファー説、北欧神話のウォーデンないしオーディンと同一の神格に見立てたW・ジョーンズなどの学説は、こうした大家の輝かしい権威にもかかわらず、受け入れることができないのはあきらかである。ブッダを髪の毛の縮れた姿にかたどった無数の像も、ブッダのエチオピア生まれを示唆するものではありえない。東洋にかんする古文書学上の新たな発見は、ブッダをインド出身とする通説を反駁の余地なく裏づけている」。この「通説」という発想自体、複数の専門家の存在を示している。この記事の匿名の著者(2)は、東洋学における多様な領域から仏教の解明をはじめた一連の仕事をもっとも信頼している。それは、フランスの中国学者ジャン=ピエール・アベル=レミュザ、パリ在住のドイツ人でモンゴル文化の専門家ユリウス・フォン・クラプロート[一七八三〜一八三五。ドイツの言語学者、探検家]、ヒマラヤ地方に数多くのサンスクリット語文献が保存されていることを世に知らしめたイギリスのネパール公使ブライアン・ホートン・ホジスンらの研究である。

 ブキャナンの論文と『ル・グローブ』紙の記事――先述のとおり両者のあいだにはちょうど三十年のへだたりがある――のあいだに、ひとつの知が形成されはじめた。「仏教」が生まれ、それとともに「虚無信仰」が生みだされた。実際、一方では教義の学術的な研究が、他方では、ニヒリズムのさまざまの意味領域に対する関心に導かれた教義の解釈が同時に成立し、その後は協調しあうようになった。十九世紀末まで、どちらか片方が先行するということはなかった。東洋学の専門家たちの実証的な仕事によって、頑固な誤解や恐怖心から生まれた妄想が一掃されたと思うのは誤りである。事態はまったく逆で、彼らのもっとも客観的な仕事が幻想を刺激してひとびとを夢想へといざない、妄想をかき立てた。深い断絶が存在するのはたしかだが、それは、言語学者や歴史学者のしぶとい我慢と、哲学者たちの作り話のあいだに存在するのではない。数十年間にわたって、後者は前者を糧としていくことになるのである。

新たなる問題
 
 唯一の真の断絶から、それまでは存在しなかった問題が生じた。ブッダの正体、その名前の意味、生没年、教えの特徴といった事柄が研究の対象となった。仏教はいかなる理由でインドの地から消え去ったのか、いかなる経路によってアジア大陸に広まったのかが問題となった。こうした問題が明確に示されたときに、「仏教」が西洋の意識にとってありうべき知の対象として誕生した。くわしくは後述するが、これらの問いがすべてただちに答えを得られないということはたいして重要ではない。ここで本質的なことは、問いそのものが立てられたということである。それは、新たな研究領域を定め、境界をはっきりさせることによって、その存在を明確にした。次々に生まれてくるこれらの疑問は、実際にはいくつもあるというわけではない。それはひとつの疑問の周囲にあるバリエーションにすぎない。つまり、仏教とは何かということが問題なのである。
 この疑問が明確に立てられてからも、答えの方は相変わらず不明確なまま、当惑は増し、無知があらわになった。仏教についての疑問は、そのままだった。・・・



第四章 虚無としての神

最後にヘーゲルが登場する。彼とともに、一八二〇年代末に、虚無信仰の神話が生まれる。ヘーゲルはこのイメージをどこで見つけたのか。この哲学者は、そのイメ―ジにいかなる意味をあたえるのか。

仏教徒がすべての原理、究極の最終目標、すべての究極的な目的としている虚無は、これと同じ抽象なのである(1)。ヘーゲル『エンチクロペディー』八七節(一八二七年版)

