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穴穂部皇子

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詳細 2015年4月22日 08:04更新

 穴穂部皇子のコミュニティです。穴穂部皇子(あなほべのみこ、生年不詳 - 用明天皇2年6月7日(587年7月17日))は、飛鳥時代の皇族。欽明天皇の皇子、母は蘇我稲目の娘小姉君。敏達天皇の弟。皇位を望み、物部守屋と結託したが、蘇我馬子に殺された。聖徳太子(厩戸王・厩戸皇子)の叔父。法隆寺は穴穂部皇子と崇峻天皇の鎮魂寺であるとする説もある。

[経歴・人物]
 敏達天皇14年(585年)8月、敏達天皇が崩御し、殯宮で敏達天皇の葬儀が行われると、穴穂部皇子は天下を欲し「何故に死する王に仕えるのか、生きる王に仕えない」と憤慨した。
 同年9月、穴穂部皇子ではなく大臣蘇我馬子の推す大兄皇子(用明天皇、母は蘇我稲目の娘堅塩媛)が即位した。穴穂部皇子はこれに対抗するため大連物部守屋と結んだ。
 用明天皇元年(586年)5月、穴穂部皇子は炊屋姫(敏達天皇の皇后、「姿色端麗・進止軌制」と記される美女)を犯さんと欲し、殯宮に押し入ろうとした。先帝の寵臣三輪逆は門を閉じてこれを拒んだ。穴穂部皇子は七度門前で呼んだが、遂に宮に入ることができなかった。
 穴穂部皇子は蘇我馬子と物部守屋に三輪逆は不遜であると相談し、馬子と守屋は同意した。守屋は兵を率い磐余池で三輪逆を包囲しようとした。三輪逆は逃れて、炊屋姫の後宮に隠れた。密告により三輪逆の居所が知られ、穴穂部皇子は三輪逆とその子を殺すよう守屋に命じた。守屋は兵を率いて向かった。これを聞いた馬子は穴穂部皇子のところへ行き、門前で出会った。穴穂部皇子は守屋のところに行こうとしていた。馬子は王者は刑人に近づくべからずと諫言したが、穴穂部皇子は聞き入れようとしなかった。馬子は仕方なくついて行き、磐余に至ったところで、再度諫言した。穴穂部皇子は諫言に従い、胡床に座り守屋を待った。やがて、守屋が戻ってきて三輪逆を斬ったと報告した。馬子は「天下の乱は近い」と嘆いた。守屋は「汝のような小臣の知るところにあらず」と答えた。
 用明天皇2年(587年)4月2日、用明天皇は病になり仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。排仏派の守屋は反対したが、崇仏派の馬子は詔を奉じて助けるべきとして、穴穂部皇子に豊国法師を連れて来させた。守屋は自分が推していた穴穂部皇子が法師を連れてきたことに大いに怒り睨みつけた。その後、守屋は群臣から命を狙われていると知らされて、別業の阿都(河内国)へ退いた。
 同年4月9日、用明天皇は崩御した。後嗣が定まらず皇位は一時的に空位となった。
 同年5月、守屋は穴穂部皇子を天皇に立てんと欲し、密使を皇子に送り、遊猟に出ると欺いて淡路へ来るよう願った。
 同年6月7日、蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯連丹經手、土師連磐村、的臣眞に速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺するよう詔した。その日夜半、佐伯連丹經手らは穴穂部皇子の宮を囲んだ。衛士は楼を登って、穴穂部皇子を襲い肩を斬った。穴穂部皇子は楼から落ちて隣家へ走り入った。衞士らは灯をかかげて探し出して穴穂部皇子を殺した。翌8日、穴穂部皇子と仲が良かった宅部皇子も誅殺された。
 同年7月、馬子は諸皇子、諸氏族の大軍を派遣して、守屋を滅ぼした。

[その他]
 穴穂部皇子の母・蘇我小姉君はペルシア(ペルシャ)人ハーフとする説をあてはめると、皇子はクォーターである。崇峻天皇の同母兄とされ、穴穂部間人(あなほべのはしひと)皇后は同母姉とされるが、穴穂部間人と同じ「穴穂部」を名乗ることから、姉弟以上の関係にあったとも推測されている。
 小姉君が物部氏出身のため、物部氏の土地である「穴穂」育ちの皇子のため、思想的には物部氏の日本神道派であったものと推測できる。そのため蘇我氏の血が濃い割には、育ちが物部のため、物部守屋と組んで皇位を狙い、日本神道を国教に戻そうとしたとも推測できる。崇仏・廃仏で揺れ動く世相であったと思われる。

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2007年5月24日

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