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☆小田原城☆

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詳細 2016年6月19日 10:23更新

お城大好きな人!集まって!!

意外と知らない小田原城の歴史。

今では、お花見の名所、庭園、プチ遊園地、プチ動物園

があって、観光のスポットを浴びていますが、かなり重

鎮なお城なのです。


小田原城に関係することなら、何でもOK!

歴史のお話、観光の思い出など・・・

色々お話したいです。


(小田原城の歴史。)

元々は、平安時代末期、相模国の豪族土肥氏一族である小早川遠平(小早川氏の祖とされる)の居館で、室町時代応永23年(1416年)の上杉禅秀の乱で土肥氏が失脚し、大森氏が奪った。

明応4年(1495年、ただし年代をそれ以後とする説もある)、伊豆国を支配する伊勢平氏流北条早雲が大森藤頼から奪い、以来北条氏政、北条氏直父子の時代まで戦国大名後北条氏の5代にわたる居城として、南関東の政治的中心地となった。

天正18年(1590年)、豊臣秀吉が天下統一の仕上げとして隠居氏政と当主氏直が指揮する後北条氏と開戦し、当時後北条の台頭に対抗していた関東の大名・宇都宮国綱や佐竹義重らとともに小田原城を総攻撃した。一般的に小田原征伐(最近は「小田原合戦」が主流)と呼ばれるこの戦役において秀吉は圧倒的な物資をもって取り囲むととともに別働隊をもって関東各地の後北条氏の支城を各個撃破し、篭城戦によって敵の兵糧不足を待ち逆襲しようとした後北条氏の意図を挫き、3ヶ月の篭城戦の末ほとんど無血で開城させた。この篭城戦において、北条側が和議と抗戦継続をめぐって議論したが一向に結論が出なかった故事が小田原評定という言葉になっている。その後秀吉は国綱とともに下野国宇都宮に陣を移し、参陣した東北地方の諸大名の処遇を決定、秀吉の国内統一事業はこれを持って完成した(宇都宮仕置)。

戦後、後北条氏の領土は徳川家康に与えられ、江戸城を居城として選んだ家康は腹心大久保忠世を小田原城に置いた。以後、17世紀の中断を除いて明治時代まで藤原北家宇都宮氏流大久保氏の小田原藩が小田原城を居城とした。一方後北条氏は、一族の北条氏盛が河内国狭山(現在の大阪狭山市)にて1万余石の大名となって明治に至っている。


(概要)
後北条氏は、居館を現在の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山を詰め城としていた。大森氏も、そうであったと推測されている。第3代北条氏康の時代には、上杉謙信、武田信玄の攻撃を退け、戦国時代屈指の堅城ぶりを誇った。後北条氏の時代に、小田原城は、八幡山から海側に至るまで小田原の町全体を総延長9kmの土塁と空堀で取り囲んだ惣構え(これは後の豊臣氏大坂城の惣構えよりも広大である)をもつ、それまで類を見ない大規模な城郭へと拡張された。

慶長19年(1614年)、徳川家康は自ら数万の軍勢を率いて、小田原城惣構えを破壊させている。地方の城郭にこのような大規模な惣構えがあることを警戒していたという説もある。

現在の小田原城址の主郭部分は、大久保氏時代に造営されたものである。江戸末期には、海岸に3基の砲台が建設されている。関東にしては珍しく、主要部が全て石垣で固められた総石垣造りの城であるが、現在のような総石垣の城になったのは寛永9年(1632年)から始められた大改修の後のことである。2代藩主忠隣の時代、政争に敗れ改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。

その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日の局の血を引く稲葉氏、そして御家再興がなった大久保氏が返り咲いた。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。なお、大名となった支藩(分家)に荻野山中藩・陣屋(現在の神奈川県厚木市)がある。

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2007年3月31日

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