 ヘーゲルは東洋学の発展になみなみならぬ関心を寄せていた。ペルシャ語・サンスクリット語・中国語の各言語圏にかんする学術的な著作が刊行されるごとに、それらを精読した。彼の東洋にかんする講義は、芸術や宗教、あるいは世界史にかんするものであれ、自分で直接集めた資料にもとづいていた(2)。入手したデータのなかには、自らの体系の展開のなかに組み入れることのできるように、彼がときには大幅に手を加えたものもきっとあったことだろう。けれども彼の情報はおおむね驚くべきほど正確である。仏教にかんして、ヘーゲルは一八二七年の時点で、ブッダが少なくともインドにおいては歴史上の実在の人物であったとはっきり認識している(3)。彼はまた、その教義のインド起源、その後のインド国外への伝播、さらにはブッダの信者たちの人数がおそらくはイスラム教徒やキリスト教徒よりも多いということも知っていた。

 けれども、当時産声を上げたばかりの仏教研究からヘーゲルが得た主要な知識は、彼が「仏教徒の虚無」を強調することを妨げるものではなかった。実際、彼の目には、虚無(Nichts)こそが、仏教の教義と信仰の主要な特徴と映った。ヘーゲルは哲学的な想像力のなかに、ブッダと虚無との結びつきをもちこみ、それはその後数十年間にわたって存続することになる。こうしてヘーゲルは、ブッダのものと推定された教義の内容と魂の消滅[アネアンティスマン]をめぐる主題系とのあいだに一種の必然的な結びつきを打ち立てることによって、仏教とニヒリズムの長期にわたる多様な同一視を生み出すこととなった。では、この両者の関係はどのようにして定着したのだろうか。いかにしてヘーゲルは、当時の文献学者たちのもたらした情報―それは不完全ではあったが、実証的であった―に背を向けて、虚無信仰という観念を前面に打ち出すことになったのだろうか。

 誰もこの問題の存在に気づかなかったようにみえる。おそらくその理由は、ヘーゲルが仏教について書いたものは、彼のバラモン教や「花の宗教」の研究ほど知られていないということにある。研究者たち(4)の関心をいちばん強く引きつけたのは、ヘーゲルの体系のなかで仏教にあたえられた位置づけの変化であった。ヘーゲルが最初に仏教をとりあげたのは、一八二二年から翌年にかけての歴史哲学の講義においてである。・・・



脅威(一八三二年〜一八六三年)

 一八三二年。ウージェーヌ・ビュルヌフがコレージュ・ド・フランス教授に着任。この時を境に、東洋学の諸領域からの情報を総合した仏教の科学的研究がはじまる。

 一八六三年。虚無信仰をめぐる論争がフランス、イギリス、ドイツで頂点に達する。


第五章 虚無への恐怖

まずパリに恐怖がひろまった。コレージュ・ド・フランスのウージェーヌ・ビュルヌフによって仏教研究は科学の時代を迎える。けれどもカトリック陣営や心霊術者[降神術などを使い、霊的な存在との交流の可能性を主張する論者]はこの虚無の教えのなかに、ヨーロッパを虎視眈々とねらう「悪の原理」をみてとった。

不幸にも時代は、仏教の根底をなす教えがわれわれのあいだで特段に人気を引くことを望んでいる。
ジュール・バルテルミー・サン=チレール『ブッダとその宗教』序 六頁

 ひとりの男性を想像していただきたい。年はまだ若く三十歳くらい、顔はほそおもてで、やや長めの硬い髪、肌は青白く、目つきは非常に鋭い。彼は、「今世紀初頭から古代インドおよび現代インドの言語・哲学・宗教についての疑問が引き起こしてきた増大する一方の関心(1)」について語っている。ヴェーダのサンスクリット語から、それとは非常に異なる仏教の論述に使われるサンスクリット語にいたるまで、その多様な形態をことごとく修得した彼は、その言語を教えることになった。一八三二年、パリのコレージュ・ド・フランスで、三十一歳の天才が、レオナール・ド・シェジィ[一七七三〜一八三二。フランスの東洋学者]の後任としてヨーロッパ初のサンスクリット語講座を担当することになった。彼の名はウージェーヌ・ビュルヌフ。輝かしい知性の輩出したこの世紀のなかでも最良の知性のひとりである。空前絶後の能力によって、わずか数年で、彼は多岐にわたる仕事のひとつとして、仏教の科学的研究の基礎をかためていく。一八二六年に、彼はすでにクリスチャン・ラッセンと共同でパーリ語の解読にとりかかっていた(2)。この仕事によって上座部仏教の経典の解読が可能になり、仏教理解への重要な道が切り拓かれた。のちに彼は、一八三六年にブライアン・ホートン・ホジスンがネパールからもたらしたサンスクリット語写本を目にすることになる。こうして彼は、シュミットがモンゴル語文献について(3)、レミュザが漢籍について(4)、ホジスンがネパールの仏教について、クソマ・ド・ケレスがチベット地域について(5)織り上げていた糸を、インドの源流へと結びつけたのである。

