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大槻玄沢・大槻磐渓・大槻文彦

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詳細 2018年6月14日 05:42更新

仙台藩儒として名高い華麗なる大槻一族。
大槻玄沢・磐渓・文彦の大槻三賢人のみならず、その血脈にはあまりに多くの優秀な学者が輩出された。
ここでは、東の大槻家にまつわるエピソードを語り合いたいと思います。
つーか、勉強させてください。


大槻 玄沢(おおつき げんたく)
(宝暦7年9月28日(1757年11月9日)〜文政10年3月30日(1827年4月25日))
 一関藩(田村藩)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、磐水と号す。『解体新書』の翻訳で有名な、杉田玄白・前野良沢の弟子。「玄沢」とは、師である二人から一文字ずつもらってつけた通り名である。
同じ郷里の医師、建部清庵に師事し、早くから医学・語学に才能を示した。後に、建部清庵と手紙のやり取りをしていた杉田玄白の私塾・天真楼に学ぶ。1788年(天明8年)、蘭学の入門書『蘭学階梯』を記したことで、蘭学界での地位を確立した。後年には、師である杉田玄白から『解体新書』の改訂を命ぜられ、『重訂解体新書』を記している。江戸に、私塾・芝蘭堂をひらき、多くの人材育成に当たった。玄沢の弟子としては、宇田川玄真、稲村三伯、橋本宗吉、山村才助の4人は特に名高く、「芝蘭堂の四天王」と呼ばれた。また、毎年芝蘭堂で「オランダ正月」と呼ばれる西洋の暦に合わせた新年会を開いており、ロシアへ漂流した大黒屋光太夫なども招待された。
玄沢以後、大槻氏からは優秀な学者が多く輩出し、「西の頼家、東の大槻家」(ちなみに、頼家は頼山陽で有名)ともいわれた。玄沢の息子に漢学者の大槻磐渓、孫に国語学者の大槻文彦がいる。養賢堂学頭の大槻平泉も同じ一族の出身である。

大槻磐渓(おおつき ばんけい)
(享和元年5月15日(1801年6月25日)〜明治11年(1878年)6月13日))
 江戸時代後期から幕末にかけて活躍した漢学者。父は蘭学者の大槻玄沢。子に国語学者の大槻文彦(「言海」編者)がいる。
蘭学者の玄沢が訳した蘭語(オランダ語)を、当時の学術用語である漢文体の文章に翻訳させるため、彼を蘭学者として育てたという逸話がある。青年期には昌平坂学問所で林述斎らに学んだ。一時期西日本旅行に出、その過程でたずねた頼山陽の賞賛を受ける。父の修めた蘭学にも興味を持ち、藩に長崎遊学を願い出る。しかし当事長崎はシーボルト事件で騒然としており、オランダ人との接触が不可能だったため、その願いはかなわなかった。 高島秋帆の武蔵・徳丸ヶ原の演習を見学したことを機に西洋砲術への関心を強め、後に高島の門人である江川英龍に入門している。 1854年にペリーが浦賀に再来航すると、仙台藩の命を受けて浦和に出向き、見聞きして回った。その過程で彼は中国人通訳・羅森に漢詩を送っており、それを聞きつけた吉田松陰は、黒船に乗り込むための奇策を磐渓に相談したという。
その後故郷の仙台藩に戻って藩校の養賢堂で教鞭をとった。一時期、親族の大槻平泉のはからいで養賢堂の学頭にも就任しており、その発言は仙台藩の執政に対しても大きな影響力を持った。彼の主張は親露開国論であり、アヘン戦争以後、知識人の間ではイメージの悪かったイギリス・アメリカではなく、古くから交流のあったロシアに接近しつつ開国しようという考えである。
実際に、戊辰戦争期での東北地方における諸戦争を指導した仙台藩の但木土佐、玉虫左太夫などは彼の教え子に当たり、彼らを支援して薩摩・長州を中心とする新政府軍に対して徹底抗戦を主張した。仙台藩が奥羽列藩同盟の盟主になると、論客として各藩の参謀と関わりを持った。星恂太郎率いる仙台藩の洋式歩兵隊に「額兵隊」という名を与えたのも磐渓である。戦後は、いたる所で奥羽越列藩同盟の文書起草に関わったことから、戦犯として江戸に幽閉された。
美しい漢文の文章には、当時から定評があり、戦国大名の活躍を記した『近古史談』は、旧制中学校の漢文の教科書としても使われていた。

大槻 文彦(おおつき ふみひこ)
(1847年12月22日(弘化4年11月15日)〜1928年2月17日))
 江戸出身の国語学者で、本名は清復、通称は復三郎、号は復軒。日本初の近代的国語辞典『言海』の編纂者として知られる。宮城師範学校(現・宮城教育大学)校長、宮城県尋常中学校(現・宮城県仙台第一高等学校)校長、国語調査委員会主査委員などを歴任し、教育勅語が発布された際にいち早く文法の誤りを指摘した。帝国学士院会員。
儒学者の大槻磐渓の三男で、兄に漢学者の大槻如電、祖父に蘭学者の大槻玄沢を持つ。幕末には、仙台藩の密偵として鳥羽・伏見の戦いに参戦してもいる。 戦後は、徳川側に付き奥羽越列藩同盟を提唱した父の大槻磐渓が戦犯となった際、兄の如電とともに助命運動に奔走した。
開成所、仙台藩校養賢堂で英学や数学、蘭学を修めたのち、大学南校を経て、1872年に文部省入省。1875年に、当時の文部省報告課長・西村茂樹から国語辞書の編纂を命じられ、1886年に『言海』を成立、その後校正を加えつつ、1889年5月15日から1891年4月22日にかけて自費刊行した。その後、増補改訂版である『大言海』の執筆に移るが、完成を見ることなく増補途中の1928年2月17日に自宅で死去した。
『言海』執筆の過程で、日本語の文法を、英語に即して体系づけてしまったことは大きな---しかし日本語の本態を抑圧したという問題を孕む---副産物といえる。『言海』の巻頭に掲げられた「語法指南」は、これを目的に『言海』を求める人もいるほど日本語文法学の発展に寄与し、後に『広日本文典』として独立して出版された。
19〜20世紀にかけて、英・仏・米・独・伊などの、いわゆる「列強」と呼ばれる各国では、国語の統一運動と、その集大成としての辞書作りが行われた。具体例を挙げるなら、イギリスの『オックスフォード英語辞典』、アメリカの『ウェブスター大辞典』、フランスのリトレによる『フランス語辞典』、ドイツのグリム兄弟による『ドイツ語辞典』などがある。『言海』の完成も、そうした世界史的な流れの一環としてみることができる。
1891年6月23日、文彦の旧仙台藩の先輩、富田鉄之助が主催した『言海』完成祝賀会には、総理大臣伊藤博文をはじめとし、山田顕義、大木喬任、榎本武揚、谷干城、勝海舟、土方久元、加藤弘之、津田真道、陸羯南、矢野龍渓ら、錚錚たるメンバーが出席した。文彦の父、大槻磐渓と親交のあった福沢諭吉も招待されたが、次第書に自分の名前が伊藤の下にあるのを見て、「私は伊藤の尾につくのはいやだ」と、出席を辞退したというエピソードがある。また、彼の著書『伊達騒動実録』は伊達騒動の基本資料となっている。



(ウィキペディアより引用)

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