mixiで趣味の話をしよう

mixiコミュニティには270万を超える趣味コミュニティがあるよ
ログインもしくは登録をして同じ趣味の人と出会おう♪

ホーム > コミュニティ > 学問、研究 > 鳥居龍蔵

鳥居龍蔵

  • mixiチェック
  • このエントリーをはてなブックマークに追加

コミュ内全体

詳細 2014年7月24日 16:50更新

東亜の巨人・鳥居龍蔵。

明治から大正、昭和を経て、我が国、そして東亜の人類学研究にあまりに偉大な足跡を残した。
自ら千万里を踏破し、著作に現すまさに文人の鑑でもある。
ここは、日本の人類学・考古学の偉人・鳥居龍蔵先生を顕彰するコミューンであります。


鳥居龍蔵(とりい りゅうぞう)
1870年5月4日(明治3年4月4日)〜1953年1月14日。
現在の徳島県徳島市東船場のたばこ問屋の次男として生まれる。小学校を中退し、独学で人類学を学ぶ。1893年に東京帝国大学人類学教室の標本整理係として人類学教室に入る。1895年の遼東半島の調査を皮切りに、台湾・中国西南部・シベリア・千島列島・沖縄など東アジア各地を精力的に調査した。中でも満州・蒙古の調査は鳥居と彼の家族のライフワークとも言ってよいほど、たびたび家族を連れて調査に訪れている。妻のきみ子も鳥居の助手として働き、女性人類学者として近年評価が高まっている。
鳥居は最新の技術を積極的に取り入れた研究者でもあった。1896年の台湾調査で初めて写真機を使用している(当時の写真機は大型で、現在のフィルムの代わりにガラス乾板が使われており、携行には不便であった)。1904年の沖縄調査では、鑞管蓄音機を導入して、民謡などを録音している。 鳥居は在野の研究者であり、「民」の立場を貫いた学者であった。学歴はなく、そのためか「官学」である東京帝国大学との対立は根深いものであった。1924年、突如東京帝国大学の助教授の職を辞し、自宅に鳥居人類学研究所を設立したときには、多くの反響を呼んだ。
太平洋戦争前に北京の燕京大学の客座教授に就任した鳥居は、戦争中も家族とともに北京にとどまった。終戦後、日本に戻った鳥居を待っていたのは焼け落ちた自宅だった。書庫だけが焼け残り、貴重な蔵書はすべて無事であった。帰国後の生活は困窮を極め、そのようすが新聞に取り上げられ、励ましの金品が送られてくるほどであった。
鳥居は人類学・民俗学・考古学の草分け的存在で、彼ほど東アジアをくまなく駆けめぐった学者はいない。鳥居の研究テーマの根幹にあったのは「日本人のルーツ」であり、その研究対象は非常に広範であった。そのため、鳥居は後に「総合人類学者」とも呼ばれている。東アジアの各地で、これほど綿密な調査がほかになかったため、鳥居の研究成果と写真は、現在でも第一級の資料となっている。
鳥居の収集した資料は、現在主に徳島県立鳥居記念博物館に収蔵されている。

(ウィキペディアより引用)

コミュニティにつぶやきを投稿

最近の投稿がありません泣き顔
つぶやき・トピック・イベント・アンケートを作成して参加者と交流しようわーい(嬉しい顔)
参加メンバー 15人

もっと見る

開設日
2007年6月10日

3607日間運営

カテゴリ
学問、研究
関連ワード
関連ワードを登録しよう

編集から関連ワードを登録すると、コミュニティがmixiワードに表示されるようになります!