 一八四四年、ビュルヌフは『インド仏教史入門』(6)というひかえめな題名を冠した大著を発表し、ブッダの教えにかんして初めて厳密な説明を加えたが、それは当時において可能なかぎりブッダの教義を再構成したものであった。「これこそが仏教の教義の混沌を照らし出した豊かな光源であり、そこに秩序をもたらしたのである」(7)と、のちにビュルヌフを偲んでジュール・モール[一八〇〇〜一八七六。フランスの東洋学者]が『アジア雑誌』誌上でこの書物に触れている。この基本的な文献の読者のひとりが、シェリングであった。シェリングは、ヴィクトル・クーザンのフランスとドイツの哲学にかんする著書に寄せた序文のなかで、次のように述べている。・・・



第六章 仏教徒ショーペンハウアー

ショーペンハウアーは六十八歳のときに一体の仏像を入手し、それに金箔を張る。仕事の締めくくりにあたってはじめて、仏教とペシミズムと存在の否定がひとつに結びつけられる。

今後、わたしたちのまえにはもはや虚無しか残っていない。
アルトゥル・ショーペンハウアー『意志と表象としての世界』第七十一節

 ショーペンハウアーは仏教徒と見なされていた。同時代のひとびととは反対に、このフランクフルトの哲学者はブッダの教えについて賞賛のことばで語った。彼はこの宗教の「卓越性」を力説し、仏教は「完璧」(1)であると述べた。このペシミズムの思想家は、仏教徒の世界観は「他のすべての世界観のうえに(2)」位置づけられるべきであると評価し、またそれが、霊性の空想上の番付のなかで、「あらゆるもののなかの第一等(3)」になりうると考えた。ようするに、ショーペンハウアーは好意的な評価を惜しまなかった。しかし、こういう発言をしているからといって、ショーペンハウアーが仏教徒の信仰をまるごと受け入れていたということにはならないし、ましてや、その信仰を実践したわけではない。入信ではなく、公然たる共謀だった。後になって、それも驚きをもって、ショーペンハウアーは、彼が仏教徒の根本的な態度とみなしたもののうちに、彼のお気に入りのテーマである断念、慈悲、生への意欲の否定を見出した。さらには虚無の選択をである。

 彼には、生は本質的に苦しみでしかなく、生への意欲の否定こそが意志のなしうる最善の行為であると思えたので、この生への意欲とそれに関連する表象を放棄した果てには、人間には思い描くことのできない虚無しか残っていない。ここでも同時代のひとびととは反対に、ショーペンハウアーは虚無を恐れることを拒む。逆に彼は、虚無のうちに真の哲学たる自らの哲学の到達点をみていた。「知の最後の言葉は、今後われわれにとって、虚無の深淵のなかに沈むこと以外にはない(4)」。彼は『意志と表象としての世界』の末尾でこう述べている。つまり、その歩みの最後の段階として否定にたどりつき(5)、生存を不幸として、存在しないことを好ましい状況としてとらえた哲学者は、また同時にブッダの賞賛者でもあった。キリスト教や社会秩序の擁護者たちが、無神論でニヒリズムで破壊的であるとみなした教義を批判するだけではまだ充分ではなかった。無神論者でニヒリストで挑発的なひとりの哲学者が、ブッダこそが、その先駆者もしくは先祖にふさわしいと主張するところまでいかなければならなかったのである。

 十九世紀の中頃に、ショーペンハウアーに大きな変化が生まれる。仏教はもはや、はるかアジアの奥地においてありえないほど奇妙な現象として発見された虚無信仰ではなくなった。それは、そのばかばかしさや有害な影響を告発していればすむような、たんなる他者の宗教ではなくなった。西洋のまっただなかにおいて、カント以降の哲学の名のもとに、来たるべき時代のための知の最後のことばとして、いまや虚無への意志が求められている。虚無信仰を告発するひとびとは、この時から、十九世紀のヨーロッパの精神のなかにそれを見出し、それと闘わなければならなくなった。改宗させるべき遠方の民族に続いて、壊滅させるべき内部の敵が姿をあらわした。またその一方で、虚無はもはや同じ観念を意味しなくなっていた。虚無を純粋存在と同義ととらえたヘーゲルの場合とはまったく異なり、また、虚無を神と彼岸の不在としてとらえたカトリックの説教家たちの場合ともまったく異なって、新しい意味の虚無は、生それ自体を攻撃する。消滅すべきは、生なのだ。生存を引き延ばしたいという願望は消し去らなければならないし、そもそも意欲そのものを否定しなければならない。つまり、虚無信仰は、もはやたんなる誤った信心、逆説的な空[くう]の崇拝を意味するものではありえない。ショーペンハウアーにならっていえば、これからは、魂の消滅[アネアンティール]こそが至高の行為を意味する。なくすこと、消し去ること、滅ぼすことは、いまや同じ否定的な至高善によってくり返し行なわれる行為となった。・・・



第七章 人種差別の神話

ゴビノーは、仏教徒とはどういう人間であったかを理解したと思いこんでいる。それによると、仏教徒とは、アーリア人種のバラモンたちが昔さだめたカーストの身分をくつがえそうとした人間以下の人間である。しかし彼らの叛乱は失敗した。ゴビノーと、フリードリッヒ・シュレーゲルの言語理論のあいだに関係はあるのか。

インドのバラモン教は、ひどく歪められてはいるが白色人種の原理の正当な優越性をあらわしていた。そして仏教徒は、反対に、下層階級の抵抗を試みたのである。
アルチュール・ド・ゴビノー『人種不平等論』

 アルチュール・ド・ゴビノーは涅槃[ニルヴァーナ]についてはほとんど語っていないが、虚無については大いに語っている。涅槃については、彼はほかの大勢のひとびとと同じように、それを魂の消滅[アネアンティスマン]の同意語とみなしていた。ゴビノーはウージェーヌ・ビュルヌフの『インド仏教史入門』(1)の熱心な読者で、当時のインド学の知識の要点をカバーしていたクリスチャン・ラッセンの『インド古代研究』(2)(一八四七年から刊行)も、彼の愛読書のひとつであった。この読書から彼は、「涅槃」とは「完全な永遠の虚無(3)」であり、仏教は「否定の奈落の底までも(4)」バラモン教を押し進めたものであるという、事実を単純化した、けれども広く流布した結論を引き出した。

 ゴビノーは、彼の著作を通じて、とりわけ『人種不平等論』(一八五三年刊)のなかで、虚無はわれわれの宿命であると再三くり返している。人類は絶滅の危機に瀕しており、歴史は静かに凍りついた空虚へ向かっている。まもなく、もはやなにものも存在しなくなる。この絶滅の原因は、人種の混淆と、そこから生じる原初の純血性の喪失、混血が招く変質、そして連続的な退化の果ての死といったものに求められる。

 この二つの虚無―仏教徒が切望する虚無と、人類がそこへ向かっている虚無―にはほんとうに関連があるのだろうか。ゴビノーにとって、仏教はまぎれもなく虚無信仰であるが、ただ、いままでみてきた虚無信仰とはあきらかに意味合いが異なる。じっさい、彼は仏教的な魂の消滅[アネアンティスマン]の問題を社会的・人種的対立というパースペクティブのなかで考えていた。彼の目には、仏教徒はただたんにバラモン教体制のカーストの解体を望んだだけでなく、社会そのもののあらゆる階級的構造の解体をめざすものと映った。社会的虚無の脅威をもたらす仏教はまた、ゴビノーにとって、人種的虚無の脅威でもある。

 現代の人種差別の元祖であるゴビノーは、じつは通常の人種差別のイメージにはかならずしもあてはまらない。たしかに彼は、いくつかの人類のグループのあいだに根本的な生物学的差異が存在すると公言してはばからなかった。彼は人類の単一性を主張する「単一主義者」を一貫して批判し続けた。彼が人種差別主義者であることはあきらかである。そのことを示すのにいちいち細かい点を持ち出すまでもあるまい。まず第一に、ゴビノーは、「動物学的」意味において複数の人種が存在すると断言している。お互いにもっともかけ離れた(というのは、むろんタイプとしてということであって、地理的・歴史的にへだたったという意味ではない)人間のグループのあいだには、ただ「漠然とした形態上の類似(5)」しかない、と彼は言う。もっとはっきりいえば、「人間というものは存在しない(6)」。[ここ、印刷ではなんらかの強調が必要です]存在するのは、「黒色人種」、「黄色人種」、「白色人種」であり、しかもゴビノーにとってこの順番はいちばん劣ったものからもっとも優れたものへの順位づけという意味をもっている。第二に、こうして彼は生物学的に異なる複数の人種の存在を主張するだけでなく、それらの人種のあいだの格差をも主張しているわけである。・・・



第八章 人類の終末

けっきょく彼らの究極の目的は虚無なのだろうか。「むろんそうだ、そしてこれこそ仏教徒の陥っている誤りであり、おぞましい点なのだ」という者もあれば、「とんでもない、虚無を渇望する者などいるわけがないではないか」という者もいる。論争はヨーロッパに広まっていく。

これまで人間精神は、ほぼわたしたち自身の属する人種だけに認められた。
ジュール・バルテルミー・サン=チレール『仏教の涅槃[ニルヴァーナ]』パリ、一八六二年刊(1)

 次に引くのはあるアンソロジーの一ページである。ここではすべてが結論的に述べられている。文章がみずから語っているので、そこに並んだ逆説にひとつずつ耳を傾ければそれで充分である。おそらくこれは、「虚無信仰」が頂点に達した文章のひとつ、ヨーロッパで仏教をニヒリズムのこけおどしであるかのようにみなしたある時期の言説の、集大成といってよいものである。こうである。

「虚無、あるいは、人間がひからびた死骸の状態にされてしまう極楽といってもよいが、それこそが人生の至高の目的であるとする教義、究極の完成とは連続する生─そこでは人間が創造の到達する最高の終点として提示され、至高の存在の観念はもっとあとの時代になってようやく現われる─の無化であると説く教義、かかる教義はあまりにも異様な現象であるため、われわれの精神はこのような教義が現実に存在しうるなどとはなかなか認めがたい。にもかかわらず、かかる教義は実在する。しかも、このパラドックスをなおさら信じがたいものにしているのは、どうみてもこれまで唱えられた教義のなかで最悪のこの教義が、なんとさまざまな民族に、献身的信仰のもたらす奇跡を信じこませているという事実である。ニヒリズムの教会は、こんにちにいたるまでずっと、これといった分裂もなしに、東洋のもっとも揺るぎない宗教組織であり続けている。これは人間精神の歴史のなかでも類例のない出来事である。仏教は、そのたどった運命の点でも変わっているが、その哲学、その教え、その開祖にまつわる伝説、その聖典類の奇妙な様式といった点に目を向ければ、さらに風変わりである。スコラ的なきわめて抽象度の高い哲学とまったく奔放な想像による夢想をないまぜにしたこの宗教は、はじめは神も立てずほとんど礼拝も行なわなかったのだが、最後には突拍子もない荒唐無稽な神話物語を生み出すにいたった。はじめはもっとも哲学よりだった宗教、そして現代の学者のなかに、究極の知のことばをそのなかに見出したかのように主張するグループまで存在するこの宗教は、その後、民間信仰のなかでももっとも粗野なものに転落した。われわれのあらゆる本能に逆らって、仏教は、あたかも、自然の秘められた闇の部分がふと顔をのぞかせるあの恐るべき天変地異のごとく、なにかえたいのしれない病的な魅力をふるうのである(2)」。

 一八五一年、右のように始まる若きエルネスト・ルナンの論文を受け取って、『両世界誌』の編集長だったビュロスは驚愕した。彼は仏教徒の存在すら疑ってかかった。「これほど無知蒙昧な」人間など存在するはずがない、と彼は言ったと伝えられる。虚無信仰という具体的なイメージによって、人間の単一性そのものが疑わしくなったように思われた。なにしろ仏教の諸特徴は、ふつうわれわれが正常と考えているものと、まるでくいちがっていたからである。考え方としては三つの選択肢があった。まず、仏教徒は実在しない、というもの。次に、仏教徒は実在するが彼らは人間ではない、というもの。そして、人間性の定義自体を見直すべきだ、というものである。それ以外の可能性を考えた者はほとんどいなかった。それ以外の可能性とは、すなわち、この虚無を信仰するひとびとに着せられたおぞましさの汚名を晴らし、新たな目で彼らの教義と宗教儀礼を見直し、しんぼうづよく少しずつ理解していこうとする、あるいは、いっそ理解するのをやめてしまうことである……。ルナンは、こうした立場をとらなかった。逆に彼は、ブッダの弟子たちを正常な範囲から逸脱したものとみることを強く主張し、彼らをニヒリズムのなかにふくめて考えることを促した。ブッダは「インドの無神論のキリスト」である。その教義は、「ニヒリズムの福音書」(3)である。ルナンは、「かかるニヒリズムに対して、われわれは憤りを覚える。われわれの考えでは、存在とは善であるからである。ところが、インド人にとって、存在は悪であり、安息、非存在が最善なのである(4)」。とつけくわえている。

 それゆえ、このルナンの描くニヒリズムのインドでは、おのれ自身を一切の信仰もろとも破壊することによってのみ、至高の浄福へ到達しうる。「このようにして、なにも存在しないと言いきり、自分自身の人格を捨て去り、休息さえもふくめて一切なにももとめず、すべてが、ブッダの法さえもが虚しいと悟るにいたったとき、ひとはブッダとなる(5)」。あえていえば、唯物論、懐疑論、無神論が、この怪物的な仏教の母体である。・・・



衰退(一八六四年〜一八九三年)

一八六四年。学術研究が増加する。ニヒリズムとささやく声はまだ尾を引いているが弱まっていく。

一八九三年。シカゴで世界宗教会議が開催される。ひとびとは文学における厭世主義の気分を背景として、教会一致運動・折衷主義・オカルティズムの共存する時代の到来を夢見る。仏教は恐怖をあたえるものではなくなる。

第九章 仏教的衰弱

イポリット・テーヌは仏教のうちに、消滅への願望とは異なるものを見出した。それは、感情の歴史におけるひとつの革命である。ニーチェはヨーロッパにおける新しい仏教の誕生を告知し、それに宣戦布告をする。

新しい仏教の蓋然性。最大の危険。ニーチェ『権力への意志』

 仏教関係の著作のなかで、一八六〇年から一八七〇年までの十年間にヨーロッパでもっともよく読まれ、いちばん頻繁に参照されたもののひとつが、カール・フリードリッヒ・ケッペン[一七七五〜一八五八]のドイツ語による著作『ブッダの宗教』(1)であった。著者はフォイエルバッハの弟子にあたる自由思想家で、ヘーゲルの流れを汲む歴史概念を信奉し、またそれと同時に、あらゆる宗教組織とその影響力に対する闘争の闘士でもあった。彼の仏教に寄せる個人的な共感は、彼が仏教のうちに認めたつぎのような特徴にもとづいていた。すなわち、純粋に人間的な解脱をかかげていること、そして、人間の置かれた地理的・社会的位置とは無関係にすべての人間の平等をたからかにうたっていることである。ケッペンは、ブッダが開始した「倫理革命」について語っている。この著作は、また、仏教にかんする既存の知識を総合する意図ももっていた。二巻からなるこの書物には、未発表の新たな情報は含まれていない。材料となったのは、東洋学者たちの仕事、とりわけ一八四四年に刊行されたウージェーヌ・ビュルヌフの大著『インド仏教史概論』(2)であった。こうした出典にほぼ忠実な、当時の知識の概観ともいうべきこの書物は、この種のものとしては成功作であるといえる。ケッペンは三十年間に発表された研究の大部分にじっさいに目を通し、それらをまとめるにあたって、歪曲せずにその内容を手際よく要約している。
 当時この著作が成功をおさめた原因は、おそらく著者ケッペン自身による考察よりも、むしろこの点にあったものと思われる。じっさい、この著作はこんにちではすっかり忘れ去られており、J・W・デ・ジョンやヴィルヘルム・ハルプファス(3)といった碩学たちの著作にさえこの書名を引用してはいないほどであるが、一八六〇年代のドイツでは、まぎれもなく基本文献のひとつに数えられ、ショーペンハウアー、ワーグナー、ニーチェといった錚々たる顔ぶれが、読者としてその価値を認めていた。

 たとえばショーペンハウアーは、一八五八年三月十四日にすでに「愛弟子」アーダム・フォン・ドス宛ての書簡でつぎのように述べている。「ケッペンの仏教は、概説としてまったく完璧なもので、たゆまぬ努力と博学[フライス・ウント・ベレーゼンハイト【ル】]の証しです。彼はなんでも知っているのです(4)」。だからこそ、ショーペンハウアーが一八六〇年に執筆途中で亡くなり、没後の一八六七年になってからフラウエンシュタットの尽力で刊行された『自然の意志について』第三版において、『中国研究』と題する一章の詳細な注─「仏教についてより専門的な知識を得たいと望む向き」を対象として、ショーペンハウアーが推薦図書を列挙したもの─に、ケッペンの著作が追加されているのをみてもなんら怪しむにたりない。ショーペンハウアーが読者に薦めているもののうちの最後、二十六番目に登場するこの書名に対しては、著者にへつらったりご機嫌をとろうとするような批評家の手によるものではないだけに、いっそう賞賛のことばとして重みのあるつぎのようなコメントが付されている。「仏教にかんする完璧な概説[…]、膨大な読書にもとづいて、たゆまぬ研鑽と勤勉、知性と洞察力によってまとめられた著作であり、仏教の本質的な部分をおさえている(5)」。

 ワーグナーの評価は異なっていた。ケッペンの著書は、ワーグナーがビュルヌフの仕事から思い描いていた仏教のイメージと、ことごとく衝突するものであった。・・・



第一〇章 ペシミズムの時代

存在しなくなることを願い、世界のわびしさにうんざりし、すみやかな死を求める作家たちがいる。彼らは自分の心の迷いをたんねんに記録し、熱をこめて虚無をうたいあげる。

エチエンヌとサチュルナンは立ち去る決心をつけかねていた。「虚無が存在にしみこんでると思いませんか」とサチュルナンがエチエンヌに言うと、彼はこう答えた。「むしろ存在のほうが、虚無をいっしょにひきずっているんじゃないかな」レイモン・クノー『はまむぎ』

「わたしは、存在者と呼ばれる幻影の群れがすべて呑み込まれていく巨大な仮借ない深淵の存在に気づいた。生者とは、死者の灰でできている地上をつかのま飛びまわって、鬼火が地面に吸い込まれるように、永遠の夜の闇のなかにすぐに帰っていく幻にすぎないことがわかった。わたしたちの喜びの無意味さ、生存の空虚さ、わたしたちの抱く野心のむなしさを思うと、わたしは軽い嫌悪感で胸がいっぱいになったものである。後悔が失望となり、わたしは最後には仏教まで、あらゆるものごとに対する倦怠感にまで押しやられた。」一八六九年にアミエルが書いたこの断章は、ジュネーブで一八八二年に刊行された彼の日記の初版に含まれている(1)。彼の瞑想においては、仏教はつねに虚無と関連するものとして考察されているが、もはやおぞましい恐怖感はともなわない。嫌悪感は緩和され、仏教は倦怠感にすぎない。絶望感は、いまや一種の持続する生活形態として、たしかな慰めとして育まれてでもいるかのようにみえる。アミエルについて、哲学者のシャルル・ルヌヴィエは、「仏教哲学」は「彼の気質にあっている」(2)と書いているが、これはそもそもアミエル自身が認めている。「わたしの生まれつきの性向は、ブッダやショーペンハウアーのペシミズムに同調する(3)」。

 生まれつきの性向というのは、じっさいには自然の力よりも時のめぐり合わせをさしているに近い。ペシミズムとショーペンハウアー哲学と仏教は、十九世紀末の数十年間には渾然一体となって流行し、結局どれも同じものをさすようになった。ニーチェが、仏教が受け入れられる理由として看破したと信じた、臆病で頭は冴えている疲労状態は、ニーチェの同時代のひとびとに認められた。つまりそれは、アミエルの場合にも、身体の力のなんらかの欠如や、生体組織の損傷によるものとされ、この時代全体を暗くしてしまうものとみなされた。このように考えられた衰弱は、しかしほかの可能性が一切ないほど普遍的なものではない。そこにはまだ躊躇や葛藤の余地が残されている。現に、ルヌヴィエは、アミエルの性質には裏表があり、ふたつの原理の葛藤があるとみている。「アミエルがもっと東洋的で、もっと深く仏教に帰依していたら、行動を夢見ることなどなく、ひたすら瞑想生活に没入していたことだろう。逆に、もっと西洋キリスト教文明のバックボーンがしっかりしていたら、彼は夢想の酩酊状態を振り捨てて、生活の闘いのなかに身を投じていたことだろう(4)」。重要なのは、この診断がたまたまあたっているようにみえるということではなく、そもそもアミエルの事例それ自体でもない。重要なのは、ヨーロッパにおける仏教の表象の内に起こった変化の兆しである。

 憂鬱で陰気な顔つきのブッダを思い描くひとびとがあらわれてくる。ブッダのイメージは、ヨーロッパになじみぶかい姿、つまり押し黙ったまま暗い表情で人間の虚栄をじっとみつめている、陰気な性格の賢者たちのシルエットに似たものとなった。ブッダはもはやほんとうに恐ろしいものではなくなった。シャカムニからやってきた霊感を新しい宗教の構成のなかにうまく取り込もうともくろむ、「新仏教」が出現した(5)。それは仏教とキリスト教の融合を望むようになり、両者の比較、並列、場合によっては両者の止揚に熱意をみせた。仏教はあいかわらず想像上の教義にとどまっていたが、しかしもはや無関係な外部の出来事とは思われなくなっていた。

 こうした新たな事態のさまざまな局面は、ほとんどひとつ残らずアミエルにおいてすでにみられる。虚無信仰はその恐ろしい性格を捨てて、ありうる可能性のうちのひとつの選択肢となった。「自己を消滅させる術とは、くりかえされる再生[すなわり輪廻]の苦しみとぬきさしならない悲惨な境遇から逃れる術であり、涅槃[ニルヴァーナ]に到達する術であって、これこそが究極の術、すなわち解脱の方法であると考えられているらしい。キリスト教徒は神に、『われわれを罪から救いたまえ』と言う。仏教徒はこれに、『そのために、われわれを過ぎ去った人生から解放し、虚無へ帰したまえ』とつけ加える。キリスト教徒は、肉体から解放されれば永遠の幸福のうちに入ることができると考えている。仏教徒は、個人としての存在はあらゆる静寂への障害になると信じており、したがって仏教徒は自己の霊魂そのものが溶けてなくなることを熱望する。キリスト教徒にとってぞっとさせられることが、仏教徒にとっては極楽なのである(6)」・・・

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2007年6月11日

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カテゴリ
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